ささやかな毛虫の死
七緒ひかる
第1話
弟の翔平が中学のテストで学年1位を取ったらしい。中学に上がってから、着実に成績を伸ばしていた翔平は、ずっと2位だった。クラスでライバルの女の子がいて、彼女にはどうしても勝てなかったらしい。
「やっと1位とれたんだ。じゃあ明日、お祝いにおいしいものでも食べに行こうか?」
悲願だった1位に、母親は浮かれ気味にそう言った。1位を取った翔平よりも浮かれているようだった。翔平は、嬉しそうではあったが、その顔は少し険しい顔をしていた。それは、1位を取ることより、維持していくことのほうが難しいと理解しているからだろう。ライバルの彼女は奪取にむけて躍起になるだろうし、その道は厳しい。
「じゃあ、おれ焼肉食べたい」
「焼肉ね。じゃあ明日、パパに仕事終わりに連れて行ってもらおう」
「マジで? やった。楽しみ」
「翔太もくるでしょ?」
翔平の顔を見ると、お前のような負け犬は来るな、という顔をしていた。元から仲は良くないが、翔平が中学に上がるとその仲はさらに悪くなり、今ではほとんど口を聞くことはない。両親はそれに昔から気づいてはいるようだが、干渉はしてこなかった。
「いや、ぼくはべつにいいよ。コンビニ弁当買うから」
翔太は、自分がいないほうが、彼らのためだろうと思った。翔平と両親が家族で、自分はその一員ではないのだと思っていた。
次の日、翔平と母親は昼過ぎに出かけていった。夜に焼肉に行くことが決まってはいたが、服がほしいと翔平が言い出して、出かけていったのだ。翔太はひとり家にいたが、昼食を買いにいくためコンビニに出かけた。どうせ夜までいないのだ。夕飯の弁当もついでだから買おうと思っていた。
自宅からコンビニまでは、歩いて8分ほどだった。いつもなら自転車を使うが、少し前にチェーンが外れて直しておらず、歩くしかなかった。
自宅は国道沿いに面しているマンションだった。国道と歩道の間には側道があり、ときおり車が進入してきて、住宅街のほうへと入っていく。
コンビニへ向かう途中、毛虫がその身体をくねらせてアスファルトで舗装された歩道を横断していた。茶色い身体に、無数の毛がついていた。歩道から側道に出て、その先の草むらにでも向かうのだろう。人間なら10秒にも満たない横断だが、毛虫にとっては長い道のりのはずだ。ときおり方向を変えたりせわしなく動いていた。
翔太は虫に詳しくはない。だからその毛虫が、なんの幼虫なのか知らない。たぶん蛾の幼虫なのだろうが、よくわからない。そもそも蝶と蛾に明確な区別というのがないというのを読んだことがある。日本では、触覚の違いや、止まり方の違いで区別されているようだが、それの境目も曖昧で、フランスやドイツでは明確に区別されていないという。
蝶と蛾は、鱗翅目という同じ仲間で、その中で共通する特徴があるものを蝶とか蛾とかで分類しているらしい。
毛虫は歩道を横断し終わり、側道の横断を始めていた。
ある朝、学校に行けなくなった。高校1年生の秋のことだった。いつもどおり家を制服姿で家を出たが、学校に近付くにつれて、冷や汗と動悸が止まらなくなり、学校の近くの道端で倒れた。大きな病院で検査したが、身体の異常はなく、心因性のものだろうと結論付けられた。両親はうろたえ、いじめの存在を疑い翔太を問い詰め、学校を責めたりしたが、いじめなど存在しなかった。翔太は活発な人間ではないし、友達もさほど多いタイプではなかったが、学校に馴染んでいた。
じゃあなぜ学校に行けないのかと問われたが、それは翔太にもわからなかった。いじめではないし、勉強で悩んでいたわけでもないし、将来の不安がないとは言わないが、学校に行けなくなるほど思い詰めているわけではなかった。
両親は、精神疾患があるのだと疑った。とにかく学校に行けない理由を知って納得がしたかったのだろう。しかし、翔太には鬱を始めとした精神的な問題もなかった。
両親はなんとしてでも学校に通わせようとして、説得してきたが、翔太は一貫して、理由はわからないけど学校には行けないと言うしかなかった。しばらくは欠席という形をとったが、結局冬休み中に退学を決めた。
コンビニは、昼時ということもあって、客で混雑していた。翔太はドリンクコーナーで炭酸飲料とレジ横の弁当を2つ持ってレジ待ちの列に並んだ。翔太の前には、近くの会社に勤めているらしい、ワイシャツ姿の男性や、近くの工事現場で働いてるらしい、作業着を着た男性などがいた。
いつも外に出るたびに居心地の悪さを感じていた。自分が醜い虫になったように感じ、周囲から軽蔑されているような気分になっていた。学校に行けなくなったとき、自分は醜い虫になったのだと思う。
コンビニから帰る途中、さきほどの毛虫がいたところを通りかかった。彼は無事渡れただろうか。そう思って側道の地面を見ると、そこには、毛虫の体液であろうものが、道路の真ん中に、強い力で潰されたように広がっていた。きっと彼は、道路を渡りきる前に、車にあっけなく潰されたのだろう。かなりのスピードで潰されたようで、体液だけ残して毛虫の死骸は見当たらなかった。
翔太は、巨大な何かが近づいてくるのを感じた。背後をとられたら最後、抗いようのない何かが近づいてくる。翔太は怖くなって、走り出した。弁当が横向きになろうが関係なかった。逃げなければならない、翔太はその思いで、一心不乱に走った。
ささやかな毛虫の死 七緒ひかる @nanao_hikaru358
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