第11話

 それからというもの私は夜中に部屋を抜け出して男の部屋に向かうようになった。


 ほとんどそれは受験勉強の息抜きのようで、私は自分が男を利用しているのだと思うと不意にユウビに対する優越感が湧き上がるのを感じた。


 ユウビは男に恋情を持って会いに行き、恋ゆえの不安と嫉妬に駆られ、見てとれるほどの焦燥に炒られている。しかし私は自分の気分転換の為に、そして父やユウビへの裏切りとして男の元へ行き体を繋ぎ合せる。欲望という名の排泄を行っているのだ。


 それがいかに卑劣で下品な行動かは分かっている。でも、私はそうすることで初めて自分という人間の輪郭を確かに捉えられるのだ。


 父のお人形のような私ではなく、ユウビの隣りのお飾りのような私でもない。見るのも恐ろしく悪臭を放つようなどろどろした塊であること。私は人間が本来あるべき姿を今になってようやく体現していると思った。


 庭の梅が花開き、小春日和の午後にはその香りを漂わせる。平和な香りだ。しかしそう思っているのは私だけで、ユウビは心の平穏からほど遠く、荒れ狂う波に揉まれて時折ため息をついたり、眉間に皺を寄せたりしていた。


 ユウビといる時、男は平然とユウビを無視して自分の友達や知人とばかり話し、約束をすっぽかすことも頻繁にあるらしく、あれ以来、携帯電話の電源は常に入っているが、やはり出ないこともあるという。


 ユウビは憎々しげに、

「無視してんのよ。あったまくる」

 と吐き捨てた。


「他に女がいるのよ、絶対」

 とも。


「どうしてそう思うの」


 私が尋ねると、ユウビは、

「だってどこでなにしてるのか全然わかんないし。モテるんだよね。いつも周りに女がいるの」


「けど、あんたがカノジョなんでしょ」


「……そうよ」


「じゃあ、信じればいいじゃない」


「信じる? そんなこと出来ないわ」


「どうして」


「信頼って実績の上に成り立つでしょ」


 ……どこかで聞いたような言葉だと思ったら、それは父がかつて口にした言葉だった。


 私は睫毛を伏せ、思い返す。要求を受け入れて貰いたければ結果を出せ、権利を訴えるのなら義務を果たせ、信頼されたければ実績を積め。冷たい氷のつぶてのように感じた言葉たち。父の言葉はもっともだと、頭では理解できても泣きたくなる。なんでも出来て当然で、努力のすべてが評価外だということ。成功以外のなにも認められないということ。日々は孤独な戦いの中にあるのだと教え込まれてきた。


「考え過ぎじゃないの」


 私は呟いた。


 私はユウビが嘘をついているのを知っていた。ユウビはあの男のカノジョではない。それは男がそう言ったのだ。では、なぜ男はユウビを騙したのか。いや、実際は騙してなどいない。ユウビの思い込みなのだ。しかし、それ以上にユウビをのめり込ませたのは男の責任だと、思う。


 ユウビは男を信用していないらしいが、男の部屋には女の匂いのするものはなにもなかった。ただ、めちゃくちゃに散らかっていて、埃が積もり、混沌としているだけだった。信頼が実績の上に成り立つというならば、ユウビこそがそれを知るべきなのだ。


「ユウビはあの人のどこが好きなの」

「……」


 ユウビはしばし考えてから、口を開いた。


「トモヤといると本当の自分になれる気がするのよ」


「本当の自分?」


「なんていうのかな……、トモヤといるとなんでもできそうな気がするの。すごく自由で、気持ち良いわ。それはたぶんトモヤが自由な人だからだと思う。そこが好きなのよ」


「ふうん。じゃあ、自由を尊重してあげるのね」


「尊重?」


「約束を守らないとか、かまってくれないだとか、他に女がいるかもなんて縛り付けるのは矛盾してるわ」


「ソウメイには分かんないよ」


「ええ、分かんないわ。当たり前よ。分かるわけないじゃない。私とユウビは違うんだから」


 なんて陳腐なことを言うのだろう。私は呆れて物も言えなかった。自由だって? 本当の自分だって? 馬鹿馬鹿しい。ここにいる自分が自分でなければ、他の誰だというのだろう。嘘も本当もあるもんか。あるとしたら、私とユウビ。二人の間にだけ存在する二人が入れ替わったかもしれない可能性だけだ。


