第2話 犬伏の別れと蟄居生活

 時は過ぎ、豊臣秀吉が死去。文治派・石田三成と武断派・徳川家康の勢力争いは、天下分け目の戦いへと、駒を進めることになる。


 真田家に一通の書が届く。そこには豊臣家を守るため、徳川家康を倒す。是非とも、豊臣に就かれたし、という石田三成からの依頼だった。真田昌幸は、嫡男・信幸と次男・幸村を呼び、会談を行った。


 「この度、三成から、豊臣に臣従し、内府(徳川家康)を討つのに力を貸せとの申し出があった。また、同時に内府からも同じく、三成を討つために…とあった。そこで、どちらに就くか、話そうと思う」

 「して、父上は如何なされる」


 家康の養女となった小松姫の輿入れを受けた長男・信幸が尋ねた。 


 「私は、豊臣家に就く」

 「何と、内府の勢いは凄まじく、大坂は火の海になりまする」

 「それでも、私は豊臣家に就く」 

 「父上は、世の騒乱に紛れて天下を取ろうと考えておられるのでは」

 「何、何を申す」 


 昌幸は、怒りに満ちた鋭い語気で返した。しかし、信幸に自分の気持ちを見透かされた心地よさに、薄笑いを浮かべ、思うも叶わぬ夢よなと、思い直し、


 「いいや、私は豊臣に就くのではない、上杉に就くのじゃ。豊臣にも、徳川にも恩義はないからの~」


と、苦し紛れの言い訳を盾に踵を返した。 


 「私は、内府に、このまま臣従致しまする」


 信幸は、上田城の戦いでの功績を認められ、婚姻による関係強化がある。昌幸は、信幸の立場を充分に理解していた。昌幸が三成の豊臣に就く理由が今ひとつあった。昌幸の正室である山手殿が三成に人質として囚われていたのだ。信幸もまた、そうした父の思いを痛いほど感じていた。 


 「お前はどうする」 


 信幸は、無言で聴いていた幸村に問いかけた。 


 「私は、父と共に歩みます。私には城が御座いません。父上の城を引き継ぎとう御座います」


 それを聞いて、昌幸は、笑みを浮かべていた。幸村は、覚悟を決めていた。親子が敵味方に別れ、戦う苦悩を。


 「私は、父と共に豊臣に就きまする。さすれば徳川は、今一度、上田城を攻めて参りましょう。豊臣、徳川共に巨大な勢力。大岩がぶつかれば何れかは、滅びの道を歩むかも知れませぬ。兄者の沼田城が落ちれば、上田城が。上田城が落ちれば沼田城が。兄じゃか私が生き残る。苦難の道となろうとも、私は、真田家が絶えることなく続く道を選びたく存じます」


 幸村の真田家への思いは、昌幸、信幸の悲願でもあった。


 「これで、決まりましたな。では、私目はこれで」

 「そうか、行くか」 


 信幸は、清々しい気持ちで、父との別れを心に刻んでいた。幸村は、信幸の背中を目に焼き付けていた。


 「幸村よ、いずれそなたと戦うやも知れぬな」

 「その時は、心置きなく戦いましょうぞ」

 「お~」


 信幸は、頼もしく育った幸村を嬉しく思っていた。今生の別れは、信幸が闇夜に溶け消えていくことで 現実のものとなった。後に真田家の親子分裂は、犬伏の別れとして伝えられる。

 昌幸・幸村と信幸が今生の別れを惜しんでいた頃、三成に人質にされた山手殿は、真田家の家老だった河原綱家の機転により逃れ上田城に帰還していた。

 

 情報の鮮度は、時代という機運をも左右する。もし、昌幸が山手殿の無事帰還を知っていたならば…。時勢を嗅ぎ分け、渡り歩く才能に長けた昌幸であれば、勢いある徳川に就いていたにちがいない。幸村もまた、忍城の三成の戦い方を目の当たりにし、三成への疑問・不信感を顕にしていたのに違いない。あたかも観客を魅了する演出を施す神の成せる業のようだった。 


 昌幸・幸村は、三成に就くことを決め、上田城に引き返した。信幸は、徳川勢として小山に進み、徳川秀忠に、真田家の決議を報告。真田宗家が豊臣方に就いたことにけじめと徳川への配慮を含め信幸の名を捨て信之と改め、宗家との決別を表した。 

