道端でイケメン泣いてて草
ペボ山
第1話
自販機の脇で、おそらくイケメンが泣いていた。
ド深夜で真っ暗なので、よく顔は見えない。暗がりの中でもイケメンと断ずるのは、俺がオーラとシルエットだけで物を言っているからだ。
だが生憎、俺はランニング中であるからして。啜り泣くイケメンの脇を、「イケメンが泣いているなぁ」と思いながら駆け抜けた。
「…………………………………徳川埋蔵金」
俺はバックステップでイケメンの元へと舞い戻った。聞き間違いでなければ、彼、今すごい事を口走らなかったか。
「徳川埋蔵金?」
「………?」
復唱すれば、イケメンは、綺麗なつむじをふるりと揺らす。やがて擡げられた相貌は、やっぱりイケメンだった。校区内でも有名な、名門校の制服を着ている。イケメンで経歴も勝ち組とか、ちょっとどころじゃなく羨ましい。でも、ヤバい人に絡まれちゃった!みたいな顔をしないでほしい。泣きながら「徳川埋蔵金…」とか呟くイケメンがいたら、誰だって二度見する。
「み、見つけたんですか?」
涙目で首を傾げるイケメン。見つけたんですかって、何をだ。埋蔵金をか?それを聞きたいのは俺の方なんだが。
「いや…………見つけてないです………」
とりあえず、正直に事実を述べておく。「そっか……」と、イケメンがさめざめ泣き始めたので、取り敢えずスマホでフラッシュを焚いた。
「徳川埋蔵金」は、漢詩だか和歌だか俳句だかの冒頭だったらしい。嘘みたいな字面だが、彼は「徳川埋蔵金」で始まる辞世の句を詠もうとしていた。頭がおかしい。
「何て続ける気だったんだ」
「…………死にたい」
「『徳川埋蔵金』から、何をどう広げるつもりだったんだ」
「死ィ………」
「なぁ、下の句だけで良いから教………」
「フラッシュ焚かれたときに全部トんじゃった」
それは俺が悪いな。しょうがない。やけにしっかりとした口調で首を振った彼は、メンインブラックの世界からやってきたのかもしれない。見ていると何かこう、焚いておかなきゃと強く思わされる。フラッシュを。記憶処理を施さねば。
「眩しい!」
「すまない……」
「謝りながら頑なに焚いてくる!こ、怖い!」
イケメンが泣きながら「何で病んでるのか聞いてよ!」と叫ぶので、「なんで病んでるんだ?」と尋ねる。尋ねれば、鼻を啜り、「何でだっけ……」と首を傾げた。
何だこの人。
「…………俺、カッコ良いでしょう?」
マジで何だこの人。
柳眉を寄せ。星の散った瞳が、上目遣いで俺を覗き込んでくる。絨毯みたいな長い睫毛が、あざとく瞬いた。
「綺麗なお顔だとは……思いますん……」
「絶妙に優柔不断だね」
「すん………」
認めるのは癪だが、イケメンは近くで見ると尚更イケメンだ。俺にしばらく詰め寄って、諦めたように物鬱げに溜息を吐いて。睫毛が触れ合うほどの至近距離で、目を細めた。
「君は……凡庸な顔をしてるね」
「?………?、……??」
「羨ましいな…」
「?………?喧嘩か?」
あまりにも流暢に貶められる物だから、理解よりも先に手が出そうになる。拳を握り締めた右手を、咄嗟に左手で抑えつけた。「バレー部はスナップで人を傷付けてはならない」と法で定められて無ければ、俺は今確実にこいつを殴り殺していただろう。
だが、憐れ。俺は、規律と倫理という首輪に繋がれた犬である。代わりにこめかみを震わせながら、彫りの深い尊顔を舐めるように見てやる。チクショウ美しいな。血走った目でジロジロ見れば、イケメンは気不味げに目を伏せた。
「俺、きっとこの顔のせいで病んでたんだ」
「えっと…全然剥ごうか?顔面の皮とか」
「君のフラッシュで忘れちゃったけど、多分すごく嫌な思いをした」
俄には信じ難い。ちょっと目が潰れただけで忘れる程度の苦痛で、此奴は今こうなっているのだ。
メンタルがヘラヘラなメンヘラか、物凄いバカか。究極の二択である。前者だとしたら、あまり良く無いヘラり方をしていると思う。
「でも、君の顔見てたら元気になってきたよ」
「下を見て喜ぶタイプか?」
「違うよ。なんだか単純に、喋ってて楽しい。こんな気分になったのは久しぶりだよ」
「俺も久しぶりだ、こんな気分になったのは」
おかげで怒りで臓腑が捩れそうだ。皮肉と自制を込めて唸れば、御影くんは「え!」と表情を明るくする。
「君も友達がいないの?」
澄んだ目で他人の不幸を喜ぶイケメン。その表情があまりにも純粋な物なので、感情が、憐れみ:怒り:恐怖=7:2:1みたいになってしまう。汗まみれのタオルをそっと差し出せば、「それは要らない…」とやんわりと断られた。こいつ。
「早瀬くん」
「貴様なんで俺の名を」
「俺とお友達になってよ」
感情が、一気に恐怖:怒り:憐れみ=8:1:1みたいになる。だって、この底知れなさ、話の通じなさ。薄々は感じていたが、『関わったらヤバい』系のそれでは無いか。百害あって一利無し、なんて言葉が、脳裏を掠めた。ゆっくりと後ずさり、文字盤に蛍光塗料の塗られた時計を、一瞥する。もう一度視線を上げれば、そこには、何処までも無垢な目をした青年が居た。
「明日もここに来る?」
「お前は明日もここにくるか?」
「君がくるなら」
「そうか」
なら俺は絶対来ない。
