ビヨンド~高みの世界~

oxygendes

第1話

 柏木主将の蹲踞そんきょは見ていてすがすがしい。袴のひだが美しく広がる下半身は安定し、微動だにしない。すっと伸びた背筋は端正な横顔につながり、その視線は真っ直ぐ前に向けられている。頭の後ろで束ねた黒髪があでやかだ。部員たちの行う素振りを泰然と見据えている……。


 ぱしっ、いきなり肩口に竹刀を当てられた。びっくりして振り向くと、俺の後ろで素振りをしていた中島なかじま朱音あかねが竹刀を突きつけてきた。

「何よそ見してるの。素振りの時は真っ直ぐ正面を見る!」

 さらに、声を落として付け足された。

「主将を盗み見していたって強くはなれないわよ」


 主将は強い。男女合わせて五十人以上いる部員の中で最強と言うだけでなく、誰ひとり主将から一本を取れていない。打突の速度、正確さや間合いのうまさ、足捌きが頭抜けているのだが、何と言っても女子だ。鍔迫り合いで押し込んで行って体勢を崩せば優位に立てるはずだが、体捌きでかわされたり、細身の体からは想像できない当たりの強さで逆にこちらが崩されたりしてしまう。面目丸つぶれの男子部員は通常の練習の外に自主朝練をして、打倒部長に取り組んでいるのだが結果につながっていない。かく言う俺も結果を出せていない一人だ。


「素振り、やめ」

 主将の言葉にみな竹刀を下ろし、壁に沿ってずらりと座った。これから、部員総当たりの勝ち抜き戦が始まるのだ。一本勝負で対戦し、勝った方が残って次の挑戦者と戦う。

 勝ち抜き戦では体力もかかわってくる。普通は強い人でも疲れがたまったために敗北し、勝ち残り者が変わったりするのだが、うちの部の場合、様子が違う。

 強い順に参加していくので、最初に主将が登場する。そして主将がひたすら勝ち続け、部員全員を打ちのめして終りという残念な状況が長く続いているのだ。


 防具を着けた主将が試合場に立った。対戦相手は副将で上級生の真田さんだ。


「はじめ」

 顧問の先生の号令で始まった試合は、打ち込んで行った真田さんが逆に面を取られてあっさり終わった。

「次」

 よく通る主将の声に次の池田先輩が立ち上がった。


 飛び込んで行っての抜き胴や、相手の竹刀を弾き飛ばしての面打ちなど、主将は相手を次々と破って行った。縦横無尽に動く主将の周りに竹刀が美しい軌跡を描く。


「ねえ」

 俺の横に座っていた朱音あかねがささやいてきた。

「あたし詩苑しおんに教えてもらったの。強さの秘密」

 朱音は級友である主将のことをこう呼ぶ。俺は目を剥いて彼女を見た。

「詩苑は対戦相手の呼吸の流れが見えるんだって。相手が息を吐ききったところを攻撃するの。その瞬間は力が出せないから」


 剣道では声を出しながら竹刀を出す。声とともに息を吐くことで力を引き出し、必殺の一撃にできるのだ。逆に息を吐ききった状態では技を出せない。相手が息を吐ききったところを狙いたいのはやまやまだが、全身に防具をまとった相手の呼吸を見極めることができるのだろうか。


「見えるって?」

「陽炎のように見える、ううん、感じ取れるんだって」

「本当なのか?」

「わかんない。でも詩苑はそう言ってた」

 朱音は口を尖らせる。どうやら作り話ではなさそうだ。

「なんでそんなことが……」

「知覚の高みって言っていたわ。厳しい修練を積んだ者が精神と肉体を高揚させた状態で、明鏡止水に眺めるとわかるそうよ」


 明鏡止水……、邪念が無く心が澄みきった状態の例えだけど、勝負の最中にそんなことができるのか。


「ほら、倉田さんも防戦一方よ」

 朱音に促されて、視線を対戦に戻す。主将の連続攻撃に倉田さんは受けるだけで精一杯だ。

「ドォォォォォオ」

 踏み込んだ主将の抜き胴がきれいに決まる。その瞬間、主将の面の周囲でゆらりと空気が揺らいだように見えた。主将はそのまま倉田さんの横を駆け抜ける。

「あれ?」

「どうしたの?」


 竹刀を下した主将を凝視する。だが、一瞬見えた揺らぎは消え去っていた。開始線に戻った主将は次の相手を待つ。

「いや、なんでもない」

「ふうん」


 その後も柏木主将の勝利が続いた。俺は対戦をずっと凝視していたがあの揺らぎは現れなかった。だが、いくつもの対戦を見て気がついたことがある。主将は相手の攻撃に対し、受け流す時と逆襲する時のめりはりがはっきりしていて、しかも判断が的確だった。逆襲に転じた時はすくに一本を取っている。相手の息がいつ切れるかがわかるからこそ、こんなことができるのでないか。


