第10話

 連れてこられたのは街から歩いて五分ほどの雑居ビルの隙間に位置する古いアパートの一室で、私は赤々と燃えているストーブの前に座り込んでいた。


 男の部屋はいかにも男の一人暮しらしく散らかっていて、床は掃除された痕跡が一切なく、土足であがりこむようになっていて、めちゃくちゃに踏み汚されたペルシャ風の絨毯があたかも中近東あたりの阿片窟を連想させた。


 男は厚手のガラスのマグにラム酒を注ぎ、さらにお湯をいれて手渡してくれた。熱く濃厚な香りが部屋中にたちこめる。匂いだけで酔ってしまいそうだ。


 私がいつまでもマグを手にしてぼんやりしていると男は隣りに腰をおろし、小皿に乗せた角砂糖とバターを切ったものをお酒の中に放り込んだ。途端にバターが黄色く溶け膜を張り、香りは一層強く鼻を刺激した。


 恐る恐る口をつけると、ラム酒は甘い舌触りとパンチの効いた苦味が瞬時に胸を熱くした。バターの油膜が唇を滑らかにし、ストーブの炎で頬が火照るのを感じる。


「……どうして私とユウビを見分けることができたの?」


「お前ら、似てない」


「そっくりって言ったじゃない」


「そりゃあ最初はな」


「じゃあどうして」


「だから言ってるだろ。よく見れば似てないって」


「私達を見分けることができるのはお父さんと岡田さんだけなのよ」


「誰、岡田さんって」


「うちにいるお手伝いさん。私達を育ててくれた人」


「ああ、なんかユウビから聞いたっけな……」


 気が付くと男の手にしたマグはもう空になってる。私の手の中のマグはまだ湯気をたてて、その熱が体に染み込んでくるようだった。


「ねえ」


「なに」


「私とユウビのどこがどう違うの? 似てないって言うけど、どこを見てそう思うの?」


「……。なんでそんなことにこだわんの」


「なんでって……」


「比べられたら機嫌悪い癖に、比べずにはおけないのかよ」


 散乱する雑誌やレポート用紙、DVD。ソファには色褪せた更紗がかけられていたがカバーの役割を果たしておらず、まるでベッドの上で丸まったシーツのようによじれていた。


 思えば男の人の部屋に入るなんて初めてだった。それに予備校をサボったのも初めてだった。


「なんでお前らを見分けられるか教えてやろうか」


「うん」


「寝れば分かるから」


「え」


「セックスすれば分かるんだよ」


「……」


 男は私をからかっているのか、それとも馬鹿にしているのか咽喉の奥でくつくつと笑って私の手からマグを取り上げて一口啜った。


 この熱くて甘くて苦いお酒は男の存在そのものみたいだと思った。甘そうに見せかけて毒を含むような意地悪を言い、冷たいのかと思えば不意に優しい。


 男がマグを床に置くと、硬質な音がことんと響いた。私は言い返した。


「私とは寝てない」


 言ったかと思うと次の瞬間、男は私を引き寄せキスをした。まるであらかじめ私がそう言うことを知っていたかのようによどみなく、素早い動きだった。


 あまりの速さに驚いて、私は一瞬なにが起ったのか分からなかった。


「そんな真剣な顔するなよ」


「そんな顔してる?」


「なんか命がけって感じ」


「そんなことない」


「心配しなくてもこんなことで死んだり、世界が滅びたりはしないんだから」


 男は煙草を取り出し火をつけると、フィルターを噛み締めるようにして実に美味そうに吸いつけ、長々と煙を吐き出した。


 今、目の前にあるのは「窓」だ。父の支配による小さな世界から外の世界へ通じる「窓」。ユウビが男を求める気持ちが脱出願望ではないとは言えないけれど、潜在的に惹かれる気持ちは嘘じゃないと思う。人は自分にないものに惹かれ、求めるという。ならば、私達が男に惹かれるのも無理からぬことだと思った。ただ、それが同じ男だというのがやはり双子の運命のような気がする。そう考え始めると私は自分が双子であることが呪わしかった。


 男は煙草を消すと今度は手を伸ばして私の後ろ髪をしっかり掴むようにして荒々しく口づけてきた。


 私は驚きのあまり目を閉じることもできず、瞬きも忘れて、煙草の匂いのするざらつく舌に自分の舌をからめとられながら、息もできないような激しいキスを強いられた。


 長い口づけだった。男の手は私の頬に触れ、髪をまきとり、背筋がぞっとするほど官能を流し込んできた。ようやく唇を離した時には体中の毛穴が開いてしまう錯覚を覚え、思わず両手で肩をさすった。