言外に頷いて、「それじゃあ」と手を上げる。ご機嫌にチョキを出すイケメンは、本当に友達付き合いという物に絶望的に縁が無いようだ。キラキラと輝く眼が眩しい。後出しジャンケンで勝って何がそんなに嬉しいのだ。本当に気味が悪い奴だ。
「またね!」と背後から飛んできた声に、足の回転を速める。脳内のランニングコースに、ばつ印をつけておいた。
***
「げ…………」
ランニングコースにイケメンがいた。いつかのイケメンである。まさか、さらにルートを変えた先でかちあうだなんて思っていなくて、咄嗟に電柱の影に身を隠した。
「……御影くん、今日はごめんね」
側の女生徒の声だろうか。細い声は、何かに耐えるように震えている。俗に言う修羅場のようなそれに、ルートを変えようと足を踏み出した。
「気にしないで」
柔らかく、落ち着いたテノール。あの情けない嗚咽からは想像もつかない。
「俺こそごめんね。気持ちは嬉しかったけれど、俺、不甲斐ないから。恋愛をするだけの余裕が無いんだ」
「………………」
「それに君は、俺の恋人には役不足だ。俺に君は勿体無いよ」
………もっと素敵な人がお似合いだ。
囁くように言えば、縺れ、倒れ込むように女生徒がイケメンの懐へと飛び込む。俗に言う抱擁から目が離せずに、俺は非常口マークみたいなポーズでそれを見守っていた。
「早瀬くん」
「背中に目でも付いてるのか」
「盗み聞きは趣味が悪いと思う」
体感20分。いい加減汗も乾き身体が冷えてきた頃に、女生徒とイケメンは逢瀬をやめた。そしてそれを20分ガン見していた俺は、イケメンと鉢合わせる前にとっとと帰るつもりだったのだが。
「昔から気配には敏感なんだ……」
「一族の者か」
どう言う原理か、俺の気はしっかりと察知されていたようだ。心なし不機嫌に見えるのは、きっと気のせいではない。ひとつ心当たりがあった。
「久しぶりだね」
「ランニングコースは日替わりだ」
「ランチみたいだね。………俺まだ何も言ってないけど?」
あのジャンケン以来、俺は徹底してあのコースを避けてきた。「またね」と再会を約束した気になって居たイケメンくんは、当然ご立腹だろう。
「…………あー、『ミカゲくん』は──」
「晴翔」
話を兎に角逸らしたくて、視線を彷徨わせる。視線を彷徨わせれば、名前をしっかりと訂正しながら、御影くんは俺の顔を覗き込んだ。このまま行けば、鼻先がコッツンこしてしまいそうな至近距離。
「ミカゲハルトくんは、その、」
正しいフルネームで呼べば、幾らか表情が明るんだようだ。それより前々から思っていたが、彼は目がすごく悪かったりするのだろうか。そうでなければ、パーソナルスペースに致命的なバグを抱えている。イケメンってみんなそうなのか?
昔馴染みの顔を思い出しながら、「あれだ」と呻く。口下手が憎い。
「…………学校ではああなのか?」
全力で相貌を逸らしながら尋ねると、御影くんはどこか不機嫌そうに眉を寄せた。「ああって?」、と拗ねたように聞く声は、純粋な疑問と言うよりは、その先を知って促すような口調だった。
「随分と紳士的なんだな」
「……………」
「女の子ちゃんと家まで送って」
「………普通だよ。暗くなったら危ないでしょ」
「俺にも、もっと紳士的に接してくれて良いんだぞ」
反応無し。ヒュウ、と駆け抜けた夜風が、体の内側まで冷ましていくみたいだ。なんだか気まずくなってしまって、視線を御影の相貌に移して。
次に目に飛び込んできた光景に、俺は絶句した。
「な、泣………!?」
御影くんが泣いていたからだ。
ぼろぼろととめど無く流れる涙は、昨日と同じ物だ。星の散る双眸を潤ませて、同様に星の沈んだ雫を零す。
琴線が。琴線が分からないです。
今の軽口のどこに、泣くほど悲しむ要素があったのか。ワタワタと今度は俺が顔を覗き込めば、御影くんは、高い鼻をズビズビ啜った。
「ぼれ゛ぶぁ゛!」
「何!なんだって?!」
「ぎみ゛に゛だげぶぁぴるぴるォオンヂョ!!」
あり得ない大号泣をかます御影くんの背を摩る。従兄弟が幼いので、幸い宥めるのは慣れているが。すごいな。5歳の未就学児でも、泣く時に「ォオンヂョ!」とか言わないぞ。
漸く落ち着きを取り戻してきた御影くんに、ポカエリアスを差し出してあげる。
「なに、どうしたの。御影くんはなんで泣いてるの」
「ぎみをおぐるのはいやだ!」
「それもそうか」
俺もこいつに送られるのは嫌だ。何というか、こう、あんまり家とか教えたくないタイプだ。「あどぉ!」と泣き喚いた剣幕に仰反る。しかしイケメンは凄いな。多少体液塗れでも、そう言う前衛アートに見えなくもない。
「俺は、グスっ、王子様じゃない………」
「王子様?」
俺は一言もそう言う事は言っていないが。
「御影くんは自意識過剰なのか?」
「ピーーッ!」
また泣き始めてしまった御影くん。仕方ないのでペットボトルのキャップを開けて、黙───、口に突っ込んであげる。バブちゃんみたいだ。でも金髪バブちゃんとか絶対に俺の子じゃないので、気分は外人に妻を寝取られ、他人の子を世話させられる父親だ。何だかイライラしてきた。
「………でも皆んなはぁ、ズビー!俺の事、王子様だって、グスッ、」
「ああ………」
ここに来て漸く、このバブ公の言いたいことが理解できた気がする。あと、泣いていた理由も何となく。
「俺、そんな完璧な人間じゃないのに……」
