第3話
年が明けて寒さは一層厳しくなり、受験勉強もいよいよ佳境に入る頃になると私の体調管理が取り沙汰されるようになった。父は岡田さんに食事について今まで以上の配慮を要求し、部屋には加湿器が導入された。
私は父の気遣いを純然たる厚意ではなく、研究室でバイオの実験でもしているようだと思った。名門大学へ私を合格させるのは私という人間を思い通りに作っていこうとしているのと同じで、ただ大きなテーマの実験だと。
「準備は整っているんだから、あとは自己管理だ。己を律することができなくては、受かるものも受かるまい。ソウメイも馬鹿じゃないんだから、そのぐらいなことは分かるだろう」
私はその言葉を黙って聞くよりなかった。父の発言はいつも断定的で、その分だけ冷酷な印象を与える。
私達の食事の支度や給仕、もろもろの雑務をこなして岡田さんが自室へ戻ると、この昔ながらの日本家屋は不気味な静寂に包まれる。玄関は馬鹿馬鹿しいほど広く、上がり框から廊下にかけてはよく磨かれて黒光りがしていた。
玄関から入ってすぐは応接室。古臭い照明と色あせた薔薇模様のビロードのソファがあり、ユウビのピアノが置かれている。そこから進むと座敷と父の書斎、寝室。これらはすべて庭に面しており、縁側で一連なりになっていて、さらに廊下を挟んで台所や食堂、風呂やトイレ。岡田さんの部屋は台所脇の六畳の小部屋。二階は私とユウビの部屋の他に空き部屋が二つもあった。
そんな家に三人きり。暗くて寒くて、いやな夜だった。
ユウビは自室へ引き上げようとする私を引きとめ、
「久しぶりに、ちょっと弾かない?」
と、私を応接室へ誘った。
「弾く」とはヴァイオリンのことだった。子供の頃から習っていたヴァイオリンも受験勉強が佳境に入ってからというものすっかり打ち捨てられおり、ケースに収まったまま忘れ去られようとしていた。
「あまりやかましい曲は勘弁してくれよ」
父はそう言い残して自室へ戻った。首にはカシミアの小さな襟巻きをしていた。時々風が強く窓を揺らした。
ユウビが冷えきった応接室のストーブを付けている間に私はケースからヴァイオリンを取り出した。
かつて私はヴァイオリンを愛し、熱心に練習していた時代があった。それには少しばかりユウビのピアノに対する対抗意識もあったかもしれない。ユウビが華麗に難曲を弾きこなすことへの競争心が。
私は先生が驚くほど真面目に練習に耽った。うんざりするような単純なスケールもひたすら弾きこんだ。肩や腕が痛んでも弱音は吐かなかった。しかし、それを止めたのは父だった。
「ソウメイ、ヴァイオリンはほどほどにして勉強しなさい」
たった一言そう言った父は薄ら笑いさえ浮かべていた。私は一瞬戸惑った。が、すぐにすべてを理解した。父が私に音楽の才能など求めていないということを。
私は父がいつも苦言を呈する時にするように、苦虫を噛み潰したような不快な調子で言われるよりもよほど絶望的な気持ちになった。
才能というものがどういうものかは知らないが、自分の努力がまるきり無視されることが空しく、せつなかった。これはユウビの領分なのだ。そう思うと私は自分に当てられた役割について今更のように思い知らされた。
私は弓に固形の松脂を塗りつけ、ヴァイオリンを構えた。
「Aの音、ちょうだい」
ユウビは言われるままにぽんと一つ鍵盤を叩いた。それに被さるように私は弓をゆっくり動かした。荒れた音が部屋中をわなわなと流れた。
私達は無言で調律を行った。次第に部屋が温まってくると、ユウビは私を振り返った。
「ユーモレスクは?」
「……うん、大丈夫と思う」
「譜面ある?」
「うん」
私は戸棚から楽譜をとってくると譜面台に広げた。ユウビは暗く沈んだ横顔でじっと鍵盤に目を落としていて、見開かれた目の中にはずらずらと白鍵が映りこんでいた。
なぜかこの時私はユウビの様子を怖いと思った。黒目が美しかったが、それは底なし沼のような静けさで、ひたすら暗く光っていた。
ユウビはおもむろにユーモレスクの伴奏を弾き始めた。私は観念したように譜面を見つめ、音符を追いながら弦の上を弓を滑らせた。
調律されたヴァイオリンはユウビの奏でる柔らかなタッチにあわせて、滑らかで軽快な、それでいて物悲しいような旋律を醸し出した。私は弾きながら、ちらとユウビに視線を走らせた。
