第7話

 ユウビに男がいる。あれからというものユウビをよく観察していれば、その確たる証拠はいくらでも見つけることができた。


 まずはユウビの変化。足首には細い金の鎖をつけ、足の爪をぎょっとするほどの赤に塗っていること。香水を使い、鞄にはライターを忍ばせていること。ヘッドフォンでマイルス・デイヴィスを聴くこと。自分の部屋では鏡を眺め、ピアノのレッスンは遅くなる一方なこと。


 それらの変化はユウビが無意識に私との差別化を計っているようで、恋する女の子の変化ではなく敵意に満ちた自己主張に思えた。


 が、表面的な変化よりも決定的に私とは違ってしまったのは、ユウビが処女ではないということだった。


 外見の変化ならいくらでも真似できる。けれど、こればかりはどうすることもできない。私には変わっていくユウビを止めることはもはや不可能だった。


 これまで私達双子を無言のうちに見分けることができたのは父と岡田さんだけだった。彼らだけが絶対に私を「ソウメイ」ユウビを「ユウビ」として認識できる。それと同時に彼らの認識だけが私達が何者かを決めることができた。


 では、あの男はどうだろう。あの髪の長い学生。あの男はなぜユウビを選んだのだろう。彼にとって相手はユウビでなければならないのだろうか。同じ顔ならここにももう一つある。


