第4話
昔から私達の生活は岡田さんによって管理されていて、食堂のカレンダーに書き込まれたスケジュールを元に食事の支度をしたり、こまごまとした雑用を片付けてくれることになっていた。
それは父の独特の美意識に満ちた暮らしと、歪んだ教育を施すだけの環境作りで、私達の暮らしのなにもかもが彼女なしには成り立っていかないということだ。
今では髪は半白となり、手も皺枯れた岡田さんは独身で家族や親類とも疎遠になっているとかでこのうちにいるより他に身の寄せどころもないから、父の言うことを聞いて、ひたすらその命を守ることに邁進している。私はその盲信的というか、狂信的な姿が怖かった。
日曜日。朝も遅くに父は起きてきて、ストーブを縁側近くに出して冬の太陽を浴びながらのんびりと籐椅子に座っていた。
着物に丹前をひっかけ、厚地の靴下を穿いていた。恐らく、着物の下には股引も穿いているだろう。父は家の外では時代錯誤な西洋趣味で、純日本風な自宅の中では古風なスタイルを貫いていた。そうすることが父にとってのトータルコーディネートなのだ。無論、そこには娘の存在さえ含まれる。
父の視線は庭に注がれており、何を見ているのかは分からなかった。ただ、一心に庭を見ていた。
私は台所でお茶をいれ、盆に載せて父に給仕した。ユウビはまだ起きてくる気配もなかった。
「今朝はずいぶんゆっくりだな」
「ごめんなさい」
「昨夜は遅くまで勉強していたのか」
「ええ、まあ」
「効率よくやることも大切だからな。馬鹿に詰め込めばいいってもんじゃない」
父は熱い湯呑みを両手に包んで、しばしゆっくりとお茶を楽しんだ。それから不意に庭の端にある低い梅の木を指した。
「蕾が膨らんでいるな。あれが咲く頃が試験だろう」
「……うん」
「なに、心配はしていないさ。お前は合格するよ」
「……もし落ちたら?」
「そんなことは有りえない」
父は低い声で笑った。その笑いは私への期待であり激励のつもりだったのだろう。私は黙って梅の木を見つめていた。
今すぐ庭に踊り出てあの木をへし折ってやったらどんなに気分がいいだろう。心の奥から底なし沼の瘴気があがってくるように、不穏な一塊のあぶくを感じた。
父は私が受験に失敗するなどありえないと言ったけれど、勿論、私だって失敗するつもりはないが、父の言葉はまるですべての可能性を私から奪い、捻り潰すようだった。父にとってありえないのは受験に失敗することではなく、失敗するような娘の存在そのものがありえないのだ。
私は可能性が誰にとっても平等だなんてことは信じていなかった。それはまるで上っ面だけの民主主義みたいなものだ。口先だけの平和も正義も私は必要としない。父にそのことを分からせるのは到底不可能だけれど。
模試の結果で志望校への合格圏内には充分入っていたけれど、それでも気を許すことはできなかった。それは私の祈りだった。
「私、もう行かなくちゃ」
父にそう言うと、父は興味なさそうに鼻先で返事しただけでひらりひらりと手を振ってみせた。その動きはまるで犬を追い立てるようだった。
「いってきます」
……いつもの日曜だった。退屈なまでにお決まりの私達の日曜日。私は予備校へ行き、ユウビはピアノのレッスン、父は呑気に自分の世界に浸り、恐ろしいほど単調で、予定調和の日曜日。しかし、私はこの朝が世界が終わりに向かう最初の朝であることにまだ気付いていなかった。
予備校からの帰り道。凍てつく空気を切り開くように足早に家路を辿ると、スカートの中に身を切るような風が吹き込んでは痛いほどだった。
海を見下ろす高台は眼下に美しい街の灯りを煌かせるが、私の視線はいつだって色とりどりの光りの向こう側、暗い海へと注がれていた。
暗闇は怖くはなかった。暗闇の中にいればこそ、光りを求め、また、光りを見逃さない。あの海だって同じことに思えた。風と波の中、正しい航海を知っていれば渡って行ける。私は風に煽られたマフラーをしっかり巻きなおした。
家につくと格子戸を開け、飛び石を踏み、
「ただいま」
と言いながら玄関に立った。
すると珍しいことに三和土に黒革靴が一足と、見慣れない……というより、完全な違和感を放つ大きなエンジニアブーツが真ん中に脱いであった。
真冬のこの家は底冷えがする。廊下などは凍るような寒さだ。スリッパを履き食堂へ入ると、岡田さんが台所で片付けものをしていて、食卓には私の食事の用意がしてあり、赤い塗り箸が箸置きにきっちりと置かれていた。
