第6話

 何も問い質すことができないまま一週間たち、また週末が訪れようとしていた。

 ユウビは突然私の部屋へやってくるとこんなことを言い出した。


「ソウメイ、私、今から出かける」

「今から?」

「うん。だから裏口の鍵は閉めないで」


 裏口というのは台所脇の勝手口のことで、そこから塀についた裏木戸を開ければ隣家との間の私道に出ることができる。その道を通り抜ければ表通りに出ることができるのだ。


 時刻は十一時で階下の父はとうに寝ていた。


 ははあ、男と会うのだな。私はぴんときたが、空惚けた顔で、

「……どこに行くの」

 とユウビを斜めに見上げた。


 ユウビは黒い細身のパンツに黒いピーコートを着ており、まるで女スパイのようだった。コートの銀色のボタンが部屋の明かりに鈍い光りを放っていた。


「ちょっと、夜遊び」


 私は加湿器から吹き上がる白い蒸気を見つめ、椅子の背にもたれて腕組みをした。


 果たしてユウビは自分が背負っているリスクを知っているのだろうか。深夜の外出は勿論、男の子との交際など父が許すはずもない。


「朝までには帰って来る」

「お父さんが起きるまでに必ず帰ってきてよ。バレても私は知らないわよ」

「分かってる」


 ユウビはまるでこれから戦地へ赴くかのように重々しく頷いた。


「酔っ払って帰ったり、煙草臭いのもやめてよね」

「大丈夫」


 そう言ってユウビはもはや部屋を出て行こうとしていた。私はその背中にもう一度呼びかけた。


「ユウビ」


 ユウビが振り返る。


「なに」


 私はまっすぐにユウビの視線を捉え、たっぷり十秒間無言で見つめた。本当のことを言うなら今だよ、と。


「……いってきます」

「……いってらっしゃい」


 ユウビはほんの少し微笑んだ。ユウビの嘘を知ってしまった以上、私はそれに加担し守らなければならない。私は不本意ながらもユウビの共犯者にされたようで、胸の奥に痛いような緊張感を感じた。


 結局その夜はまんじりともせず、私はうとうとしては悪夢に目覚め、また浅い眠りに漕ぎ出し、目覚めることを繰り返した。


 真冬の明け方の空気は青く、凍るほど冷たい。私は目覚める度に階下の気配に耳をすまし、ユウビの帰宅を待った。


 私がユウビだったら。これまでに何度思っただろう。もともと私がユウビではないことは偶然に過ぎない。私がユウビで、ユウビが私であった可能性は今だに拭えない。いや、今でも入れ替わることはできるかもしれない。父にとって私が私であることも、ユウビがユウビであることも問題ではないのだから。同じ器にそれぞれ違った人間を盛り込むことができればどちらでもいいのだ。人格だの尊厳だのは無用なのだ。


 断続的な眠りから再び目覚めると時計の針は五時を指していた。


 私はそっと起きだして足音を忍ばせながら階下へ下りていった。ユウビはまだ帰っていない。


 完全に冷え切った空気に私は身震いし、室内だというのに吐く息が白いことに気付いた。


 父が起きる時間までまだ間がある。大丈夫。しかし、ユウビは本当に帰ってくるだろうか。ふと私は不安になった。まさか夜遊びと言っておいて家出だったら……? 


 みぞおちがぎゅうと痛み、私は咄嗟に拳で胃のあたりを押えた。そしてそのまま風呂場へ行き電気をつけると、これも痛いほど冷えくりあがったタイルを爪先で踏んでシャワーのコックを捻った。


 お湯が出始め、浴室内を温めるまで数分。私は脱衣所の鏡を見ていた。


 ユウビがもしも戻らなかったら、私はどうなるのだろう。父はどうなるのだろう。想像もできない。もしかしたら父はショックで死んでしまうかもしれない。烈火の如く怒り、後に失望し、病みついてしまうかも。


 浴室に充分湯気が満たされると私はパジャマを脱いで裸になった。


 死んだ方がいい。私は冷えた体に熱い湯をほとばしらせながら思った。ユウビがいなくなってしまうなら、その時点で父は死んだ方がいい。それが父にとって一番だ。この世界が崩壊するぐらいなら父は生きている意味もないだろうから。


 私は自分の残酷さに我ながら呆れ、しかし、それでも自分の発想が正しい気がしていっそ笑い出したいような気分になった。


 その時、表で物音がしたかと思うと浴室の擦りガラスに人影がうつった。


 私はほかほかと湯気を立ち上らせながら、細く扉を開けると顔をのぞかせ、

「おかえり」

 と声をかけた。


 そこにはユウビが立っていて、私を見ると一瞬ほっとしたような顔になりするすると服を脱いで浴室へ入ってきた。


「ただいま」


 ユウビは寒さのせいか青白い顔をしていてしきりに湯を浴びながら両手をこすりあわせた。案の定、全身から煙草の匂いがぷんぷんしていた。


「楽しかった?」

「……別に、そうでもなかった」


 ユウビの裸を見るのはずいぶん久しぶりだった。生まれた時から今に至るまで寸分違わぬ同じ体つきをしているのは、双子であることを超えて不気味に思えた。


 ユウビはたっぷりシャンプーを手にとってわしゃわしゃと髪を洗い始めた。


「ユウビ、ここ、どうしたの」


 私は泡だらけになっているユウビの胸元を指差した。なだらかな白い胸におちていく曲線の上に赤い痣のようなものがぽっちりと座取っていて、まるで刺青のようだった。


 ユウビは言われるままに胸に視線を落とした。


「……」


 ユウビは黙ってしばらく自分の胸を見つめ、それから突然泡だらけの手を私へ伸ばした。そして私の肩を掴み、おもむろに引き寄せたかと思うといきなり首筋に噛み付いた。


 私はびっくりしてユウビから逃れようと身をよじったが、ユウビの手はがっちりと私を捕まえ、くすくすと楽しそうな笑いを漏らし、

「動いちゃだめよ」

 と言った。


 ユウビの髪からシャンプーの泡が流れ落ち、身体をするする滑り落ちていく。


「ほら、おそろい」


 ユウビは私の肩から唇を離すとにやりと笑った。


 私は曇った鏡をさっと手でこすり、中を覗き込んだ。ユウビが噛み付いてきた位置にはユウビが胸につけている痣と同じものができていた。


 私は何か言おうとユウビを省みると、ユウビは髪を洗い流しているところでこちらに背を向け頭からシャワーを浴びていた。


「ソウメイ、今度は一緒に行こうね」


 下を向いて髪をすすぐユウビの声には笑いが滲んでいた。いかにも楽しそうに、嬉しそうに。悪戯をした後の子供みたいに。


 私はもうそれで何も言う気が失せ、いや、何を言おうとしたかも分からなくなり、

「二回は髪洗わないと匂いがとれないよ」

 とだけ言って、浴室を出た。


 身体を拭いて再びパジャマを着ても、まだ明けない空気は青く染まっていた。


 生きている意味もないのは本当は私なのではないだろうか……。首筋につけられた痣を掌で押えると、そこがじわりと熱を持っているような錯覚を覚えた。ユウビの唇の感触と吸い付く強さは痛みにも似て、まるで野生の生き物のようだった。


 この痣を父に見咎められたらなんと言えばいいのか。私は自室に戻ると布団の中で身体を丸めて真剣に考えていた。

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