第8話
朝になって戻ってきたユウビは、午後になっても起きてこなかった。
岡田さんはユウビの食事の皿にラップをかけ冷蔵庫にしまおうとしていたが、ふとカレンダーを見て
「ユウさん、今日は五時からお稽古ですね」
と誰にともなく呟いた。
お茶を飲みながら新聞を読んでいた父がちらとこちらに視線を投げた。
「ソウメイ、ユウビを起こしてきなさい」
「……」
「ソウメイ?」
「あ、うん……」
「練習してから行かないと意味がないだろう。早く起こしてきなさい」
私は黙って二階へあがりながら、昨夜ユウビはあれからどこで何をしていたのだろうかと考えていた。
明け方帰ってきたのは分かっている。風呂を使い、ベッドにもぐりこんだのも知っている。が、それまでの空白の時間を私の片割れは何をしてきたのか。あの男と。また赤い痣を身体のどこかに宿してきたんだろうか。
階段をあがったところで廊下の小窓から電線に止まる雀が数羽見えた。どれも皆まあるく膨らんでいる。時折、突風のように強い風がガラスを揺らし、私は雀が吹き飛んでしまうのではないかと心配になった。
「ユウビ?」
私は扉を叩いた。
「起きて練習しないとまずいんじゃないの」
しかし返事はなく、私は冷えたドアノブを回してユウビの部屋に入った。
「二日酔いなの?」
ベッドで毛布にくるまっているユウビに声をかけた。
言いながら、扉のそばにある優雅な曲線を描く楕円の大きな鏡台に並んだ香水の瓶を手に取る。美しいグリーンの瓶。最近ユウビが使っているのは、これだ。甘く爽やかな香り。これがあの男の好みなのだろうか。
「ユウビ?」
まるで反応のないのを不審に思い、私はベッドに近寄ってそっとユウビの髪に触れた。
触れてみて、はっとして前髪をかきわけて額に手を当てた。熱い。
「風邪なの?」
私は驚いてユウビを覗き込んだ。するとようやくユウビは目を閉じたまま、
「頭が痛い」
と、呟いた。熱のせいか声がかすれていた。
「昨夜はあれからどうしたの」
「トモヤと呑んでた」
私は暖房を強くし、部屋を出ようとした。するとユウビが荒い呼吸を吐きながら呼び止めた。
「ソウメイ」
「なに」
「トモヤのこと、どう思う」
私はベッドで半身を起こそうとするユウビを振り向き、それを制した。
「……顔はいいんじゃない?」
「……」
「ひとつ分かったことがあるわ」
「なに」
「ユウビと私は男の好みが違うってことよ」
私はユウビが何を言わんとしているのか、分かっていた。だから、再びベッドに歩み寄りそっと毛布を肩まで引き上げてやった。
「薬を持ってくるわ」
「ソウメイの好みってどんなのよ」
「さあね」
かなり熱が高いらしく、ユウビの目は涙目になっていた。
不安なのだ。しかしそれは病気のせいでは、ない。
私は階下へ降りると父に、
「ユウビ、熱があるのよ。風邪ひいたみたい」
と報告した。
「風邪?」
父は新聞をばさりとテーブルに置いた。岡田さんも「まあ」と小さく声をあげた。
父は何事か思案するように腕を組み、岡田さんは速やかに一人用の土鍋を火にかけた。お粥を作るのだ。私は戸棚を空けると風邪薬を探した。
私達が小さかった頃、風邪をひいたりお腹を壊したりするのは岡田さんの責任だった。いや、無論、岡田さんのせいではない。が、父は私達の養育を任せている以上責任は岡田さんにあるとしていた。
とはいえ、父が岡田さんを叱責することはなかった。父は単純に責任の所在を明確にしておきたかっただけにすぎず、的確な処置を求めるだけで自分はいつも通り自室で論文に没頭するだけだった。それについて岡田さんがなんと思っているか、私は知らない。ただ、重圧を感じていたであろうことは想像できる。なぜなら怪我や病気を防ごうとする時、岡田さんは神経質というよりも情熱的なまでに熱心に、丁寧に私達を世話したから。
今では私達はそれぞれの身をそれぞれが守り、管理するよう求められている。岡田さんはさぞほっとしているだろう。もう自分のせいではないということに。
「ソウメイ」
「はい」
父がおもむろに立ち上がった。
「ユウビの風邪がうつらないように気をつけなさい」
「……分かってるわ」
「櫛田医院に往診を頼んでおこう」
そう言い置いて食堂を出て行った父が二階にあがってユウビの様子を見たりしないのを私は知っていた。
幼い頃から、病みついたりぐずったり、洟水を垂れるユウビは彼のユウビではないのだ。私がユウビの我儘を許すのはこんな時だ。可哀相なユウビ。まるで生きていることを否定するかのように、いつだって美しく完璧でなければならないなんて。