 私は意地悪な好奇心がむくむくと湧きあがってくるたびに、皮肉に歪む口元を引き締めるのに苦労しなければならなかった。


 ユウビは知っているだろうか。自分の目つきが険しく、鋭くなってきていることに。時々唇に漂う気だるい色気に。それを見ている片割れの私の気持ちに。


 再び週末が訪れた時、ユウビはまた先週と同じ黒ずくめで私の部屋へやってきた。私は初めから察しがついていて、ユウビが何か言うより先に口を開いた。


「出かけるんでしょう」


 ユウビは一瞬面喰らったような顔をしたが、すぐにこくりと頷いた。


「ねえ、ユウビ」


「なに」


「あんた、彼氏が出来たんでしょう」


「……」


「私に嘘ついても駄目よ。隠し事しても分かる」


 ユウビは黙って私のベッドに腰をおろした。


「この前の学生でしょ?」


 私がそう言うとユウビは鼻先で小さく笑い、肩をすくめて見せた。


「まあね」


「なんで急に?」


「なんで? 理由が必要なの?」


「じゃあ、どっちから?」


「私」


「……やっぱり」


「なによ、やっぱりって」


 ユウビは髪を指先で一筋巻取り、弄んだ。


「どうやって連絡とったの」


「そんなの、お父さんの部屋に行けばいくらでも情報は探せるわ」


「……」


「うちに来た時、一緒にいたおじさん。あれ、お父さんの後輩なんだって。やっぱり大学で教えてるらしいよ」


「その学生が彼ってわけね」


「そういうこと。この前はレポート見せに来たついでに本や資料を運ぶのと手伝わされたんだってさ」


「……」


「それよりどうして分かったの」


「あんた達を駅で見かけたのよ。迂闊なんじゃないの」


「別に隠してるわけじゃないわ」


「……」


 ユウビはそう言ったけれど、隠すわけでもないがおおびらにするつもりもないようだった。どんなに開き直って見せようとも、所詮ユウビは父の影に怯えているのだ。


「ねえ」


「なに」


「私も一緒に行っていい?」


「今から?」


「駄目ならいいわ」


 別に脅迫ではなかった。でも好奇心だけとも言い難かった。自分の中に芽生えた意地悪な気持ちを無視することはできない。そうしうてそれをユウビに気取られてはいけない。


 私はにっこり微笑んでみせ、

「無理にとは言わないわ」

 と言った。


 するとユウビは思案するように俯いていたが、顔をあげ、くっきりと答えた。


「……いいわ」


 私はクローゼットを開け、ハンガーにかかったコートをつかみ出した。それは当然のようにユウビとお揃いの黒いコートだった。


 父は勿論眠っている。が、充分用心しながら私達は階下へ降り、前回ユウビがそうしたようにそっと裏口から外へ出た。


 空気は刺すように冷たく、凍りつくような空に星がまたたいていた。月が大きく、真上にあり、怖いほど明るい。


 不意にユウビが私の手を握った。


「行こう」

「うん」


 吐く息が白く、互いの目の前がもやもやと煙る。私達は手を繋いだまま足早に歩き始めた。まるで小さな子供の冒険のように。


 ユウビの顔をちらと横目で見ると、なぜか妙に強張った緊張した顔をしていた。私は繋いだ手に力をこめた。もしかして私達は、母のお腹の中でこんな風にして繋がっていたのかもしれないと思いながら。


 私達は大通りに出るとタクシーを捕まえ、深夜の街を目指した。


 ユウビはシートに深々と身体を預け、車窓から外を眺めていた。完璧に同じ顔をし、同じコートを着た私達を運転手がバックミラー越しにちらと盗み見る。爪先が冷えて痛むように、心の底が疼く。


「ねえ」

「なに」

「彼氏とどこで会うの」

「だいたいいつもバーとかクラブ」

「ふうん」

「ソウメイ」

「なに」

「……なんでもない」


 着いたところは繁華街の中心だった。ユウビはお金を払うとさっさと車を下り、高飛車に顎先をあげて靴の踵を高らかに鳴らしながら歩き出した。言いかけてやめたことはなんだったのか、もう問う余地もなかった。


 こんな時間でも街は生きている。行き交う人、ゲームセンターの前でたむろする一団。その中を闊歩していくユウビはピアノを弾いている時よりも、なにをしている時よりも顔に生気があり瞳が輝いていた。


 私はスピードをあげてユウビに肩を並べると、同じように大股でしっかり顔をあげて世界中のすべてを侮蔑するように歩いた。ユウビが私を見て微かに笑った。共犯者への微笑。暗黙の了解。


 誰もが私達に目を止める。振り向く。囁きを交わす。私は次第に不安を忘れ、気分が高揚してくるのを感じていた。


 ユウビは裏通りに入ると、一件のバーの扉を押した。


 店は薄暗く煙草の煙に満ちて、吐き捨てるような女の歌声が流れていた。


 ユウビはカウンターに座っていた一人の男めがけてつかつかと歩み寄り、その肩を叩いた。私は入り口の扉のそばに立ち尽くしたまま、その様子を見守っていた。店の壁にはセピア色したロバート・デニーロのポートレートがあり、まるで私達を監視しているようだった。


 男は身体ごとユウビを向き直りなにごとか言葉を交わし、それから私を見た。


「ソウメイ、こっち」


 ユウビが私を招き寄せ、カウンターの後ろにあるボックス席を示した。私は頷いた。


 男も立ち上がり、ユウビと共に壁側のベンチシートに座った。


「ソウメイも一緒に来たいっていうから」


 ユウビはなんの抑揚もない調子で男にそう言った。


「ソウメイ、トモヤよ」


 私は紹介され、反射的に会釈をした。


 男は無言で私をまじまじと眺めると煙草に火をつけた。


「やっぱりそっくりだな」


 ユウビは男の指から煙草を奪うと、すぱりと吸いつけ、長々と煙を吐き出した。ユウビが煙草を吸うのを見るのは初めてだった。


「ソウメイ、なに飲む?」


 再び男がユウビから煙草を取り返すと、掬い上げるような目で尋ねた。


 自分の名前が呼ばれたのに、私は一瞬誰のことだか分からないほどぼんやりしていた。二人の空気は確かに恋人然としている。とても親密で、まるでバリアでもはっているかのように近寄り難い。が、それより私を怖気づかせたのは男の片頬を歪めるようにして見せる薄笑いと、唇の端をきゅうと釣り上げて微笑むユウビの邪悪さだった。