「……………」
「皆んな俺を見てくれない……本当の俺を許してくれる人がいない……」
「御影くん………」
「俺だって帰りに友達とマック寄りたいし、カラオケ行きたいし、あとウンコも全然する!」
最後のは、「アイドルはウンコしない!」的なそれだろうか。マジか御影くん。学校でウンコすらできないのか。思いの外事態が深刻で、少しかわいそうになってきた。
要するに御影くんは、高校デビューに失敗したのだ。あの容姿のせいで一目置かれ距離を置かれ。ついには一種の神格化のような物を受けて、自由に身動きが取れなくなってしまっている。偶像と本当の自分とのギャップに押しつぶされそうになりながら、彼は今日もあの日もメソメソ泣いていたのだろうか。
「……………早瀬くんは、」
「なんだ」
「あっちの俺の方が良い?」
タオルを差し出せば、タグに書かれた『早瀬』と言うペン文字が見える。成る程だから此奴は、俺の名前を知っていたのか。よく見ているなと感心しつつ、すっかりとしょぼくれてしまった御影くんへと視線を戻す。
「どっちでも正直変わらない。どれだけカレーっぽい味のウンコも、一度ウンコって知ってしまえばウンコでしか無いし」
「ウンコ……?俺のこと……?」
御影くんが、弾かれたように顔を上げた。その相貌には、困惑と恐れが滲んでいて。俺の言葉の真意を、計りかねている様子だった。
無理もない。思考がウンコに引っ張られすぎだ。気不味くなって、「あー、何だ」と先の言葉を探す。
「……どうせ変わらないなら、お前の楽な方で良いんじゃないか?」
「………っ、」
「さっきのアレは冗談だ。俺は本当にどっちでも良い」
頬を掻きながら言えば、御影くんは煙る睫毛を瞬いた。星の散った瞳から、ぽろと涙が零れ落ちる。
「………言ってる事大分恥ずかしいよ……」
俺は御影を殴った。
「い、痛!痛ーっ!」
「なんだろう。なんだかすごい、返してほしい気持ちだ。いろいろな物を」
「いやだ!返さない…!俺だけの物だ!」
謎の執着を叫ぶ御影に、我に帰って手の甲を冷ます。利き手を痛めてしまったら、明日からの部活動に支障が出てしまうのだ。
「暴力人間。君友達居ないだろ」
「お前が初めてだよ、人をグーで殴ったのは」
今度は生理的な涙を流し始めていた御影。俺の言葉に、驚いたように目を見開いた。元より二重幅も広く、大きな瞳だ。それが今は、さらにこぼれ落ちそうなくらいに開かれていて。
「お、俺が?」
掠れた声音での質問に、「そうだよ」と頷いておく。お前は俺の人生の、唯一の汚点だ。
「俺が、初めて?」
「当たり前だ」
「君が殴ったのは俺だけ?」
俺が人を殴った事がないと言う事象が、そこまで意外だっただろうか。それともあちら側の問題か。こんなナリをして、裏切りと暴力が日常なスラム街で育ったとかだったらどうしよう。そんな懸念を抱くうちに、「そっか」と、御影は破顔する。その顔があまりにも無邪気で、嬉しそうで。
「ふふ、ふへへ」
「御影?」
「へへ…そっかぁ……うふふ、俺だけかぁ………い、痛!?」
発狂したのかと思った。気のせいだったみたいだ。
張られた頬を押さえて、御影は信じられない物を見るような目を此方に向けてくる。その顔をしたいのは俺の方だ。正気でその情緒は、正直一番怖い。決して長い時間とは言えないが、彼と話していると、何か、人の形をしただけの地球外生命体とでも向かい合っている気分になる。
不満気に眉を寄せる美青年を眺めながら、脳内マップに二つ目のバツ印を付けた。
快速の停車地点でもある最寄り駅は、飲食店や小売商店が充実している。どの時間帯でもそこそこ人がいて、それは部活終わりの今でも変わらない。
が、見慣れた金髪頭を見つけたので、特に大きくもない体を縮めて歩く。ただでさえ目立つ髪の色をしているのに加え、常に道行く人たちの視線の中心に居る。御影の派手で整った容姿は、隠密行動と致命的に相性が悪い。いや、彼奴に隠れる気があるのかどうかはわからないが。
進路を変える。抜き足差し足忍び足。今日は特に部活で絞られたので、着古したセーターみたいにクタクタだ。兎に角、彼奴に絡まれることだけは避けたかった。
「………付き合うって何なんだろう」
「もう既に話を聞きたく無いんだが」
もっとマシな挨拶は無かっただろうか。知らん顔で通り過ぎようとした俺の手を、御影はガッチリと掴んだ。
「部活お疲れ様」
「と言うかお前、どこから……つい先刻まであそこに…」
「前きみが言ってたやつ。なんだっけ」
「なんだ」
「ほら俺、陰部の者だから」
「陰部の者はまずい」
多分暗部の者って言いたかったんだろうな。読んでも無い漫画の知識を、中途半端に使おうとするから。それに俺は暗部云々の話など一言もしていない。兎にも角にも、もし俺が4歳の女児だったら、今頃此奴の両手には、確実に手錠がかかっていただろう。
「……お前の帰る方向はどっちだ」
「えっ、まだ帰らないけど」
譲歩して譲歩して、一緒の下校を提案したのに。当の本人は、何やら用事があるようだ。なんだか一方的に振られた気分になったので、足元を見ながら口をムズムズさせておく。
「ほら、早く行こう。1時間くらい待ってたんだから」
「は?」
ぐ、と腕を引かれる感覚に、視線を上げる。
待っていた?1時間?