私は風邪薬の瓶を手に、ユウビを本当に楽にしてやるにはこんな薬ではなんの効き目もありはしないと思った。
ユウビの熱は三日間下がらず、結局起き上がるまでには約一週間かかった。
その間、岡田さんがユウビの看病にあたり、食事の支度や、絞ったタオルで身体を拭いてやったりしてくれていた。
父は私にユウビの部屋へ入ることを禁じた。が、私達は双子なのだ。例えそれが父の気遣いであったとしても、そんな命令をきくことはできない。私は父の目を盗んではユウビの部屋へ行き、様子を見てやった。
ユウビは病みついたせいで脂っぽい髪をおさげにしておとなしく寝ていたが、私を見ると、
「ピアノを弾かないと不安になる」
と漏らした。
楽器は毎日の練習だけがものを言う。一日でも弾かなければ途端に坂を転がるように腕は落ちる。ユウビはピアノを好きなわけでもないのに、練習には真面目だったがそれも無理ないことだった。風邪をひき、みじめったらしく薄汚れ、顔色の悪い、ピアノを弾かないユウビなど父にとっては唾棄すべきものなのだ。そして父からそう思われることをユウビは恐れているのだ。
「たくさん食べて、たくさん寝て早く治すのね」
私がそう言うとユウビはこくりと頷いた。
「でも風邪ひいていいこともあるのよ」
「なに」
「痩せたわ」
暖房と加湿器のせいか窓ガラスが濡れている。朝からどんよりした曇り空だったがいよいよ小雪がチラつき始め、すべての騒音を閉じ込めるかのように町は静かだった。
机の上の写真立てにピアノの発表会の時に並んで写した写真が入っている。ドレスのユウビとワンピースの私が同じ顔で並んでいる。
春になったら父はまたこんな写真を撮るだろう。私はステージでお辞儀するユウビに花束を渡してやる。その日私達が着るものまで父は決めてしまっているだろう。
「それにしてもひどい声ね」
私は蜂蜜入りの熱いレモネードをカップに作ってやり、ベッドの上で起き上がるユウビに手渡した。
「のど飴、買ってこようか」
「うん」
階下では岡田さんが食事の支度をし、父は市民講座でイギリス文学散歩みたいな題で講義をするのに出かけていた。
イギリスの代表的な文学作品とその背景を面白おかしく喋る講座らしいが、父の喋る内容が本当に面白おかしいのかは甚だ疑問だった。
だいたい父にそんな話しができるのだろうか。そりゃあアカデミックなことならいくらでも知っているだろう。けれど、人の気を引くような話しとなると別だ。言葉少ないとはいえ、父がこれまでに食卓や庭先でしてきた訓辞めいた談話が面白かったためしはない。父にはユーモアというものが一切ないとさえ思っていた。そもそも父が笑うところもほとんど見たことがないのだから。
私もユウビも信仰を持たない。私達双子に祈りは存在しない。なぜなら、祈りが通じることなどないと知っているから。
美しい音楽も言葉も、私達の心を揺らすことはない。美しいものの中にはいつだって作為が存在する。この家では父がすべての価値基準を作り私達を支配してきた。そんな暮らしの中で清らかな祈りのなにを信じられるだろう。自分達の存在そのものが「作られた」ものであると教え込まれてきたのに。神を信じることなどできるものか。そう考えた時に私ははたと気がついた。父はもしや神になろうとしているのでは、と。
こんな日は母のことを考えずにはおけない。
母の記憶はなにひとつ、ない。写真の中で母はただ美しいだけで、生活感もなければ一点の曇りもない。まるで宗教画のような無垢な存在に見える。父と並んで写っている写真は写真館で撮ったものなのだろう。今より幾分若い父はスーツを着て厳しい顔つきで直立し、娘といっても通用しそうな母が黒い着物を着て軽く斜めに構えて腰かけている。あらたまった写真だ。結婚式だとか披露宴といった写真は、ない。たぶんそういうことはしなかった代わりにこの記念写真があるのだろう。
母を知る手がかりになるものは写真以外にほとんどない。着物が空き部屋の和箪笥にしまってあるが見ることはなく、管理は岡田さんが任されている。私が見たところで、母の気に入りの品を知るわけでなし、思い入れも何も分からない。誰かの口から語られることもない。
父と母がどういう経緯で結婚したのかは知らないが、私達双子が生まれるぐらいだから愛し合っていたのだと仮定しよう。では、父が母のことを語らない理由はなんなのだろう。時々、狂おしく母のことを知りたくなる。なにが好きで、なにを考え、なにを見て笑い、なにを聞いて悲しんだのか。
窓の外では綿飴をちぎるような白いかたまりが視界を染めている。