 壁の時計を見ると出かける時間がせまっていた。この前予備校をサボったことは、まだバレていない。恐らくバレることはないだろう。それが私の「実績」だからだ。ユウビが言うところの「いい子ちゃん」な私の信頼。


「じゃあ、行ってくる。なにか買い物とかあれば、寄るけど?」


「リップクリーム買ってきて。メンソレのベビー用の無香料のやつ」


「分かった」


「それから、アンリのマカロン」


「ん」


「あとねえ」


「なによ、まだあるの?」


「コンドーム」


 思わずユウビを振り向くと、ユウビは悪戯っぽい目をして笑い出した。


「冗談よ!」


「……別に必要なら買ってくるけどね」


「冗談だってば!」


 ユウビは依然としてげらげら笑っている。こんな冗談を誰に習ってきたんだろう。いや、考えるまでもないか。


 ユウビは男といると本当の自分になれると言うけれど、私はそうは思わない。そもそも本当とか嘘とかいう発想が好かないのだけれど、もしあるとすれば、今ここで私といるユウビだけが本当の姿だ。それ以外のものを私は絶対認めることができない。なぜなら、所詮ユウビは私の対照としてのユウビなのだから。それは同時に、ユウビの対照としての私だということでもあるのだけれど。


 家を出て坂道を下りながら、ふと通りすがりの家の門のそばに山茶花があるのが目に止まった。枝に蜜柑を半分に切ったものが突き刺してあり、鳥寄せをしているのが分かった。


 自由なんてどこにもないと私は知っているのに、ユウビは知らないのだろうか。

 目白が飛来し、枝に止まる。私は急ぎ足に駅までの道を歩き出した。


 予備校の授業なんて退屈なだけだ。気味悪いほど明るい室内で鼻血が出そうなほど集中すること。確かな成果に結びつける努力のすべてがそこにある。でも、やればやるほど自分の中から夢も希望も奪われていくような気がしてやりきれなくなる。


 スターバックスの前を通りかかり、ガラスに写る自分に目を止める。背中を雑踏が通り過ぎていく。人々のざわめき、車のエンジン音、極彩色の音楽。本当の自分って一体なんなのよ。口の中で呟いてみる。


 私にはユウビの言っていることがまったく理解できない。男にそうまでして自分を委ねようとすることも、嫉妬することも、ましてや自分の行動を恋だと思うことなどくだらないとしか言いようがない。


 ユウビは愚かな女に成り下がっている。私は、違う。私は男に会っても本当の自分になれるなどとは思わないし、男がどこで何をしていようと知ったことではない。私にとって大事なのは、アルコールが恐ろしく甘苦く咽喉を焼くことと、くちづけが優しいこと。肉体の交接は一時的に私から思考を奪うということ。それだけ。


 あの男に会いに行こう。このまま予備校へ行っても勉強する気になんてなれない。私はそう決めると途端に気分が軽くなるのを感じた。


 ビルとビルの隙間に位置するボロアパートの階段をのぼり、男の部屋の前に来るといくぶん緊張したけれど、インターフォンを鳴らして男がドアを開けた時、それは一瞬にして緩んでほどけていった。