言いたい事も聞きたい事も、気掛かりは幾つもあるが。一番はその表情である。
興奮したように桃色に色付く、新雪みたいな相貌。若葉色の目は、活き活きと謎の活力を湛えていて。
………此奴、こんな目の色をしていたのか。
明かりの下で初めて見る御影の目は、暗がりで見るそれよりもずっと鮮やかな色をしていた。
「待て。待て待て待て待て」
更に腕を引かれる感覚に、我に帰り声を上げる。声を上げて、俺の手を取ったままズンズンと何処かへと行こうとする御影くんを、どうにか引き留めた。
「何?説明して?説明をしろ」
「マックに行く?」
きょと、と。既に決定した事実の、確認をとるみたいに。御影くんは、相変わらず澄んだ目で首を傾げる。いや首を傾げられても。
「行けば良い」
「君も一緒に行くんだよ」
だから初耳なんだって。
「友達はマック行くものでしょ?」
「あぁ…………」
……そう言えばそうだ。御影には友達が居ないのだ。
眉間を揉み解しながら、天を仰ぐ。星空が綺麗だ。彼はどうやら、本当に友達がほしくて仕方無いらしい。固執するあまり、必要なプロセスをすっ飛ばすくらいには。
「そう言うのはだな、御影」
「なに、早瀬くん」
嬉しそうに俺の名を復唱する。一連のやり取りの、何処に此奴が喜びを見出したのかは知らんが。
「急に友達を引っ張って行く物じゃ無い。まず提案して、同意を得て、約束して、履行される物なんだ」
「マック行こ早瀬くん」
「事前にだ事前に。誰が今誘えと言った」
「無理だよ。事前には無理だ、早瀬くん」
柔らかく言いながらも、その態度は頑なだ。前々から思ってはいたが、この男は類を見ない頑固者である。竹のようにほっそりとしているが、竹のように柔軟に丈夫。折れたかと思えば、たわんで、思いも寄らぬ方向から起き上がってくる。今までを振り返ってみると、廻り道をしても、結局全部コイツの望んだ結果に帰着している気がして。
「………なんで」
だから、密かに身構える。また此奴の我儘を聞き届けるのは余りにも癪だった。凡ゆる角度からの屁理屈を想定して、考え得る限りの反論を練り上げる。前傾姿勢になった俺に、御影は不思議そうに首を傾げた。
「だって俺、君の連絡先知らないもん」
「……確かに?」
「そう言う事だから、ね?」
御影は、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。腰を屈め、俺を見上げるようにしてにじり寄ってくる。
言わんとする事は分かるが、その何かを期待するような顔は非常に癪に触る。それを俺に言わせようと言う魂胆も、気に入らない。懐を抑えながら、後退る。俺は言わないぞ。絶対に言ってやる物か。
『連絡先交換する?』などと。
「それとも、次から君の学校に誘いに行こうか?」
「あー、何だ、」
俺はスマートフォンを取り出した。
「連絡先交換する?」
「失礼だと思わない?それはもはや冒涜の域だよ」
「なにが」
「ハンバーガーショップに来て、バンズを食べないて君」
御影は、その上品な見目に似合わぬ大口で、ハンバーガーを頬張る。モゴモゴと咀嚼しながら、サラダだけが置かれた俺のトレーを睨んだ。
結局あの後、俺は此奴と連絡先を交換し、ハンバーガーショップでダベる事になった。つまり全部御影の思い通りである。自分の不甲斐なさに涙ぐんでしまう。
「仕方ないだろ、部活で決められてるんだ」
「ジャンクフードはダメって?」
「お菓子と炭酸と、あとそれ以外のジュース」
「かわいそう………」
言いながら、さっきの数倍増しで美味しそうにハンバーガーを齧る。ポテトとコーラと。律儀に三角食べ見せつけて、また「かわいそう…」と眉根を寄せた。御影はサイコパスなのかもしれない。
「辞めちゃいなよ、そんなの」
「……………」
整った指先に摘まれたポテトが、俺の口元へと寄せられる。ツン、と下唇を突いたそれに、視線を落とす。そして、御影の顔を見た。単純に気になったのだ。どんな表情でそれを言っているのか。
「………いや、良い」
どうやら悪意は無いようなので、ご丁寧にお断りしておく。優しげに細められた瞳には、無邪気な慈愛だけが滲んでいる。ピカピカの泥団子をくれた従兄弟が、丁度こんな感じの表情をしていた。
「それよりお前の話だ、御影」
「俺の?」
「そう」
言いながら、フォークでレタスをつつく。フォークでサラダは食べにくい。箸をもらって来るべきだろうか。
「駅で何か言ってなかったか?『付き合う』云々…」
「違う!『付き合わない』の!」
思い出したような顔をして、すぐに、大きな声で否定する。店中の視線をほしいままにして、御影は両頬を膨らませた。俺は迷惑をかけた他のお客さんに、頭を下げるので忙しい。
「そうだよ、聞いてよ早瀬くん」
「聞いてるから少しボリュームを落とせ」
「………………」
唇は動いているが、声が聞こえてこない。声を落とせとは確かに言ったが。極端すぎる。0か100 かしか無いのか、この男には。
「また告白されたんだよ、女の子に!」
「おめでとう」
「おめでたいものか!どうせ付き合ったって、また振られるんだ。『本当に私の事好きなの?』って。勝手だよね!?告白してきたのはあっちなのに!」
ぷりぷりと怒りながら、「君もそう思うだろ」とポテトを頬張る。これが嫌味にも自慢にも聞こえないのが、本当にすごい。当然のように告白されて、当然のようにそれを不快に思って。そこに他意は無く、御影はただ単に、事実を並べているだけなのだと分かる。
「御影はすごいな。俺は多分、それが全く知らない子でも浮き足立ってしまう」
「尻軽!?」
「語彙が渋すぎる。そう言う機会がお前ほど無いってだけだ。好意を向けられるのは、普通に嬉しい」
「節操無が無いにも程があるね。そんなの俺は許さないよ」
