第5話

 それから数日後のことだった。私は予備校から帰るところで、その日は雨が降っていた。


 冬の雨は冷たく、びしゃびしゃと跳ね返る雨粒に足元が痛いほど冷えていた。傘を持つ手がかじかんで、寒さを堪えるあまり肩に力が入っていた。


 私は駅の改札を抜けると、ふと思いついて駅前にあるドーナツショップに立ち寄った。


 なぜか無性に甘いものが食べたかった。空腹のせいもあって店内の油とコーヒーの匂いに反応しお腹がきゅうと鳴った。


 雨は一向にやむ気配はなく、ひたすら気温を下げ続けていた。外気温が下がるほど、夜が深まるほど店内の照明は温かく眩しく、軽快な音楽が優しく耳に響いた。なにかそこには永久不変の明るい幸福があるような、そんな気さえした。そんなものあるはずもないと知りながら。


 私は箱に詰められたドーナツを手に再び凍える世界へ出て行った。そしてロータリーでバスやタクシーを利用せんとする人の列にふと目をむけた時だった。視線の先に制服を着たユウビがいて、ロータリーに向かって歩いていくところだった。傘は持っていなかった。


 傘がないなんて、どうしたんだろう。私は走って声をかけようとした。ちょうどよかった、一緒に帰ろうと。


 しかし、できなかった。ユウビは左右をちらと確認してからすたすたとロータリーの外へ、即ち車道へ向かって出て行った。


 私はびっくりして、

「ユウビ!」

 と背中に叫んだ。


 が、雨の音と車のエンジン音に妨害され、周囲の人が私を振り返っただけで当のユウビは気付くことなく、まっすぐに路肩に止まっている車に向かって行った。そして駐車していたミニクーパーの側まで行くと、おもむろに助手席のドアを開け車に乗り込んだ。


 私は驚きのあまり立ち尽くし、傘の下からミニクーパーを凝視した。運転席にはあの時の学生が乗っていた。


 車が走りだすまで私は彼らを見つめ続けた。不思議と寒さは感じなかった。あんまり意外なものを見てしまい、胸の中がかあっと熱く、膝はがくがくと震えるようで立っているのがやっとだった。


 私は車が完全に見えなくなるとぐるりと踵を返し、足早に歩き始めた。制服のスカートが湿り気を帯び、吐く息は白く、暗闇は天から圧し掛かるように重かった。


 私の頭の中はさっきまで没頭していた数学よりも複雑にからまりあい、いくら考えても答えがでない演習問題のようにぐるぐると駆け巡った。


 家に着くと傘の水気を振り払い、玄関先に立てた。三和土には庭下駄が揃えて隅に置かれており、下駄箱の上の水盤に水仙が生けてあった。白く瑞々しい花が静かにこちらを見ているようで、私はようやく肩の力を抜いてため息をついた。


 食堂を覗いたがユウビの姿はなく、室内はひっそり静まり返っていた。


 私は父の居室へ顔を出し「ただいま」を言った。


 父は革の椅子にゆったりと座り、鼻先に老眼鏡をずり落ちさせながら本を読んでいた。


「雨がだいぶ強いようだな」

「うん……。ユウビは?」

「ユウビは遅くなるそうだ。発表会の前だからな」

「……」

「ソウメイ、ずいぶん濡れてるな。早く着替えなさい」


 本からちらりと目を上げた父は、黙っている私を不審そうに見て言った。


「風邪ひかないように気をつけなさい。体調管理も試験に含まれているんだぞ」


 私は父の居室を出ると、自分の部屋へ上がった。


 緊張がまだ胸の中に渦巻いていて、深く息を吸い込んだ。濡れた制服をハンガーにかけ壁際に吊るすと、机にあった手鏡を取り上げた。


 鏡に映る顔。これは私。と同時に、これはユウビの顔でもある。思わずため息が漏れ出る。魂が口から抜け出てしまうように。


 嘘というものは一度つけばつき続けなければならない。嘘に嘘を重ねて、メビウスの輪を回るように永遠に抜け出ることはできない。嘘がバレるのは永遠にめぐる自らの嘘に疲れた時だ。