「ソウメイ」


 男はやはり私を一目で見分け、


「どうした、予備校じゃないのか?」


「サボり」


「ふうん? まあ、入れよ」 


 男との関係はもっと私を罪悪感に苛むかと思ったがそんなことはなく、ただユウビと同じようにしていると思えばむしろ当然のことに感じられた。


 ユウビはなにも気付いていない。いや、気付くというより想像もしないのだろう。私が男の部屋へ通っているなんて。私は自分にもユウビと同じように嘘をつく才能があるのだなと思った。


「なに飲む?」


 私はその言葉を聞くと妙に安心して、ソファに腰をおろし深く息を吸い込んだ。煙草の吸殻が山盛りになった灰皿や、競馬新聞、くだらない週刊誌、ビールの空き缶。男が大学で専攻しているという英語の教材とレポート用紙。とにかく混沌としているがそれがかえってくつろいだ気持ちにさせる。まるで時間が止まってしまうような錯覚。ここには私を優等生にさせるものはなにもない。


 男はガラスのマグにラムのお湯割りを作ると、

「昼間に来るなんてめずらしいな」

 と言った。


「予備校も面倒で」


「なんだ。会いたかったぐらい言えよ。愛想ないな」


「ユウビはそう言うの?」


「いや」


「ユウビ、あんたが浮気してるって」


「へえ?」


「どこで何してるのか全然分かんないし、無視するしムカつくってさ」


「ふーん。そうか」


「なに、その反応」


「いや。ムカつくんなら来なきゃいいんだよ。なあ?」


「知らないわ、そんなこと。ねえ、それよりも」


「なに」


「浮気相手って誰のことなの? 私だけじゃないんでしょ」


「さあな」


 男はホットラムを飲みながらにやにや笑った。


 男とのセックスは回を重ねるほど我ながら暴力的なまでに勢いを増していく。緩やかに愛し合うのではなく、なにもかもをぶち壊してしまいたい衝動にまみれ、噛み付くようなキスと肋骨をへし折るような強力な抱擁があるだけ。


 私はこれっぱかりも男を恋しいとは思っていなかった。自分の生まれも育ちも、受けてきた教育も、知性もプライドもすべてぶちまけることが気持ちよかっただけで、粗雑に扱われるほど悦びは大きくて何度も男を求めたくなる。


 と同時に私はなぜかカナリアのことを思い出す。ユウビが言うようない自由を私は感じない。それよりも、所詮は籠から出られぬ錯覚を覚えるだけだ。


 籠の鳥の代名詞と言われるカナリアは、外の世界では生きられない。ひ弱で哀れなカナリア。毒ガスの検知や実験動物にも用いられるカナリア。今では父が他の小鳥ではなくカナリアを選んだ理由が分かったような気がしている。


 ラムを飲み終わると私達はストーブの前でセックスをし、事をなし終えると男は裸の身体に毛布をかけてくれ、台所から今度は赤ワインのボトルとグラスを持ってきた。

 グラスは安食堂の素っ気ないガラスコップのようなもので、暗赤色の液体を注ぐも優雅さの欠片もなかった。


 とはいえ、甘い香りと滑らかな舌触りで喉を滑り落ちていくことに変わりはなく、時間が止まればいいと願わずにはおけなかった。外は考えるのもいやになるほどの寒さだ。


「ソウメイ、幽霊を見たことあるか」


「ないわ。ていうか、いるの?」


「いるんだよ、これが」


「怖い話ならやめてよね。そんなの聞いたらうちに帰れないわ。知ってるでしょ、あの家。幽霊出そうに暗くて古い家」


「や、そういうオカルトじゃなくて……。俺なあ、幽霊とヤったことあるんだよな」


「はあ?」


 男は私を腕に入れたまま、奇妙な話しを聞かせてくれた。


 大学三年の夏。たまたまひっかけた女の子とラブホテルに行ったらそこで幽霊に出会った。幽霊は処女のまま死んだことに後悔をしており、自分が抱いて成仏させてやったのだ……。