あまりの剣幕に仰反るが、子供みたいにむくれた表情はそこまで怖く無い。もう一度サラダを頬張れば、御影は、不機嫌に肘をつきながら「そもそもね」とボヤいた。
「付き合うって何さ。付き合ったら何になるのさ。何がどう変わるのさ。どうせ振られるなら時間の無駄でしょ」
「初対面で『凡庸な顔』とか言われたら、百年の恋も冷める」
「誰にでもそんな事言うわけないじゃん。俺これでも学校では、細心の注意を払ってるんだよ。顰蹙買わないように、誰にでも平等に接するように」
「それだろ」
トマトを刺したままのフォークで、御影を透かす。胡乱な目が、真っ赤な球体をぼんやりと眺めて居た。
「その人はお前の特別になりたいんだから」
言えば、御影は虚を突かれたような表情で固まる。皿みたいに見開かれた双眸は、何処か間抜けで面白い。何か言いたげに、口をぱくぱくと開閉させて。やや於いて、間抜けな表情のまま、「無理だ」と掠れた声を漏らした。
「見ず知らずの人間を、急に明日から特別だと思えるわけがない」
「それもそうか」
一理ある。だが、今現在おしどり夫婦と呼称される真柄にも、一目惚れから始まった物や、見合いから始まった物なんてごまんとあるだろうに。ただ彼は、それを許容しない。どうやら御影は、中々ロマンチストのようだ。
「一緒に放課後帰って、休日はデートして。そんな積み重ねで育まれる特別もある」
「そう言う物?」
「そう言う物だ」
「ふん」
吐き捨てるように言って、ぐったりと机に突っ伏す。完全に拗ねてしまったような所作だ。尖った唇の先から突き出たポテトが、モソモソと引き摺り込まれていく。シュレッダーみたいだ。
「物は試しに、また付き合ってみたらどうだ?」
「え!俺の放課後と休日が取られても良いの!?」
「嫌なら無理強いはしないが…」
「君は良いの!?俺が恋人を優先するんだよ!」
「………?お前の自由だとしか」
露骨に傷つきましたと言う表情をして、御影が仰反る。友情より恋人を優先するなど、割りかし対人関係では普通のことだと思うけれど。首を傾げれば、御影は口をモゴモゴさせて、「いやだね!」と眉間に皺を寄せた。
「好きでもない相手に、貴重な放課後も休日もくれてやるか」
未だ何かぐちぐち言っているが、言われれば確かにそうかもしれない。告白をされたなら、俺は必然的にその時間を相手に費やさねばならない。それは少し困ると思った。
「尻軽め……」
「だから尻軽じゃない。でも俺も確かに、今はそう言う相手は要らないかもしれない」
「えっ、どう言う心境の変化?」
相貌を擡げ、ばね仕掛けみたいに飛び起きる。
「何て挙動をするんだ」
凡そ人体の構造的にあり得ない挙動に、昔見たホラー映画を思い出す。映画の霊と異なるのは、浮かべた表情が、はち切れんばかりの歓喜だと言う点くらいだろうか。何故そんなに嬉しそうなのか。相変わらず此奴の琴線が分からない。
「俺には放課後も休日も無いからな」
「放課後も休日も、俺と遊ぶので忙しいもんね!」
「………?」
首を傾げる。部活で忙しいと言う意味だったのだが。誤解は良く無いので、口元まで持って行ったフォークを、容器に戻す。突き刺したままのトマトがコロンと転がった。
「御影、それは────」
「あれ、アキくん先輩!?」
振り返る。アッ、と言う表情をした青年が、ハンバーガーの乗ったトレーをサッと隠した。
右成だ。
同じバレー部の後輩。ジュニアチームの頃の後輩でもあるが、此奴は私立の中学に進み、アタッカーとして県大会ベスト4の成績を残した。実績の通りバレーはべらぼうに上手いが、右成はバカだった。バカなので、知った顔に声を見れば、後先考えずに声を掛けてしまう。
「サラダだけ?」
「お前は違うみたいだな」
「アキくん!」
涙目で、ワッとハンバーガーを隣の友人のトレーに放り投げた。
違反者への我が部の処遇は厳しい。
早朝の草毟りに始まり、練習中は体育館に先ず上げてもらえず、ひたすら走り込み。1週間ほどで漸く体育館に入れたと思えば、コートの周りを延々と逆立ちで歩かされる。比喩などでは無く、今この場で、此奴の命を握っているのは俺だった。特に今の代のキャプテンは、穏やかなナリをして、そこの所容赦がない。縋るような上目遣いで俺の顔を覗き込む右成は、いつの日かの御影に重なるみたいだった。
「箸を貰って来てくれるか」
「へ?」
「フォークじゃ食べ辛くて。……タダでとは言わないが」
「…………!」
俺の言わんとした事に気付いたのだろう。パァと相貌を明るませ、右成は垂直に腰を折る。
「アキくん先輩!最高!」
カウンターへ駆け出して行った背を見届けて、視線を戻した。顔を逸らせば、ジットリとした面持ちの御影と目が合った。何だその目は。言いたいことがあるなら言ったらどうなんだ。
「優しいんだ」
「素直に箸が欲しかっただけだ」
「嘘。もうすぐ食べ終わるじゃん」
確かに箸を頼んだものの、もうそろそろ食べ終わりそうだ。フォークを置いた俺の手を、御影がじぃっと見つめていた。
「………彼奴はレギュラーだ。今週の土日は試合だから、ペナルティは困る」
「うわ、残酷だなぁ。後輩の事差別すんの」
「別に、誰でも同じだ。そもそも、ハンバーガー1つの影響なんてたかが知れてる。下手な奴は制限しても下手だし、上手いやつは食っても上手い」
溜息を吐けば、翠眼が平べったく細められる。
「だから違反者を見過ごすの?甘いね、アキくん先輩は」
「俺はお前の先輩じゃない」
首を振る。御影は頬杖を付いた。俺の相貌を一瞥して、ぐる、と視線を空に彷徨わせる。
「………………いいなぁ」
やや於いて落とされた声は、隣の子を羨む園児のようなそれだった。
「渾名、良いなぁ。俺も渾名で呼びたい」
「は?」
「だってぇ、そっちのが友達っぽいじゃん」
上擦った声で言う。明後日の方向を向いた双眸が、ゆらゆらとあても無く揺れた。脈絡の無い奴だ。
「呼べば良い」
「なんて呼べば良い?」