「お客さん?」
「ええ、先生のお友達とその生徒さんだそうです」
「ふうん……」
私は昔から父が自分のことを「ご主人様」と呼ばせないことが意外だったが、かといって岡田さんにまで「先生」と呼ばせているのは滑稽だと思った。確かに父は「先生」であることには間違いないのだけれど、岡田さんの「先生」ではない。なんだか馬鹿げているし、芝居じみている。
「ユウビは? まだなの?」
「もうお帰りになる頃だと思いますけど……」
「……そうか、発表会があるのね」
私はカレンダーに目をやった。
発表会とは毎年春に行われるピアノの演奏会で、幼稚園ぐらいの小さな子がきらきら星を弾いたりする可愛らしい演目から、現役の音大生の演奏まで同じ教室に通う生徒が舞台に立つ。ユウビは教室始まって以来最年少でトルコ行進曲を弾きこなし、以降大人顔負けの演奏をしてきた。高校に入ると発表会のトリをとることもあり、それを鑑賞するのは父の楽しみの一つだった。
私は着替えてから岡田さんの給仕で食事をした。
岡田さんは温めなおした味噌汁をお椀に注ぎ、白菜の漬物に刻んだ柚子を振りかけたものを勧めてくれた。漬物も岡田さんがこの家で漬けているもので、程よい歯ごたえが心地よく塩気も適当で、甘味があり美味しかった。
この人は無駄口をきくこともなく、滅多に笑うこともなくひたすら他人である私達に仕えてくれるけれど、一体その生真面目さはどこからくるのだろうか。私達一家は誰もそんな風に生きてはいない。誰かの為に何かをしようなど考えたこともない。いつだって自分のことばかりだ。父がどれだけ文化人であろうと、私が秀才と呼ばれようとあさましさばかりが自家中毒の如く自らを蝕む。
私は岡田さんを見ていると自分の卑しさを見せつけられるようで胸苦しくなる。彼女が清廉であればあるほど、私達は汚れていくのだ。
食事をすませた後の食堂はテレビの音だけが虚しく、食卓にはユウビの食器や箸が揃えられていたが、不在の分だけ静けさを誘い出すかのように室内はしんとしていた。
そうしてユウビを待って小一時間ほどだっただろうか。ようやく玄関で物音がしユウビの声がした。
「ただいま」
次いで、廊下を足音が滑ってくる。
「ああ、寒かった」
ユウビは青白くさえ見える頬を手でこすりながら食堂へ入ってきた。
「遅かったね」
「ねえ、誰が来てるの?」
ユウビは開口一番そう尋ねた。
「友達と学生だってさ」
「へえ? なんで?」
「……さあ?」
「めずらしいね、学生が来るなんて」
「そうね」
「ねえ」
「なに」
「……ちょっと見て来ようよ」
「ええ?」
ユウビはいたずらっぽい目をくるくる動かしながら、私の服を掴んでぐいと引っ張った。
「いやよ、なんでそんな」
「見たくないの?」
「ただの学生でしょ」
「だって、うちに来るなんて絶対なんかあるのよ。例えば、私かソウメイのお相手とか」
「馬鹿じゃないの、考えすぎよ。妄想だわ、そんなの」
言い出したら聞かないのは分かっていた。
ユウビは子供のように「ちょっと見るぐらいいいじゃない」とか「本当はソウメイも見たいくせに」と焚きつけようと懸命で、とうとう私は呆れつつ腰をあげるはめになってしまった。父が私達に男をあてがうなんて絶対にありえないというのに。
やむなく私とユウビは座敷から縁側に出ると、そっと父の書斎のガラス障子を覗きにかかった。
庭に面した障子はきっちり閉まっていたけれど、明り取りのガラスの腰板からは室内の明かりが煌々と漏れて、庭にまで伸びる長い影を作っていた。
私達は縁側の冷たい板敷きの上に這い蹲るようにして中の様子を窺った。
父とその友人である大学教授は差し向かいで会話をしており、学生はこちらに背中を向ける格好で椅子に腰掛けていて、顔は見えなかった。
実際ユウビの好奇心は無理からぬことだった。
父が日頃から学生を、その若さと馬鹿さと軽薄さをひどく口汚く罵っていたのだから。
決して父は学生に寛容ではない。これまでもゼミ生がやってきたり、博士課程の学生がやってきたことはあるけれど、「脳なし」だの「バカ」だの口癖になっていて、その中の誰かと私達を慣れ親しませようなどとは一度たりとも考えたことはないだろう。