 あんまり馬鹿馬鹿しいストーリーを展開するから、私は聞きながら途中で何度も笑ったり抗議の声をあげた。


「信じないんだな。やっぱり」


「当たり前よ。信じるわけないじゃないの」


「ユウビもそう言ったよ」


「ユウビは焼餅焼かなかった?」


「幽霊には焼かないだろ。それより、俺のことヤリチン呼ばわり。ひどいよな」


「違うと思ってるの?」


「お前まで言うか」


 男は幽霊にかまけてて大学三年の成績はさんざんで、それが元でダブったのだと言った。女で身を持ち崩すタイプなんだ、とも。


 私はそれは幽霊ではなく、本当は生身の女で、上手くいかなかった恋愛を男が心の中で葬ることによって「幽霊」と言っているのではないかと思った。今の彼がイージーでいい加減で、女ったらしで、誰も愛しているようには思えないのも過去の傷がそうさせるのではないか。


 それに、この話は私とユウビの間を渡り歩くことの理由のようにも聞こえる。自分は誰も好きにはならないし、こんなことにはなんの意味もないのだ、と。


 一体どれだけの女がこの男に執心しているのだろう。ユウビのライバルは死人まで含めるとかなりの数になる。それが哀れだった。


 ぼんやりしていると、男は私の額に唇をつけたまま言った。


「ユウビがそのラブホに行きたいって言い出してさ」


「ユウビが?」


「もう幽霊は成仏していないって言ってもきかないんだよ。あいつはそういうのが好きなのか?」


「……いいえ、そんなことはないわ。でも、あの子がそういう気持ちは分かるけど」


「なんだ、お前も行きたいと思ってんのか」


「そうじゃないけど……」


 ユウビはあんたの過去をほじくって自分が他の女……過去も含めて……とは一線を画すのだとでも言いたいのだろう。でなければ、過去の女の痕跡など誰が辿りたいものか。しかもあのプライドの高いユウビが。どうしてそんなにも特別になりたがるのだろう。そんなことしなくてもずっと自分が「特別」な地位を独占してきたのに。ユウビは貪欲すぎる。


 そう考えた途端、胸に穴があいたみたいで、今にも心臓発作でも起こしそうな冷たい汗が噴出した。


「いつ行くの」


「来週の木曜。あいつしつこいんだよ」


 来週……。その日は入試の日だ。私は平然とした顔で言った。


「泊まってもいつもどおり朝には帰してよ」


 私は起き上がり、脱ぎ散らかした衣類を拾い上げた。


「帰るわ」


「ソウメイ」


「なに」


「俺がユウビと別れたら、お前はどうする?」


「……どうって?」


「それでもここに来る?」


「……」


「お前ら双子はなにを考えてるのかさっぱり分かんねえよ。自分のことだけが大事なんだろ」


 自分だってそうじゃない。私はそう言い返したかった。が、服を着るとソファに横たわる男に屈みこんでキスをした。


 男の言うように、私たちは自分が大事だ。が、自分が大事ということは片割れも同じく大事だということを男は知らない。


 男の質問に答えることはできなかったが、恐らく男とユウビの関係が終われば私もこの男と会うことはしなくなるだろう。そして男はそれをすでに知っているから尋ねたのだろう。私はいっそ男にビッチとでも罵られた方がまだ清々しいと思った。


 部屋を出て急いで家に戻る道すがら、私は繰り返し男と過ごした時間を反芻した。いずれ終わるものと思えば初めてそれらは愛しくかけがえのないものになり、独り占めできたならと思う。自分だけのものなら、私はもっとまともに男を愛するだろう。けれど、もともと男はユウビのものなのだ。先に手を出したのはユウビなのだから。


 ユウビに頼まれた買い物を手早くすませると、私は嫌味ったらしくコンドームを一箱買った。この買い物が父に知れたらと思うと奇妙な笑いがお腹の底から沸き上がって来る。


 私は歩きながら不意に拳を握りしめた。世界など、滅び去ってしまえばいいのにと願いながら。

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