「アキちゃんでもアキくんでもなんでも良い」
「嫌だ!」
我儘だ。
今度は俺の方が、ジットリと目を細める番だった。
「好きに呼べ」
吐き捨てると、御影は子供のようにヤダヤダ!と駄々を捏ねる。見苦しいので視線を逸らし、カウンターを見る。いい加減遅いと思った。後輩の背を探して、眉を寄せる。
「好きに呼んで良いの?早漏くんって呼んで良い?」
逆に何で良いと思ったのか。
俺の視線を遮るように、御影の端正な顔が視界に映り込んでくる。「ころすぞ」と、スッとフォークを持ち上げれば、「じゃあ名前くらい教えてよ」と唇を尖らせて。そういえば、俺は御影に下の名前を教えていなかったのだったか。
「明臣」
「アキオミ?ハヤセアキオミ?」
「ああ」
「イカツ」
聞いておいてこの反応である。もう一度スッとフォークを持ち上げれば、「アキくん先輩ー!」と、後輩が割り箸を持って駆け寄ってくる。
「ありがとう」
フォークを置き、箸を受け取る。御影の視線を感じながら、跳ねるように階段を登って行く後輩を見送った。
「きめた」
やや於いて、命拾いした御影が間延びした声をあげる。
「おみくん」
「おみくん?」
「君の渾名。今日から君はおみくんだ。俺専用のだから、他の人に呼ばれても返事はしないように」
「安直な……」
それでいて、何処か間抜けな響きだ。俺の抗議など耳に入って居ないようで、御影は満足そうに鼻を鳴らす。「おみくん」「おみくん」と、口の中で転がして、噛み締めるみたいにご機嫌に笑った。
「確かに良い。『特別』って素敵だ」
締まりのない笑顔である。
***
シューズのゴムと床の擦れる音が、あちこちから響く。
「セッターが上がってくるから、ライトバックが手薄になる」
「長いの一本打ち込んでみるか」
バレーコートの描かれたホワイトボード上に、マグネットを滑らせる。次に前衛となる右成に指示を出して、後輩から差し出されたタオルとスクイズを受け取った。
「強打の次は軟打で揺さぶろう」
「ブロック2枚ちゃんと付いてくるもんね。構えてる分、軟打には弱……あ、」
右成が声を上げる。何かに気付いたのだろうか。ボードから相貌を上げ、右成の視線を追う。
それはどうやら、アリーナの客席に向けられているようだった。県大会準準決ともなれば、バレー部以外の学校の人間も観戦に来る。大方、ご学友を見つけたか何かだろうとは思うが────、
「あの人、アキくん先輩のお友達じゃね?」
俺はスポーツドリンクを噴き出した。
「汚ねぇ!ちょ、勘弁して!ユニフォーム替え無いんだって」
「す、すすすすすすすすすすまん」
「良いけど……。あ、タオルサンキュー」
チームメイトにタオルを受け取りながら、右成は片眉を上げる。「あの人、ゲロ目立つね」と囁き掛けて来る後輩に、白目を剥いた。
そう、彼奴は確かにゲロ目立つ。本当に目立つから、そんな顔でこっちに手を振るな。
「おみくん!」
変な渾名で呼ぶな。
「汚ねぇ!」
またスポーツドリンクを噴き出した俺を、今度こそ右成は涙目で睨む。なんだか視界の端で俺の人望が急速に損なわれている気がするが、生憎今はそれどころじゃ無いのだ。吸い寄せられるような魅力のある男だ。謎のスポットライトを、常時背負っているような男。
「おみくん頑張れ!」
そんなべらぼうに目立つ奴が無闇矢鱈に叫べば、当然視線は一斉に此方へ集まる。
「おみくん………?」と、見た事無い顔で、御影と俺を交互に指差す右成。気持ちはすごく分かる。不味いことになったと思った。何故数日前の俺は、おいそれと「今週末は試合だから」などと漏らしてしまったのだろうかと。当然俺のメンタルはいつも通りとは言えないし、チームメイトも、いつも以上に集まる衆目に気付き始めているようだ。十分なパフォーマンスが出来るかどうか。
「らしくないね、明臣」
「………っ、」
肩を叩かれ、振り返る。
我らがキャプテン、長身長セッターの相津だった。薄く微笑めば、口元の黒子が生き物みたい動く。此奴とはジュニアからの長い付き合いだが。この凪いだような笑みには、昔から人の心を落ち着かせる何かがあるようだった。
「僕たちはいつも通りだよ」
「………」
「だから、お前もいつも通り行けば良い。頼りにしてるよ、『先輩』」
掴んだ肩に、そのまま寄り掛かるみたいに。耳元に寄せられた唇が、耳障りの良いテノールを吹き込んで来る。柔らかな蓬髪が、頬に触れて擽ったい。
「…………俺はお前の先輩じゃない」
相津のムーヴメントに、キャア!と、客席の相津ファンクラブが沸き立った。実を言うと試合時のギャラリーの大半が、此奴目当てだったりする。
自らの相貌が、苦笑の形に歪むのがわかった。
「確かに、いつもとそう変わらない」
「それでこそ僕のアタッカーだよ」
身体を離し、下がって行く体温を意識で追う。落ち着いて来た心情のまま、もう一度御影へと視線を送る。一応応援してくれた人間なのだ。あれではあまりにも感じが悪い。
翠色の目が、薄暗い照明の下で獣みたいに光って居た。元々無機質な美貌が、能面のような無感情で此方を見下ろしている。明らかに異様な雰囲気を背負う彼奴は、全く知らない男のようで。一瞬たじろぐが、そう大した問題だとは思わなかった。
「ありがとう」
吐き出した言葉は、試合再開のホイッスルに掻き消される。
翠眼が見開かれる。
微笑んで見せれば、たちまち色の無い相貌に喜色が広るのがわかった。ほら、大した問題じゃない。
「明臣、集中」
嗜めるような声のまま、ヌッと伸びて来た手が、俺の相貌をコートに向かせる。何処か不満気な相津に、「ああ」と返事をして。吐き出した声音が思いの外弾んでいた物だから、少しだけ驚いた。
***
「準決勝進出おめでとう!」
「ありがとう」
トイレから出てきた俺を出迎えたのは、満面の笑みの御影だった。ミーティングも終わり、あとは荷物を纏めて帰るだけなので、そう急ぐ必要も無いだろう。