 彼らは何事か共有しあっている。普通ならばそれは恋愛の甘い空気。二人だけの秘密。二人にしか分からない暗号。しかし目の前の二人から醸し出されてくるのは、劣悪で残酷な罪の匂いだ。ユウビは私を共犯に仕立てたけれど、本当の共犯者はこの男だ。彼らは本当の意味で共有しあい、共に犯しあっている。それが何とははっきり言えないが、幸福から程遠いようなものであるのは確かだった。


「ユウビはなに飲むの」


 私は気を取り直してユウビに尋ねた。


「ジントニック」

「じゃあ私も同じでいいわ」


 男は私達の飲み物を注文すると、無遠慮な視線を私とユウビに向けて交互に注いだ。


 切れ長の目と、思いがけず長い睫毛が瞬きながら私達双子を値踏みする。気がつくと私は無意識のうちに椅子に背中を預け、脚を組み、顎先をつんと上に向けていた。即ち、ユウビと同じようにして。


 私達は様々な場面で「あなたはどっち? ユウビ? ソウメイ?」と聞かれてきたが、あれはいちいち私の胸に呪いを刻ませた。どっちだっていいのだ。本当は。問われる度に、嘘をつきたくなる。他人に私達を識別できないのならば、どっちだって同じことじゃないのか。私が私である必要はいつだってない。誰かの存在がなければ私達は自分の存在を証明できない。


 そういった意味で私達がそれぞれでいられるのはあの家の中だけだ。しかし、今、ユウビはこの男から認識されている。ユウビとして。そして今の私は男の中で「ユウビの」片割れに過ぎないだろう。


 運ばれてきたジントニックのグラスは清々しく泡が弾け、ライムの緑が白熱灯の下鮮やかだった。私とユウビは同時にグラスを手に取った。


「じゃ、乾杯」


 グラスをかちりと合わせて、透明に冷えた液体を啜ると甘苦く喉を滑り落ちていくのが感じられ、次いで胸のあたりがかあっと熱くなった。


 この男は私とユウビが裸で並んでも、触れずとも見分けることができるのだろうか。そんなことを思いながら私は男のシャツから除く鎖骨に視線を注いでいた。


「もうすぐ入試だろ。こんなとこにいていいのか」

「ソウメイは頭いいから大丈夫よ、ねえ」

「大丈夫かどうかは分かんないけど、やるべきことはやってるわ」

「ふーん、おんなじ顔してても中身は全然別物なんだな」

「当たり前よ。なに言ってるの」


 ユウビの反論に男はにやりと笑った。なにか悪意に満ちた笑いだった。悪戯やからかい以上に、ネガティブなものが煙草の煙のようにゆるゆるとたなびいてこちらへ流れてくるようだった。


 この男はユウビが私と比べられることを、そんな風に言われることを嫌がるのを知っていてわざと言っているのだ。


 グラスの中身を飲み干すと、氷がからんと音を立てた。


「たまたま双子で同じ顔をしてるだけで、中身が違うのは当然よ」


 私は自分の言葉が冷徹な響きを持っているのは承知していた。ユウビがこの男のどこを好きだと思っているのか、分からなかった。と同時に、この男がユウビのどこを好きだと思っているのかも私には分からなかった。


 ユウビは口を尖らせ、黙っている。これは不貞腐れている証拠。子供の頃からいつもそうだった。気に入らないことがあると拗ねて、ぶんむくれて。そうしていつだって欲しいものを手に入れてきた。たった一つしかなかった貰い物のぬいぐるみや、最後の一切れになった好物のチョコレートケーキも、ユウビは自分のものにしてきた。ごねれば父が私を「折れさせる」と知っていたから。


 父は私達に姉妹の役割を与えなかったくせに、私には我慢することや、譲ってやること、我儘を許してやることを課した。冷静さと、この名前が表す聡明さを。でも、それが一体なんになるというのだろう。結局それは私をユウビの影のようにしたにすぎない。ユウビがいなければ。私の呪いは祈りと紙一重だ。