母が生きていたなら私達をどのように育てただろうか。考え出すと息苦しくなる。でも考えることをやめることはできなかった。
もし母が生きていたなら。双子の教育について父に賛同しただろうか。それともまた違う理念を持っていただろうか。もしそうなら母は私達をどのように育てただろう。いや、正確にはどのように「作った」だろうか。
今の私達を作ったのは父だ。母が生きていたなら、母が作ったかもしれない。結局、私達は自分の意志で自己を形成することはできないのだ。個性なんてくそくらえ。それぞれの意思だと思っているものでさえ、誰かの仕向けたものなのだ。
それでも母が私を作ってくれていたなら。せめて今よりもう少し自分を好きになれたのではないだろうか。
どれだけ勉強ができても、冷静沈着で理路整然としていても、私は自分を研鑚させればさせるほど誰からも愛されない自分を発見する。情緒を理性で制御しようとする自分の殺伐とした心を思うと、たまらなく父が呪わしかった。ユウビの鮮やかさが対照的といえば聞こえばいいが、二人の違いは不幸以外のなにものでもない。
「ソウメイ」
「なに?」
「今日も予備校あるんでしょ」
「うん」
「お願いがあるのよ」
ユウビはそう言って、私を見上げた。
「トモヤと約束してるのよ」
「……そんなことだと思った」
「お願い」
「なによ、お願いって」
「ソウメイ、行って私が風邪ひいてるから会えないって伝えてほしいの」
「なに言ってるの。電話すればいいじゃない」
「電話にでないから頼んでるんのよ。電源切ってるんだもん」
ユウビは唇を尖らせ拗ねた顔をしていたが、瞳は切実な訴えをたたえて潤んでいるようにも見えた。
ユウビ、お前は美しい。ユウビ、お前は特別な女の子だ。ユウビ、お前はソウメイとは違う。耳の中の巻貝が繰り返す父の言葉。私は自分がユウビに嫉妬しているのだとは思いたくなかった。
褒めそやされ、慈しまれ、父の寵愛を受けるユウビが羨ましかったことなど一度もない。そうしてそれは実際にそうで、私はユウビのようになりたいと思ったことはない。美しくなければ無価値で、父の思う通りの「女」であるならば意思など持たずともいいなんてあんな躾け方まっぴらごめんだ。
が、今は。今は違う。この子は私と同じ顔と身体、同じ声をしているのに、同じ条件下のはずなのに私が持っていないものを持っている。自分だけのものを持っている。
私はそっと睫毛を伏せた。瞼の裏で黄色い光りが明滅する。まるでカナリアが無数に飛び交うが如く。
気がつくと私は、
「わかった」
と答えていた。
「ソウメイ、恩に着るわ」
ユウビは心底ほっとしたような声で、手を伸ばした。
これはユウビの癖で、甘える時も不安な時も、心が揺れ動く時ユウビの手はこちらへと伸ばされ、溺れるものが藁をも掴むように手を握る。熱のせいかユウビの手は湿っぽかった。
「変わった人だから……」
「ただの学生じゃない」
「そうよ、身分はね。でも、正体はろくでなしだわ。遊んでばかりで、チャラチャラしてて、いつも色んな女の子から電話がきて……」
「へえ……」
「要領がいいから大学ではそこそこやってるみたいだけどね」
「……そんな男がよかったのはユウビじゃないの?」
「……」
「ようするに、普通の大学生ってことよね」
「ソウメイ、この前なんか言われたの?」
ユウビが私の手を一度ぎゅっと強く握ってから、放り出すようにして離した。
私は一瞬ぎくりとしたが、顔には出さずにわざと無表情で言った。
「別になにも言われてないわ。だいたい、人の男に興味なんてないから」
「……。とにかく、気まぐれっていうか、気分屋っていうか。約束ぶっちぎったりしたらもう会ってくれなくなるわ」
「そんなに? そこまで?」
「だから気分屋だって言ってるでしょ」
「そういうの、気分屋って言うの?」
「じゃあ、なによ」
「短気で短絡で狭量で……」
私が言い繋ごうとすると、ユウビは焦れたように叫んだ。
「そんな皮肉はいいんだってば! とにかくスターバックスで待ち合わせてるのよ」
「……時間は?」
「今からすぐに行って。もう時間ない」
仕方がない。一瞬窓の外に視線を走らせる。雪はひどくなっている。
ユウビはまるで分かっていない。私が言いたいのは「そんなに」あの男が大事なのかということ。「そこまで」あの男が好きなのかということ。そして私が知っているのは、あくまでもあの男がユウビを好きではないということ……。
私は出かける支度をすると、チャコールグレイのロングコートを着て家を出た。
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