「急に来てびっくりした?」
「ああ、びっくりした」
「ふふ、どうしても君の勇姿が見たくてね。押し掛けるのもどうかと気が引けたけど───、」
「正解だったか?」
尋ねれば、御影は満面の笑みで「うん!」と頷いた。星の散った双眸が、きらきらと輝いている。その言葉が真実である事が、ひしひしと伝わってくる。困った。ここまで喜ばれてしまっては、咎めるに咎められない。
「次からは連絡くらい入れてくれ」
「ええー!どうしようかな!」
タオルで御影を小突いて、ハッと手を引っ込める。一応制汗剤を撒いた後にしか使っていないが、汗臭いのは汗臭いだろう。
「ファンサービスしてくれるなら良いよ!」
「ファンサービスって」
「俺を探して、俺だけに手振って。あとは俺だけに────、」
「言われなくても、俺が手を振る相手なんてお前くらいしかいない」
3分の2が相津目当てで、3分の1が右成目当てだ。彼奴らとはジュニアの頃からの付き合いだが、俺に目を向けるのは、スカウト目的の教員や先輩部員だけである。つまり御影は物すごい物好きだ。
「……………うん」
1トーンほど低くなった声に、意識を引き戻す。
「おみくんは鈍いね」
「は?」
「君は君が思ってるより、ずっと魅力的だよ」
「買い被りすぎだ」
そんな物好き変人は、御影くらいだろう。そこそこ会話を交わした今ですら、俺は俺の何が彼奴の琴線に触れたのか、計りかねているのだから。
しかしその勘違いを訂正する気になれないのは、御影の唯ならぬ表情からだ。喜色と、何か、得体の知れない負の感情。それらの入り混じったような表情は、チグハグで、歪で。
「おみくん」
ゆっくりと此方へと伸びてくる指先。けれど、此方を覗き込む双眸から、未だ目を離せずにいる。その目に最早星屑は無く、海底みたいに澱んだ翠色があるだけだ。見た者を引き摺り込むような虚が、ただそこには広がって居て。
「………御影?」
首元をなぞった冷たい感触に、目を瞬く。
トン、と喉仏を弾かれれば、ゾワゾワと背筋が粟立つみたいだった。
「君を見てるのが、本当に俺だけだったら良いのに」
恨みがましく吐き捨てられた言葉。急所に添えられた指先を一瞥する。喉が妙に渇いた。早く、控室に戻って何か飲みたい。
「御影」と。もう一度声を出せば、御影は漸く手を下ろす。次に俺を見下ろした翠眼には、何か、縋り、乞い願うような色が浮かんでいた。薄い唇が、歪な形に歪む。
「おみくん、俺────、」
「明臣」
同時だった。背後から肩を叩いた声に、振り返る。案の定、そこにはジャージ姿の相津が居て。
「あおい」
「早く荷物纏めな。車出しの人、待たせちゃダメだよ」
「ああ……」
どうやら、思いの外時間が経っていたようだ。長い脚を伸ばして、此方へと歩み寄ってくる相津。その後ろで、右成が此方に手を振っているのが見えた。
「………悪い御影。話はまた、」
「ほら早く。………ごめん、ミカゲ?くん。ちょっと明臣返してもらうね」
相津のしなやかな腕が、肩に回される。口元が引き攣るみたいだった。引き摺られるみたいに後ろを向かされる直前。一瞬だけ見えた御影の目が、嘘みたいに据わり切った物だったからだ。
「………なんなんだあいつ」
「昔から変な子に懐かれるね、お前は」
「いや………」
変な子呼ばわりするのはどうなんだ。いや確かに変な子ではあるが。もう一度視線だけ御影に投げれば、にこやかに手を振ってくる。先刻の殺気立ったあれは、気の所為だったのだろうか。小さく手を振りかえして、前を向いた。肩に回された手が、そのまま、先刻の焼き増しみたいに俺の喉仏を擽って。
「やめろ」
跳ね除ければ、「嫌だった?」とくすくす笑われる。
「好きくない」
「あの子には許したのに?」
「別に許してないぞ」
整えられた指先を睨んで、そのまま相津のヘーゼルアイを睨む。ぎゅう、と細められた鳶色の瞳に、内心眉を顰めた。
何が面白いんだ。
準決勝と決勝は来週だが、今日の反省点へ今日のうちに潰しておきたい。進出チームの偵察を終え、高校の体育館に戻り。ベンチ含めユニフォームを貰ったメンバーがまた練習を始めるのは、最早通例行事となっている。
試合終わりで少しだけ身体が重いが、思考と反応は冴え渡ったままだった。
「明臣はさ」
クールダウン用のストレッチ中。開脚し、べったりと額を床につけたまま、相津は口を開いた。俺もまた股関節を伸ばしたまま、「なんだ」と答える。湿った前髪の隙間から覗きこんでくる、鳶色の目を見返した。
「最近少し調子が悪いよね?」
「いや、自分ではわからないが───、」
「スイングが遅くなってるし、手首の使い方も鈍い」
遮るように言われて、自分の手首をまじまじと見つめる。本当に自分ではよくわからないが、相津が言うのならそうなのだろう。相津は昔から人の機微に敏感で、常に最高の人材と、最適解を選び抜く事に長けていたように思う。
例えば、ジュニアの地区大会予選の話である。
あの頃から彼奴はセッター───所謂司令塔だった。そして監督は、試合が始まってからの采配を、彼奴に一任して居た。だから、「今日はお前控えね」と、彼奴に言われれば、俺は試合には出られない。コートから引き摺り出されて、順調に勝ち進むチームを見届けて。
「箸だよ」
采配の理由について尋ねた俺に、相津は柔かに答えた。
「お前の箸使い、いつもと違ったから。何か調子悪そうだなって」
その時の俺は、そんな適当な理由で外された事に納得が行かなかった。真面目に練習して居た分、相津に怒りすら覚えた。けれど、その後も相津は、兎に角間違えなかった。機械みたいに精密な観察眼と采配で、全てを支配して居て。まるで試合の一つ一つが、簡単な盤上遊戯のようだと思った。敵も味方も、全部が此奴にとって駒でしか無く、辿った戦局は全て、此奴の脳で試行された、可能性の1つでしかない。「此奴が言うのならそうなのだ」と言う合意が内面化されるのに、そう時間は掛からなかった。