 私はこれまでにユウビがついてきたいくつもの小さな嘘を思い出していた。なに、子供のことだからどれも他愛のないものばかりだ。仮病だの、おやつをこっそり盗み食いするだのくだらないこと。が、私はユウビがこれまでについた嘘の中で未だに許すことのできないものが一つだけあった。


 小学生の頃、文鳥だのインコだのを飼うのがクラスで流行っていて、だからユウビは前々から小鳥が欲しいと言っていた。私は小動物に興味がなく別に欲しいとも思わなかったが、ある時ユウビのおねだりに根負けした父は二羽のカナリアを買ってきた。そしてそのうちの一羽を「私の」カナリアだと言った。


 思えばなにもかもが共有の私達にとって、それぞれ一羽のカナリアは生まれて初めての個人の所有物だったかもしれない。私のカナリアは卵の黄身のようにこっくりとした金色をしており、ユウビのカナリアはカスタードクリームのように柔らかな黄色をしていた。私はカナリアが見分けのつかない同じような卵から孵るのに、生まれた姿は双子のようではないのだと思うと、この小さな生き物を初めて愛しく思った。


 一つの鳥かごに仲良く同居したカナリアを、ユウビは毎日飽かず眺め、可愛らしい声で鳴き交わすのを喜んでいた。そして「自分の」と名指されていた薄黄色いカナリアを特に可愛がっていた。


 私も「自分の」と言われるのが嬉しくて、金色をしたカナリアを大事にしていた。どちらのものでもないのと同時にどちらのものでもある服や靴や髪留めやその他もろもろと違って、この小さな生き物だけが自分の所有物であり財産だと思うと、ますますカナリアは自分にとってかけがえのないものに思えた。


 しかし所詮は子供のこと。ユウビは次第にカナリアに飽き、結局世話は岡田さんの仕事になっていった。それについて父は何も言わなかったので、恐らくそうなることも想定していたのだろう。時々、父が鳥かごを覗き込みつぶらな瞳のカナリアと見詰め合っているだけで、やがてユウビはカナリアに見向きもしなくなっていた。


 カナリアの寿命がどれぐらいかは知らないし、小さな生き物のことだからあれは病気だったのかもしれないが、ユウビのカナリアは一年半後に死んだ。


 朝、鳥かごを覗くとかごの底に仰向きになってくったりと落ちており、伸ばしたまま硬直した足が哀れだった。


 岡田さんはカナリアの死について珍しく感情的に、労わるようにユウビに話した。


「最近元気がないようでしたから、病気だったのかもしれませんね。かわいそうに。もっと早く気付いてあげればよかった。お墓を作ってあげましょうね」

「……そうね」


 ユウビは一言そう言うとつんとそっぽを向いた。


 私はおや? と思い目を見張った。岡田さんは死んだカナリアを外国製のチョコレートの入っていた空き箱にいれた。


「どこに埋めてあげましょうか」


 岡田さんが尋ねると、ユウビは今や棺桶と化した小箱から後退るように、

「どこでもいいわ。埋めておいて」

 と言った。


 それはいかにも無関心で、死んだカナリアになどもう用はないとでもいうような冷たい態度だった。


 ユウビはそのまま逃げるように部屋から出て行き、応接間でピアノを弾き始めた。


「ユウさん、ショックだったのね」


 岡田さんは誰にともなく言い訳するように呟いた。応接間から聞こえるユウビのピアノがなぜかいつもより乱暴で粗野で激しいように感じた。


 私は、ユウビはショックなど受けておらず悲しくもないのだと思い、

「私が埋めるわ」

 と、岡田さんの手から小箱を受け取った。そして庭に出ると桜の下にユウビのカナリアを埋めた。


 なにか非常な喪失感があった。カナリアの死は記憶にすらない母親の死よりもリアルな死だった。と、同時に、ユウビのカナリアが死に、私のカナリアが生き残ったことに奇妙な優越感を感じていたのも事実だった。私にあって、ユウビにはないということ。それはひどく運命的に思えた。