ユウビは今でこそ従順にピアノを続けているけれど、子供の頃は事あるごとに辞めたいといって泣いた。練習がいやだったのではない。ユウビは泣きながら駄々をこね「ソウメイと替わりたい」と言った。ようするに、ピアノではなくヴァイオリンがいい、と。
どういうわけか、ユウビは自分の習い事よりも私の習い事の方をやりたがり、ヴァイオリンに限ったことではなく、どんなことでも必ず一度は「替わりたい」と言った。私にはどちらでも良かったので父に訴えるユウビの肩をもって「替わってもいいよ」と言ったりもしたが、父は聞き入れようとはしなかった。
「お前達はなにかカン違いをしているな」
父は言った。
「人には適材適所というものがある。私はそれを踏まえた上でお前達に合っているものを習わせているんだ」
「でも、私はピアノよりヴァイオリンの方が合ってるもん」
ちょうど岡田さんが台所で食後の果物を用意しているところで、食堂にあるテレビからはニュース番組が流れていた。私ははらはらしながら二人を見守っていた。
「合っているかどうかはお前が決めることじゃない」
父はそれ以上ユウビには何も言わせなかった。お前が決めることじゃない。こんな単純な言葉が他にあるだろうか。それはもちろん子供だからという意味では、ない。私はべそをかくユウビを見つめながら、それでは私達が生きるのも死ぬのもきっと父が決めることなのだろうと思った。
ユーモレスクを弾き終わると、私は息苦しさを感じユウビに尋ねた。
「なにかあったの」
ユウビはゆっくり顔をこちらへ振り向け、じっと私を見た。まるで確認するように顔の造作の一つ一つを視線が辿っていく。
「……別になにもないわ。ちょっと久しぶりにソウメイと弾きたかっただけ。ソウメイ、勉強ばっかしてるんだもの」
ユウビはそう言ってふいと顔をそむけた。
私はその言葉にふと微かに笑った。そうだ、ユウビには私しかいないのだ。自由に友達を作ることも許されなかった私達は、いかなる場合も互いの存在以外に頼るものもなければ、笑いあうことさえできないのだ。そう思うと私はユウビの不安にも似た寂しさを理解することができた。
が、同時にそれは私にかつて一人だけいた友達のことを思い出させずにはおけなかった。
私は戯れにG線上のアリアの旋律を弾き始めた。ユウビは椅子の上で片膝を抱えて聴き入っていた。
中等部の時のことだ。たまたま隣りの席になったのをきっかけに、私は同じクラスの女の子と友達になった。彼女はコーラス部で伴奏をしていて、黒目がちな可愛い顔をしていた。
彼女はいたって普通の家の、普通の女の子だった。ピアノが好きで、成績は中の上、教室でも他にも幾人も仲のいい友達を持っていた。手足が細く、小柄だった。私とユウビを見ても好奇心を剥き出しにしたりせず、常識的で良心的で善良だった。
なにより、彼女が私とユウビをまったく別の人間、即ち一人格として扱うところが新鮮だった。それまで、完璧に似通った容姿の私達双子が比較されないことなどありえなかったのだから。
私は初めて出来た友達に浮かれていたのかもしれない。
ある時、父の留守中に彼女を自宅へ招いた時のことだった。私達は桜の下でケーキを食べ、笑い、彼女は庭の広さや桜の大きさにずいぶん感心し、おっとりした調子で感想を述べた。
その間ずっとユウビは不機嫌な顔をしていたが、私はそんなことまで気が回らなかったし不機嫌の理由も分からなかった。
私は彼女に応接室でピアノを弾いてくれるよう頼んだ。ユウビのピアノを。
応接間には午後の光りが溢れ眩しいほどだった。私は彼女が「乙女の祈り」を弾く隣りに立っていた。柔らかく繊細なタッチだと思った。ユウビとは違う、優しく、メロウなピアノだと。
そして弾き終わった時、ソファにゆったりと背中を預けていたユウビが突然一言、言った。
「へったくそ」
私は驚きのあまり口もきけなかった。
しかし友達は困ったように笑い「そりゃああなたの方が上手いに決まってるわ」と言った。
私は慌てて彼女に謝った。彼女は気にしていないと笑ったけれど、私は恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
彼女が帰ると私はすぐにユウビに詰め寄った。
「なんであんなこと言うのよ!」
「だって、あんなつまんない子とソウメイが仲良いなんておかしいよ」