だから、今では納得している。あの日あの時だって、きっと俺は本当に調子が悪かったのだ。試合に出なくて正解だった。そうでなければきっと、チームのパフォーマンスを低下させていただろう。
「すまない?」
だから、謝っておく。分かり辛いが、相津は何処か機嫌が悪いようだから。
「謝る必要は無いよ。問題は、どうしてそうなったのかって話だ」
「………特に心当たりは無いな」
「最近ちゃんと寝てる?ランニングは?疲労が溜まってるんじゃないかな」
開脚をしながら「疲労か」と呟けば、隣で会津が立ち上がる気配がする。背後に回り込んできて、指圧するように、俺の腰を押した。
「お前が言うなら、そうなんだろうな」
言われてみれば、最近は寝る時間が前よりも遅くなった気がする。何気無く脳裏に浮かんだ御影の顔に、なるほどと納得した。彼奴との夜遊びも、当分は控えた方が良さそうだ。
「お前が間違えた事は無いから」
「あるよ。僕だって間違えた事くらい」
意外にも意外な告白だ。されるがままに腰を押されながら、ジュニアと高校入学以来の記憶を遡る。中学では彼奴は私立に行ってしまったから、そこで何か采配ミスをしたのかもしれない。あの相津蒼も、ちゃんと人間だったと言うわけだ。
「引き摺ってでも、連れて行けば良かった」
「…………?」
「僕、後悔してるんだよ。お前と中学もバレーしたかったなって」
表情は見えない。当然だ。相津は俺の背後に居るから。
「………それが、『間違い』?」
制汗剤の甘い匂いが、鼻腔を撫でる。相津が頷いたからだろう。思ったよりも、彼奴の身体が近くにある事に気付いた。
─────「『僕だったらもっと上手く活かせるのに』」
思い出すのは、妙に澄ました顔をした、右成の言葉である。その時は確か、新入生歓迎会で、右成としっかり言葉を交わしたのは実に3年ぶりだった。
「急にどうしたんだ。大丈夫か」
「いや、良かったなって」
「?」
右成は、3年の時を経て随分と表情豊かに育ったらしい。先刻までのわざとらしい澄まし顔を引っ込めて、「あおいくんの話」と答えた。何処か染み染みとした視線を追いかけて、蒼───相津を見る。けれど相津を見ても何もわからなかったので、取り敢えず「先輩をつけた方が良い」と咎めることしかできなかった。
「中学の頃、蒼くん先輩、ずっとアキくん────先輩のプレー見ながら恨み言言ってたから」
「俺の?」
「そう。『僕だったら、もっと明臣を上手く活かせるのに』って」
ここに来て合点がいく。先刻の澄まし顔は、どうやら相津の真似だったらしい。ここまで似て居ないのはもはや才能である。
相津と右成は、ジュニアを出た後同じ強豪私立に進学した。だから右成は、俺の知り得ない相津の側面を近くで見てきたのだろう。言われてみれば中学時代、試合会場で会った相津は、今に比べればかなり荒んだ印象を与える風態だった。右成の言葉から察するに、あれはどうやら、嘗てのチームメイトの落ちぶれようへの苛立ちだったようだ。
「……それは、申し訳ないな」
「何がどうなったらそうなるの?」
「いや、彼奴の望む好敵手にはなれなかったからな。実力不足だった」
「違う違う。単に蒼くんが、アキくんのこと好きすぎたってだけだから」
首を傾げれば、右成は半笑いで肩を竦める。本当に。昔から肝は座って居たが、こうも生意気に成長するとは。
「マジでアキくんが居ないせいで、俺ら大変だったんだからね」
「俺のせいか?」
「試合会場にアキくんが居なかったら、すげー不機嫌になんの。居たら居たで、『僕ならもっと』って駄々捏ねるし」
「……確かに、彼奴は拗ねたら面倒臭い」
「本当だよ。挙句、『他の奴のトスでプレーする明臣が、戦争の次に嫌い』って、乱入しようとするし」
昔から、あのナリで突拍子も無い奴だった。しかし俺が中堅チームで平和に活動していた裏で、そんな攻防が行われて居たとは。
でも、と。言葉を継いだ右成は、何処か窶れているようにも見えた。本当に大変だったのだろう。だが、何処か嬉しそうにも見えたのは気の所為だろうか。
「良かったね。また一緒にバレーできて」
「…………ああ」
「あおいくんも楽しそうだ」
「そうか?」
和かな笑顔は、いつもと変わらないように見えた。首を傾ければ、右成はまたかぶりを振る。妙に癪に触る表情だったので、「先輩と呼べ」と頭頂を小突いたら「アキ君先輩」と曇りなき笑みを向けて来る。ちゃんと呼べ。
そんなわけで、相津が少なからずスパイカーとしての俺を惜しく思ってくれて居たのは知っている。だがあの3年間が『間違い』だったかと言われれば、俺はそうだとは思えなかった。………お互いに。
曖昧に頷けば、咎めるように背に体重が乗せられる。
「……お前を1番上手く活かせるのは、僕だけだよ」
「そんなのは当たり前だ」
何ならそれは、全てのスパイカーに当て嵌まる物だろう。プロを除いて、相津は俺の知る限りで最高のセッターだ。頷けば、更にぐ、と背中に掛かる重みが増す。少しだけ息苦しくなって、「あおい」と呻いた。
「本当にわかってるのかなぁ」
「何がだ。とりあえず、退け」
「鈍いから、明臣は。そっちのが都合は良いけど」
くったりとしなだれ掛かってきた胸板の感触は厚い。ジュニアの時よりもずっと、大きくなったと思った。図体がデカいだけの子供みたいだ。ブンブンと体を揺らせば、ようやっとひっつき虫が離れる。相津の体温の残る背中が、遅れて冷えて行って。
「腰を痛めたらどうする」
立ち上がり、相津の秀麗な相貌を睨め上げる。「ごめん、つい」と笑った口元で、小さな黒子が生き物みたいに引き伸ばされた。
道端でイケメン泣いてて草 ペボ山 @dosukoikokoi
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