 桜の根元を園芸用のスコップで掘り、小箱を埋めてやると岡田さんが線香を立てて火をつけた。


 当時、今よりはもう少し若かった岡田さんが慰めるように、諭すように言った。


「ソウさん、命あるものはね、いつかは必ず死んでしまうんですよ。だから生きている間大切にしてあげないといけません。人間も、動物もみんな同じ」

「……」


 私はそれには答えず黙って手を合わせてカナリアの冥福を祈っていた。


 カナリアを桜の下に埋めたとユウビに報告してやったが「ふうん」と鼻先で返事するだけで他には一言もなかった。


 私のカナリアが忽然と姿を消したのはその一週間後だった。


 朝起きて縁側のカナリアを見に行くと、なぜかユウビが鳥かごを手にして立っており、中身は空っぽになっていた。


「ソウメイ、カナリアいなくなってるよ」

「えっ」


 そう言ったユウビはまだパジャマ姿のままで、鳥かごをこちらへ差し出した。


 鳥かごの中には金色の羽がいくらか散っているだけで、まるで神隠しのように影も形もなく、私は事態が把握できなくて言葉が出なかった。


「今、見たらいなくなってたのよ」

「……」

「逃げちゃったのかな」

「……ユウビ」

「窓は開いてなかったと思うんだけど」


 嘘。私はユウビが嘘をついているとはっきり感じた。


 もう見向きもしなかったくせに、なぜ今朝に限って誰よりも早く鳥かごを見に来たりしたのだ。着替えもしないで。


 この不自然極まりない様子に私は愕然とし、手足が震え、咽喉はカラカラに乾いていた。だから何か言うかわりに、気がつくといきなりユウビの横っ面をひっぱたいていた。


「なによ、やつあたりしないでよ!」


 ユウビは咄嗟に怒鳴った。私はもう一度殴ってやろうかと思ったが、空っぽになった鳥かごを見ると腹立ちよりも悲しさと悔しさでいっぱいで、ユウビをきつく睨みつけた。


「私が逃がしたと思ってんの? ひどい。なに考えてるのよ」

「……」

「私がそんなことするわけないでしょ」

「……嘘つき」


 今度はユウビが私をひっぱたいた。鋭い痛みが頬で火花を散らした。それでも私はユウビを睨む視線をはずさなかった。


 ほかの事ならいざしらず、生き物だったのに。あんなに小さな生き物だったのに。考えるほど猛烈な怒りで拳を固く握り締め、今にも喚き散らしてしまいそうな唇をきつく噛み締めた。


 すると突然ユウビが顔をくしゃりと歪め、しくしく泣き始めた。


「私を疑うなんて、ソウメイ、ひどいわ」

「……」


 ユウビは私が背中を向けてその場を離れるまで、わざとらしくしゃくりあげていた。もう言うことはなにもなかった。


 私のカナリア。ユウビのカナリア。鳥かごはその後永久に無用になり、捨ててしまった。そして嘘が永遠に嘘のまま手元に残った。


 ……一時間以上たってようやく雨の中帰宅したユウビは開口一番、

「ああ、疲れた。レッスンが長引いてさあ」

 と言ったが、服も靴も雨に湿ったような気配はなかった。


「……そう」


「ショパンもいいけど、メジャーな曲はミスったらすぐ分かっちゃうからね。先生もマジになってくるんだよねえ」


 とやけに明るく喋った。


 私は適当に相槌を打ったが、ここで問い質してもユウビは決して本当のことを言わないだろうと思った。どうせ嘘に嘘を重ねるだけなのだ。これ以上の嘘には何の意味もない。それに、ユウビに無駄な嘘をつかせたくない。


「ユウビ、私、勉強あるから。おかずは冷蔵庫にあるから自分で食べてね」

「うん」


 もしもユウビが今ここで私からの質問に本当のことを言ったなら……。私は食堂を出ようとしながら、一瞬迷った。


 逃げたカナリアはどこへ行ったのか、今でも時々不思議な気持ちになる。まさか野生で生きていくことはできないだろう。となると、死あるのみだ。ここにいても死ななければならず、逃げても結局は死んでしまうのなら、あのカナリアの幸せはどこにあったのだろうか。


 ここにいても、いなくても同じだということ。背筋がひやりと冷たく、指先が震えた。私は自分の部屋に置いたコーヒーメーカーのスイッチを入れた。薄いコーヒーと甘いドーナツ。それだけが今の自分を慰めると思って。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る