「ピアノは?」

「え?」

「ソウメイも弾くのか?」

「弾かないわ。ピアノはユウビのものよ」

「弾きたいと思わない?」

「……別に」

「お前らの父親も変わってるよな」

「……」

「双子を育てるのがまるで実験だもんな」


 男は煙草を灰皿に押しつけて揉み消し、新たに火をつけた。ユウビは唇を尖らせたまま黙っている。


「教授の手伝いでたまたま会っただけだったけど、あの古臭い美意識の塊はちょっと恐れ入るね。さんざんルイス・キャロルの精神性をぶちかまされたよ。聞いてて疲れた。で、喋った後にまあお前には分からないだろうけどなっていう嫌な目で人を見る。あれは相当頑固で、他人の意見に耳貸さないだろ。自分は絶対的な存在だと思ってる。まあ、確かに有名な研究者なんだろうけどさ……。俺、ああいうタイプの人間ってまだこの世にいるのかとちょっと感動したよ」


「あんた、なにが言いたいのよ」


 私は男の指から煙草をとりあげた。


「からかってるの? 馬鹿にしてるの? 人んちの事なんだから余計なお世話よ。確かにあの人は異常だけど、だからなんだっていうの。あんたはその古臭い異常な学者の娘とつきあってるくせに」


「異常とまでは言ってない」


 男は笑いながら私から煙草を取り返し、咽喉の奥でくつくつと笑い声を漏らしながら煙草を咥えた。


 そこまで言ったところでユウビが握り拳でがつんと一発テーブルを叩いた。


 大きな音に驚いた店員がこちらの様子を背伸びして窺っている。男はそちらを振り向いて、なんでもないと言うようにひらひらと手を振って見せた。


「余計なこと言わないでよね」


 ユウビは父の話しがでたのが気にくわないらしく、立ち上がると化粧室へと入って行った。


 無理もない。ユウビにとって父親は脅威であり、憎しみであり、創造主でもあるのだ。触れるのも、触れられるのも苦痛以外の何物でもないだろう。私は自分の片割れが我儘で卑怯な女だと知っているが、同時に自分よりずっと繊細であることも知っていた。


「ユウビから電話がきた時は焦ったね」

 男が言った。


「どうやって調べたのかと思ってさ」


「……」


「つーか、なんの用事かと思った」


「……」


「けどな、ソウメイ」


「……」


「ユウビは俺を好きだとかそういう可愛い理由で電話してきたわけじゃないんだぜ」


「え」


「ちょっと考えれば分かるだろ。お前、頭いいんだろ」


「考えればって言われても……」


 私は一体なにをしに来たのだろう……。ユウビがあの時の男と一緒にいるのを確認しに来たのだろうか……。いや、違う。私が知りたかったのは……。


 私はグラスの残りを一気に飲み干すとさっと素早く立ちあがった。


「帰るわ」


「なんだよ、もう帰るのか」


「二人の邪魔はしないわ」


 財布から千円札を一枚取り出すと、テーブルにひらりと置いた。灰皿の中では煙草の吸殻が横たわり灰が細かく砕け散っていた。


 コートに袖を通すと並んで座る二人に視線を向けた。男はユウビを愛していない。ほとんど直感のように閃く。


「ソウメイ」

「……なに」

「今度は二人で会おうか」

「……」

「ユウビ抜きで」


 私はそれには答えずひらひらと手を振って見せた。


 再び夜の街へ出て行った私は通りにずらりと並んだタクシーの列を横目に見ながら、しばし街を歩いた。あまりの寒さに耳や鼻先が痛く、息をすれば身体の中からぴしぴしと音を立てて凍結していきそうだった。


 可哀相なユウビ。可哀相な私。かつての私達は孤独で、今もそうだと思っていたけれど、それよりも一層不幸だ。私は私。ユウビはユウビ。そんな言葉は嘘っぱちだ。ただそう思いたいだけで、実際のところ誰もそうは思っていない。きっとユウビは後悔している。私を男に会わせたことに。それは私も同じだった。

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