ユウビは応接間のソファに座ったまま、私を睨んだ。
「つまんなくなんかないわよ」
「つまんないよ。平凡な子じゃない。ピアノもそんな上手いわけじゃないしさ。ソウメイ、人を見る目がないよ」
ユウビはふんぞり返るようにして、実に不満そうに鼻を鳴らした。
こういう時のユウビはいつもひどく子供じみた顔をする。駄々をこねたり、ワガママを言う時、自分の言い分を押し通そうとする時、ユウビは不貞腐れて唇を尖らせる。
私は腹立たしくてしょうがなかったが、反面、自分と同じ顔の片割れが自分とまったく違う態度を見せることに奇妙な安心を覚えていた。
ユウビが自分と異なった態度を示す度に、ここにいる自分は確かに「自分」なのだと思える。鏡にうつる片割れの「写し」ではなく、意思を持ったただ一人の自分自身であると。
そんな風にしか確認できないのは悲しいことだけれど、私はこの時もユウビの態度に腹を立てることができる自分にほっとしていた。私とユウビの態度が違うほど、あのおとなしやかな級友は「私の友達」だと思えたから。
「ユウビにはつまんなくても私はそうは思わない。あの子、いい子だよ。私は彼女が好きなの」
「じゃあ、またうちへ連れて来るつもり?」
「いけない?」
こんなやり取りは無意味だと思った私はわざとそっけなく返し、その場で話を打ち切った。
その夜の食卓でユウビは一言も口をきかなかった。ただテーブルの向こう側から私を睨むだけで、黙々と箸を動かしていた。
そんな喧嘩は初めてだったが、私は友達ができたことで強気になっていたのだと思う。ユウビと口をきかなくても平気だった。つらくもなければ、怖くもなかった。
ユウビも最初は黙って様子を見ていたが、反目しあって一週間目。とうとう反撃が始まった。
教室のユウビは押しの強い態度と厳しい眼差しが目立ち、女王様然としていて奇妙な発言力があった。即ち、ユウビが「あの子、なんかうざいよね」と言えば、誰もが洗脳されたかのようにそれに賛同し、付き従うような力が。同じ顔をしているのに、同じ血と肉を分け合っているのにユウビの存在感は派手やかで、冷静な風を装う優等生の私とは正反対だった。
ほどなく彼女は教室でもぽつんと一人で座っているような存在になった。
ユウビは教室中に彼女を「シカト」するよう触れてまわり、他の女の子達を扇動してロッカーの体操着を水浸しにしたり、教科書を破ったりするという「いじめ」まで展開した。
初めて心を許すことのできる友達だったのに、それをこんな形で分断されるのは身を切るような痛みがあった。
私はユウビに言った。
「私の負けよ。だから、こんなことするのはやめて」
血の出るほど固く拳を握り、屈辱的な敗北宣言をするとユウビはにやりと笑った。
「なんのこと?」
「変ないじめはやめて」
「いじめだなんて人聞き悪いわね」
「ユウビ。これ以上続けるとただじゃおかないよ」
「そんなのソウメイ次第だわ」
ユウビはつんとそっぽを向いた。私はやむなくユウビに従うことにした。即ち、ユウビ以外の誰にも心を許したりはしないということを暗黙のうちに約束した。たった一人の友達を守る為に。
……その後、最初で最後の友達は両親の離婚に伴い転校していったが、私は彼女にさよならも言えなかった。
ユウビは彼女が転校するとわざわざ私が勉強しているところへやってきて、耳元で囁いた。
「邪魔者は消えたわ」
私は咄嗟にユウビを殴りそうになった。が、その目を見て一瞬で萎えた。ユウビは今にも泣きそうな顔をしていた。
「ソウメイには私がいるじゃない」
「……」
「他の誰もいらないわよ」
私は父とユウビは似ていると思った。どちらも他人を遠ざけたがる。自分が絶対的な存在であるために。私はユウビを哀れに思った。そして、片割れである自分も、また。
「……ストーブ消し忘れないでよ」
「分かってる」
私はヴァイオリンをケースに収め、蓋を閉めると応接室を出た。ユウビはまだ一人思案げにその場に留まっていた。
自室に戻った私は後ろ手に扉を閉めるとしばし目を閉じ、逡巡した。これまでの人生について。私とユウビが辿った道筋について。双子でありながら決して交わることのない永遠の平行線を。
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