その父が親しく友人と学生を交えて歓談などするとは、見るなというのが無理な話しなのだ。それでも、私は自分の姿を滑稽に思い苦笑いせずにはおけなかった。
ユウビは果敢にもガラスに顔を近づけて、学生の姿を見ようと必死だった。玄関にあった靴は本当に大きくて、その存在感ときたら怖いほどだった。それは私達が一度も見たことのないような、男の靴だった。
「駄目だ、見えないわ」
ユウビが忌々しげに呟いた。
「もういいでしょ、寒いから行こう」
私はユウビを促した。それでもユウビは名残惜しそうに、
「もうちょっとなんだけど……」
と言った。
「帰る時に玄関で見ればいいのよ」
「今、一瞬見えたけど、男前っぽかったわ」
「……ふうん」
楽しそうに笑うユウビに、私はなんとなく鼻白んでわざと興味なさげに返事をした。
すっかり冷えた体で食堂に戻ると岡田さんが、
「お二人で先生のお茶をお持ちして頂けますか」
と、ついぞ私達にさせたことのない給仕を口にした。
なぜ岡田さんが突然そんなことを言うのか分からなかった。どんな来客があっても岡田さんが私達にお茶を運ばせたりしたことは一度もない。私は無表情に古風な割烹着で手を拭い、一つのお盆には紅茶を、もう一つのお盆にはケーキを載せている岡田さんが何か企んでいるような気持ちになった。
しかし戸惑う私をよそにユウビは嬉々として、
「いいわ」
と答えた。それが決定打だった。
お盆を両手に捧げ持ち、ユウビが書斎の扉を叩いた。
「お茶を持ってきました」
「入りなさい」
扉ごしに父のくぐもった声。
ユウビはおかしくてしょうがないという風に私に目配せをした。
扉を開けると書斎の中は暖房が効いていて、温められた空気がどっと押し寄せてくるようだった。
テーブルには思ったとおりレポート用紙の束がおかれていて、なにか学術的なことを話していたことが推測された。
「あ、どうも」
私達がテーブルにお茶やケーキを並べようとすると、椅子に腰掛けていた学生が軽く腰を浮かせてテーブルのレポートや本を取りまとめた。
学生は、父の批判を一身に集めそうな風貌をしていた。
髪は肩まであり、ぼろぼろのジーンズにネルシャツを着ていて、ベルトループからはウォレットチェーンが垂れていた。それはまさにイマドキの、当たり前すぎるような若い男だった。
「……お嬢さん、双子なんですね」
男は私達の顔を見ると、驚いたように父に向かって言った。
「うん、双子も違う環境で育てると似ないというが、うちでは鏡に映したようにそっくりだろう」
「本当ですね」
父はなにか自分の手柄を話すようにそう言うと、
「こっちが聡明で、そっちが優美」
と、まるで置物のように私達を指差した。紹介ともいえないような紹介だった。
私達は軽く会釈をした。
「変わった名前ですね」
「名は体を現すというだろう。私はあれを実践したくてね。最近は日本人とも思えないような奇抜で滑稽な名前をつけるのが流行っているようだが……。君、英文学なんてものをやるとますます日本語の素晴らしさに気づくものなんだよ。言葉というものはすべて組み合わせだからね。だから私はシェイクスピアやルイス・キャロルを研究するには、なによりも日本語を学ぶ必要があるように思っているんだ」
なにをか言わんや、だ。
父のこんな講釈を聞くのはうんざりだった。子供の頃から何度も聞かされてきただけでなく、父の実践とやらを細胞のひとつひとつにいたるまで味わっているのだから。いくら名が体を現そうとも、所詮同じ入れ物。私が聡明である必要もなければ、優美が優美である必要もない。父は最近の突拍子もない漫画みたいな名前を小馬鹿にしているが、所詮名前など記号にすぎないのだ。名前で人間を決められてたまるものか。
男は興味深層に頷くと、今一度私達の顔を見つめた。
私は男からすっと目をそらした。
「失礼します」
テーブルの上の紅茶茶碗は古びたアンティークで、父の思想もそのようなものだと思った。
二人して書斎を出て行くと、私は男の前に立ったことをひどく物悲しく感じた。これでは私達が男を見物に行ったのではなく、父の余興に引き出されたようなものであると。
「男前だったね」
ユウビが耳元で囁いたが、そんなこと私にはどうでもよかった。少なくとも、私には。
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