 男は感嘆したように、

「ソウメイ、お前の舌めちゃめちゃ柔らかいな」

 と言った。


「……ユウビと比べてってこと?」


「なんで比べる必要があるんだよ。誰もそんなこと言ってないだろ。だいたい、比べられたくないんだろ」


「……だって、私達が比べられないことなんて一度もなかったんだもの」


 ……この男は恐らく社会通念上の道徳的な男というわけではないだろう。キスは手慣れていた。私は慣れた自然さの分だけ男を誠実だと思った。少なくともこの男は嘘をついていない。ユウビのような嘘は。


 私は無意識に自分の唇を指でなぞった。男の唾液に湿り気を帯び、柔らかく、このまま大切にしまっておきたいような気がし、しかし、そう言ってしまうにはたかがキスごときでと思う自分もいて馬鹿馬鹿しく、私は自嘲気味に笑った。


 これは錯覚なのだ。この距離で蟲惑的な空気にさらされればどうしたって恋っぽい気がする。それにユウビの男をかすめているということが何よりも私を駆り立てるのだ。


 それだけなのだと何度も心の中で唱える。男の腕はすでに再び私を捕まえていた。


「時間がないわ」


「知ってる」


 口付けの最中に私が言うと、男は手荒な動作で次々と私の衣服を剥ぎ取った。


 誰も私が予備校に行っていないなどとは思いもよらないだろう。誰も気付かない。誰も、知らない。それは強烈な悦びだった。


 初めての刻印に痛みとも快楽ともつかない波のなかで、私はユウビと比べられても構わないと思った。なぜならこんなことは男にとってどうでもいいことだと分かったから。どうでもいいからこそまるで果物の皮を剥き、咀嚼するように容易く女を抱くのだ。


 私は自分が軽んじられることにぞくぞくするような快感を感じていた。あの家でご大層に扱われるよりもずっと気が楽だ。裸の自分が文字通り真実の裸であると思えるから。名前も与えられた役割も父が作り上げた人格も解放される瞬間がここにある。


 ユウビもこんな風に軽々しく扱われているのだろうか。だとしたら、逆にユウビの不安は理解できる。いつだって「特別」であるはずの自分が「無価値」であることはユウビの最大の恐怖なのだから。


 男は私が処女であることにも頓着せず、ざっくりとしたセックスをした。男の胸には小さな痣があり、私は何度もそれに唇を押し当てた。


 事を成し終えた後、私は下着を着けながらぼんやりと、この男が自分達と同じように双子ならば私とユウビでそれぞれ一人ずつ専有できるのになどとしょうもないことを考えていた。


「比べてもいいわ」


「なにを」


「私とユウビを、よ。比べない方がおかしいのよ。なんだか、よく分かったわ」


「セックスのこと言ってんのか」


「それも、ある」


 男は笑いながら、


「俺もよく分かったよ」


「なにが」


「お前とユウビは違うってことが」


 時計を見やる。なんと慌しかったことだろう。この部屋にきてまだほんの二時間ほどしかたっていない。一体なんだったんだろう、この交接は。短く、そのくせ濃密で、言葉のすべてを踏み潰してしまうような完璧なコミュニケーションは。


 お腹の底の方からじわじわと笑いがこみあげてくる。ユウビの男と寝たという事実がおかしくて仕方ない。ユウビのものを盗ったのだ。面倒見のいい優等生のふりをして。


 ざまあみろ。小さく呟く。それが誰に対する言葉なのかは分からなかった。


 私はすでに完全に服を着てコートに袖を通した自分を娼婦のようだと思った。そそくさと去っていく、なんの情緒もない疲れた娼婦。そのくせ胸の中に小さな野心を抱えているような女。


「また来てもいい?」


「来るなって言ったら、来ない?」


「いいえ」


「じゃあ聞くなよ」


 男はジーンズを穿き、裸の胸に今一度私を抱き寄せた。私は男の腕の中からその顔を見上げた。ユウビにとって窓ならば、私にとっても同じ窓なのだ。


 家に戻ると私は自室へ飛び込み、電気もつけずにしばらくその場で闇に息をこらしていた。


 男の痕跡を消すことはしたくなかった。煙草の匂いもアルコールの匂いも、身体に刻まれた口付けのあとも拭い去るには惜しくて自分を抱きしめたくなる。これが恋ならばなんの苦労も悩みもないのに、それが残念でならなかった。

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