蝶と蛾

七緒ひかる

第1話

 弟の翔平が中学のテストで学年1位を取ったらしい。中学に上がってから、着実に成績を伸ばしていた翔平は、ずっと2位だった。クラスでライバルの女の子がいて、彼女にはどうしても勝てなかったらしい。2年に上がって最初の中間テストで、ようやく彼女に勝てたようだ。

「やっと1位とれたんだね。じゃあ明日、お祝いにおいしいものでも食べに行こうか?」

 悲願だった1位に、母親は浮かれ気味にそう言った。1位を取った翔平よりも浮かれているようだった。当の本人は嬉しそうではあったが、その顔は少し険しい顔をしていた。それは、1位を取ることより、維持していくことのほうが難しいと理解しているからだろう。ライバルの彼女は1位の座の奪取にむけて躍起になるだろうし、成績を維持する道は厳しい。

「じゃあ、おれ焼肉食べたい」

「焼肉ね。じゃあ明日、パパに仕事終わりに連れて行ってもらおう」

「マジで? やった。楽しみ」

「翔太もくるでしょ?」

 翔平の顔を見ると、お前のような負け犬は来るな、という顔をしていた。

翔太と翔平は昔から仲は良くなかった。決定的な何かがあったわけではない。陽的な彼と、陰的な翔太ではそもそも合わないのだ。今ではほとんど口を聞くことはなく、両親はそれに気づいてはいるようだが、仲を修復させようとは思っていないようだった。中学受験をして有名私立に入った弟は、まさに鳶が鷹を生んだようなもので、両親はそちらに目を掛けていた。

「いや、ぼくはべつにいいよ。コンビニ弁当買うから」

 翔太は、自分がいないほうが、彼らのためだろうと思った。せっかくの家族団欒の場なのだ、邪魔をしてはいけないな、と思った。




 次の日、翔平と母親は昼過ぎに出かけていった。夜に焼肉に行くことが決まってはいたが、服がほしいと翔平が言い出して、出かけていったのだ。翔太はひとり家にいて、ネットフリックスでドキュメンタリーを観ていた。生命がどうやって繁栄と大量絶滅を繰り返して、そして進化して生きてきたのかを追うもので、非常に面白いドキュメンタリーだった。それを見終わり時計を見ると、時刻は午後2時をまわっていて、翔太は昼食を買いにいくためコンビニに出かけた。どうせ夜までひとりなのだから、夕飯の弁当もついでだから買おうと思っていた。

 自宅からコンビニまでは、歩いて8分ほどだった。いつもなら自転車を使うが、少し前にチェーンが外れてからまだ直しておらず、歩くしかなかった。

 自宅は国道沿いに面しているマンションだった。国道と歩道の間には側道があり、ときおり車が進入してきて、住宅街のほうへと入っていく。

 コンビニへ向かう途中、毛虫がその身体をくねらせてアスファルトで舗装された歩道を横断していた。茶色い身体に、無数の毛がついていた。お世辞にも可愛らしい容姿ではない。その毛虫は歩道から側道に出て、その先の草むらにでも向かうのだろう。人間なら10秒にも満たない横断だが、毛虫にとっては長い道のりのはずだ。ときおり方向を変えたりせわしなく動いていた。

 翔太は虫に詳しくはなく、その毛虫がなんの幼虫なのか知らない。たぶん蛾の幼虫なのだろうが、よくわからない。そもそも蝶と蛾に明確な区別というのがないというのを読んだことがある。日本では、触覚の違いや、止まり方の違いで区別されているようだが、それの境目も曖昧で、フランスやドイツでは明確に区別されていないという。

 蝶と蛾は、鱗翅目という同じ仲間で、その中で共通する特徴があるものを蝶や蛾としていちおう分類しているらしい。

 毛虫は歩道を横断し終わり、側道の横断を始めていた。


 ある朝、学校に行けなくなった。高校1年生の秋のことだった。いつもどおり制服姿で家を出たが、学校に近付くにつれて、冷や汗と動悸が止まらなくなり、学校の近くの道端で倒れて、救急車で運ばれた。大きな病院で検査したが、身体の異常はなく、パニック障害だろうと結論付けられた。両親はうろたえ、いじめの存在を疑い翔太を問い詰め、学校を責めたりしたが、いじめなど存在しなかった。翔太は活発な人間ではないし、友達もさほど多いタイプではなかったが、学校に馴染んでいて、いじめを受けるようなタイプではなかった。

 じゃあなぜ学校に行けないのかと問われたが、それは翔太にもわからなかった。いじめではないし、勉強で悩んでいたわけでもないし、将来の不安がないとは言わないが、学校に行けなくなるほど思い詰めているわけではなく、ただ、学校に行けなくなったのだ。

 両親はなんとしてでも学校に通わせようと説得してきて、翔太も何度か学校に通ったが、パニック発作が起きて最後までいることができなかった。そのたびに両親は翔太は責めたが、自分ではどうすることもできなかった。しばらくは欠席という形をとったが、結局冬休み中に退学を決めた。学校を辞めて、もう半年が過ぎようとしていた。


 コンビニは、昼時から少し過ぎたということもあって、客はまばらだった。店内には近くの会社に勤めているらしいワイシャツ姿の男性や、近くの工事現場で働いてるらしい作業着を着た男性、小さい子どもを連れた女性などがいた。彼らはすれ違うとときおり翔太を見た。そこになんら意味はないはずなのだが、身体から変な汗が出てくる。

 いつも外に出るたびに居心地の悪さを感じていた。自分が醜い虫になったように感じ、周囲から軽蔑されているような気分になった。

 翔太はドリンクコーナーで炭酸飲料とレジ横の弁当を2つ持ってレジへ行き、そそくさと精算を済ませてコンビニを出ると帰路に着く。コンビニへ行くだけでも、翔太は疲れを感じてしまう。これでも少しは症状が軽くなったほうで、ひどいときは1ヶ月間ほとんど外に出ることすらかなわなかったほどだ。普通のことができず、自分の居場所が失われていくような気がしていた。

 さきほどの毛虫がいたところを通りかかった。彼は無事渡れただろうか。そう思って側道の地面を見ると、そこには、毛虫の体液であろうものが、道路の真ん中に、強い力で潰されたように広がっていた。きっと彼は、道路を渡りきる前に、車にあっけなく潰されたのだろう。かなりのスピードで潰されたようで、体液だけ残して毛虫の死骸は見当たらなかった。

 翔太は、見えない巨大な何かが近づいてくるのを感じた。触れたら最後、きっと翔太は抗いようもなくそれに押しつぶされてしまうだろうと思った。本当にこの世界に居場所がなくなり、文字通りいられなくなる。

 翔太は怖くなって走り出した。弁当が横向きになろうが関係なかった。逃げなければならない、翔太はその思いで、一心不乱に走った。



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蝶と蛾 七緒ひかる @nanao_hikaru358

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