 次々と部員たちが破れていき、俺の順番が近づいてきた。防具を着けて準備をする。


「次」

 主将の声に、俺は立ち上がった。試合場に進む俺に朱音が声をかけて来た。

「がんばって。あんたならきっと何とかできるから」

 『何とか』とは微妙だが、俺も毎日朝練を積んできたんだ。稽古の量なら主将にだって負けていない。

 礼をして開始線に立つ。連戦なのに主将は疲れた様子を見せない。面の横金の間から冷徹なまなざしが俺に向けられている。


「始め」

 顧問の声に竹刀を中段に構える。柏木主将も中段の構えだ。真っ直ぐ背筋を伸ばした姿が杉板の上を滑るように動く。構えに力みは無く、剣先までが彼女の身体の一部のように感じられた。一瞬の隙があれば裂帛の攻撃を繰り出してくるであろう構えは美しくさえあった。

 だが、今は構えに見とれている場合では無い。闘志を燃え上がらせ主将を見る。どこか一か所を見ていては反応が遅れる。意識を全身に広げ、眺めるように。その上で、自分の間合いを取るため、じりじりとすり足で前に出る。狙う間合いへぎりぎりの距離まで進んだ瞬間、主将の姿がすっと後ろへ下がった。作為を感じさせない自然な動きだ。つられるように俺もさらに一歩踏み出す。 

 その時、異変が起こった。

 だまし絵を見ていて、隠された図形に気付いたとたんに絵がまったく別のものに変わってしまう感覚。意味がないものとして無視していた情報が、視点を変えると明確な意味を宿し、世界がそれまでとまったく違う様相に変化する。


 それは最初、主将の前帯のあたりに漂う陽炎のように見えた。ゆらゆらと揺らめきながら大きさを増し、胴の下部から上部に向かってゆっくりと昇って行く。ゆらめきは喉を通って頭に上がり、一瞬停止した後、主将の口元からゆっくりと外に吐き出された。


 直感的に、ゆらめきが主将の言う呼吸の流れだと覚る。人間は目で見るのではなく、脳で見るのだと言われる。目から入った情報を脳で再構築して視覚として認識するのだ。俺が今『見て』いるものは、視覚ではない何かを感じ取り、ゆらめきに変換しているのだろう。


 一呼吸が二十秒ほどだ。俺は間合いを前後しながら主将の呼吸の流れに集中する。朱音は息を吐ききった瞬間は力が出せないと言っていた。それなら……、


「メェェェェェン」

 息の出きった瞬間をねらって打ち込む。竹刀を上げて受けようとする主将、だが動きが一瞬遅い。

 バンッ

 主将の竹刀の横をすり抜け、俺の面が入った。だが浅い。

 素早く下がって間合いを取る。やはり顧問の旗は上がっていなかった。構え直して主将を見る。横金の向こうで目が大きく見開かれていた。だが、すぐに冷徹な目付きに戻る。主将も中段に構えた。


 いける、俺は手ごたえを感じていた。さっきは踏み込みが浅かったが、もう一歩踏み込めば……、改めて主将の呼吸の流れに意識を向けた。流れを捉えながらタイミングを測る。

 陽炎が大きさを増し、ゆっくりと上へ昇って行く。それは胴から胸に上がり……、そこで止まった。胸のあたりで揺らめき続ける。

 どういうことだ、俺は訳がわからず視線を柏木主将に向けた。そして、彼女の顔が徐々に紅潮していくのに気がつく。その唇は真一文字に引き締められていた。そう、主将は息を止めている。俺が呼吸の流れを読んでいるのに気付き、対抗策をとっているのだ。だが、息を止めたままで戦えるものなのか。


 睨みあったまま三十秒、そして一分と時間が過ぎる。周りがざわめきはじめるのを俺は意識の片隅で感じ取っていた。だが周りなどどうでもいい。この戦いをどうするかだ。


 苦しくは無いのか、改めて主将の顔を見つめた。横金の向こうで彼女の顔は既に真っ赤に染まっている。だが、その目は笑っていた。目が合った瞬間、彼女の想いが俺の頭の中に広がる。

『嬉しい!嬉しい!嬉しい!嬉しい!嬉しい! やっと全力で戦える相手が現れた』

 主将が構えた竹刀の剣先をわずかに左にずらす。

『さあ いらっしゃい』

 気付いた時には、俺は既に飛び込んでいた。

「「メェェェェェン」」

 ふたつの声が重なる。竹刀が主将の面を捉えたと思った瞬間、脳天に衝撃を受け、全てが真っ白になった。


 意識を取り戻した時、目の前には小手を付けた手が差し出されており、その先に面を外した主将の顔があった。

「気がついたわね。頭を打ったんだから、しばらくは隅で休んでなさい」

 彼女のまなざしと口調は冷徹なものに戻っていた。だが、その手を掴んだとたん、ぎゅっと握ってきた手のひらから意思が伝わって来る。 

高みの世界ビヨンドへようこそ。絶対、負けないけどね』

 俺は立ち上がったところで、手を握り返した。

『俺だって』


ゆっくりと歩いて壁際に戻ると、朱音が話しかけて来た。

「惜しかったわね。でも二回目の打ち込みはどうしちゃったのよ。タイミングが全然だめだったわよ」

「うるさい、命がけで誘われたんだ。あそこで行かなきゃ男じゃない」

 俺の答えに、朱音はふくれっ面になってそっぽを向いた。ご機嫌をひどく損ねたらしく、練習の後もしばらく口をきいてくれなかった。

 こうして俺は新たな世界への一歩を踏み出した。その先に待ち構えるものが何かなど考えることもなく……。


           終わり

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