第9話

 雪はすべての音を包み込むように街を静寂で包みこみ、私がさしている黒い傘に降りかかる気配が唯一ささやかな音となって耳に入る。


 靴下を重ね穿きしていてもまだブーツの中の足指がきりきりと冷えて痛いほどだった。


 ユウビがあの男のどこを好きなのか、まだしかとは聞いていなかったな……。そう思いながら私は電車に乗り街へ出て行った。


 白く染まりゆく街を抜けて指定されたスターバックスに入りあたりを見回す。


 男はそこに、いた。ジーンズにエンジニアブーツ。ニットキャップを目深にかぶり、気難しい顔で腕組みをして、コーヒーを飲んでいる。


 私は男の座っているテーブルへ行き、目の前に立った。すると、男は顔あげ、私を見るや驚くべきことにこう言った。

「ソウメイ?」

 と。


 私は何か言いかけたのを飲み込み、愕然と男を見つめた。


 私達双子を見分けることができるのは父と岡田さんだけだ。そりゃあ口を開けば分かる人はいるかもしれない。でも、何も言わないで一目で見分けることはほとんど奇跡といっても過言ではない。私は自分の体からユウビの匂いでもしているのではないかと全身くまなく嗅ぎまわりたい衝動に駆られた。


 男はゆったりと椅子に背中を預け、長い脚を組みこちらを見上げている。


「どうして分かるの」


 私は信じられない気持ちでいっぱいだった。


「座れば?」


 男は目の前の椅子を示した。


 今日着ているコートもユウビと色違いのお揃いのコートだ。靴だって同じものをユウビも持っている。いったい何で、どこで見分けたのだろうか。


 私がふらふらと腰を下ろすと、男は鼻先で軽く笑い、

「なに飲む?」

 と尋ねた。


「……」


 ああ、そういえば前にも男は私に尋ねたっけ。なにを飲むかと。あれは煙草の煙に満ち満ちたバーでのことだったが、今は禁煙のスターバックスの店内で喧騒とジャズが空気を満たしている。


「カプチーノ」

「わかった」


 男は立ち上がりカウンターにさっさと行ってしまった。男の座っていた椅子の背には黒いダウンジャケットがかけられている。羽のたっぷり詰まった温かそうなジャケットだった。


 周囲を見回すと店内は八割方埋まっていて、お喋りに興じる人、本を読む人、勉強する人、みな思い思いに時間を過ごしている。ユウビはこんな待ち合わせをよくしているんだろうか。いかにもデートらしい待ち合わせを。そして男はいつも飲み物を買ってくれるのだろうか。男の行動は自然なものだった。


 男はカプチーノを持って戻ってくると「はい」と私の前に置いた。私が財布を出そうとすると、男は笑ってそれを制した。


「金なんかいいよ」


「でも奢ってもらう理由ないわ」


「理由? なんだ、理由って? そんなもん必要ないだろ」


 本当はお茶なんて飲むつもりはなかった。私は男を見つけてユウビが外出禁止になったことを告げればそれでもう用事はなかった。なのに、なぜ座ってしまったのだろう。予備校の時間も迫っているのに。


 私は紙コップに口をつけ、カプチーノをすすった。


「ユウビのことなんだけど」


「ふん」


「この前あれからなにしてたの? すごい熱出して寝込んでるのよ」


「へえ?」


「あなたに連絡しようとしたんだけど、電話が繋がらないからって……」


「……」


「それで私が言いに来たの」


 男はまた鼻先で軽く笑った。この男の笑いは人を食ったような、皮肉な、それでいて妙に心に残る笑いだ。嘲りのようでいて、親しみのこもったような薄笑い。


「いつも裸でいるから風邪ひくんだよ」


「……」


「そう言ってやれよ」


「裸にしたのはあんたなんでしょ?」


 私がそう言い返すと、男はぶっとコーヒーを吹き出し、それから大きな声で笑い出した。


「ソウメイ、お前、おもしろいこと言うな」


「冗談言ってるんじゃないわ」


「だろうな。お前、そういう性格なんだろうな」


 不意に男の手が私の髪を一束指にとった。私は男の指に巻かれた自分の髪の黒さを眺めながら、それきり押し黙った。髪がからめとられていくのを見ていると、私は身体ごと男の指に手繰り寄せられているような気がして身動きがとれなかった。


「行かなくちゃ。用件は伝えたから、ケータイの電源入れといてよね」


 私は次第に息苦しく、早鐘を打ち出す心臓にも耐え切れず、男の手に巻き取られた髪をもぶっちぎる勢いで立ち上がった。


 勢いで数本の髪が抜けて、男の指に残った。


 男の笑った顔があまりにも屈託がなく、言葉はすべてを了解しているような落ち着きに満ちていて、私は服の下の皮膚が粟立つのをはっきりと感じていた。それも怖いぐらいに。


「付き合うなら、もうちょっと考えてよね」


「……お前、ヒマ?」


「ヒマなわけないでしょ、これから予備校よ」


「行くなよ」


「……」


「ユウビには内緒にしとけよ」


 男はもう答えが決まっているかのように言った。私が唖然として黙っていたにも関わらず。


 しかし、なぜ、私の心の動きが男に読めるのだろう。私は頬が熱くなった。


 外の世界では時間が雪の降る速度で回っているかのように、スローモーションとなって落ちてくる。私は男へ手を伸ばした。ユウビがいつも私にするように。まるで喘ぐように、切実に。


 男の手は大きく武骨で、そのくせ温かかった。


 この時私はまだ自分がユウビを裏切っているなどとは露ほども思っていなかった。そのくせ自分がなにをしようとしているのかは充分理解していた。

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