 一方、昌幸と幸村は、もう会えなくなるやも知れぬ孫(信幸の子)の顔を、瞼に焼き付けようと上田城への帰還中、夜半に孫のいる沼田城に使者を出した。 


 「小松姫さま、経緯はもうお聞きになっているかと」

 「承知しています」

 「昌幸様、今生の別れに、是非とも稲姫様にお会いしたいと、申し入れて御座います」 


 小松姫の心は葛藤の中にあった。真田家として仲睦まじく過ごしていた昌幸と幸村が今は夫の敵となって、昌幸の孫にあたる稲姫に会おうとしている。小松姫は、考えたくもなかった。もし、会って自分たちが人質になり、夫・信幸に害を及ばすやも知れない。されど、今生の別れとあれば、会うことに躊躇いはなかった。如何に戦火とは言え、あの二人がそのような卑怯な真似事に出るわけがない。城に招き入れれば、どこからか、内通の疑いがもたれるやも知れない。そんな危険な事は留守を預かる者として出来なかった。


 「幾ら、父上の願いであっても、あい受け入れがたしこと」


 と、毅然と言い放った。 


 「されど…、お分かり申した。その旨、お伝え申す。このような無礼、お許しくだされ。それでは、小松姫様・稲姫様におかれましては、お体を大事になされますように、いざ、ご無礼致しました」 


 無念さを背負う使者の背中が、一瞬、孫を可愛がる昌幸の姿と被さった。


 「お待ちなされ」 


 使者が素早く反応し、振り返るのを確認すると「城外であらば…今宵はもう闇が深い。明日、正覚寺に稲姫を連れて参りましょう」

 「ご承知くださりまするか…有り難き幸せ。昌幸様もきっとお喜びなさりまするでしょう、では明日」


 使者は、朗報を持ち帰る任務に喜びを隠せないでいた。昌幸と幸村は、沼田城下の正覚寺で、小松姫と稲姫にあった。ほんのひと時の至福の時。胸の奥まで染み入るような澄み切った清々しい青空だった。 

 昌幸と幸村は、束の間の孫との時を過ごし上田城へと帰還した。そこで待っていた驚愕の事実に昌幸と幸村は驚嘆した。 


 「母上では御座らぬか、なぜに、いや、人質に…」 


 幸村に反し、昌幸は声も出せずにいた。幸村もまた、狐に摘まれた様な不思議な思いだった。山手殿から詳細を聞いて、胸を撫でおろすと共に今後、どうするか一瞬考えた。が、それは徒労にしかならなかった。


 「幸村、ここで徳川に寝返るのは容易だろう。しかし、裏切り者の汚名は付いてまいろう。それは、真田家の恥となろう。そなたが言う通り、信幸かそなたが生き延び、この真田家を守ってくれ。不詳ながら、我ら豊臣方として戦おうぞ、それで良いな」

 「よしなに」


 こうして、昌幸と幸村は、豊臣方としての決意を新たにし、三成と連絡を取り、戦いに備えた。 

 家康は小山に着陣した。真田信幸のことは、秀忠の使者から知らせを受けていた。「即日、我らに味方すると決断なさるるは、天晴れ、天晴れ」。家康はいたく喜び、離反した昌幸の所領を信幸に受け継がさせることで応えた。

 犬伏で別れを余儀なくされた真田家が新たな道を歩む頃、徳川軍は、上杉討伐を取りやめ、三成らを討つため、西に軍を進めていた。


 秀忠の軍と、美濃で本体徳川軍と合流する手筈となっていた。

 しかし、秀忠は、色気を出した。


 「秀忠が…。いけ掛けの駄賃とも思うておるのか。ただではこの上田城を落とさせぬぞ。西軍を勝利のに導くためにも、なんとしても徳川軍の進軍を遮らねばならぬ。必ずや、ひと泡もふた泡も吹かせてやるわ」 


 昌幸は郷土を守るため、一つの決断を下した。


 「侍、中間、百姓、町人に至るまで、敵の首ひとつに、知行(土地)百石を与えるものとする」 


 自分の土地をも守り抜いた者には身分に関われず、土地を与えるという郷土防衛戦を宣言した。昌幸に呼びかけに応じて多くの農民が馳せ参じた。そしてついに徳川主力軍三万八千が、上田城に姿を現した。 


 「うおおお~、これが徳川軍か…」 


 目の当たりにする多勢は、想像を遥かに超えた威圧感があった。しかし、かつて痛い目に合わせられた徳川軍は、不気味なほど静かだった。 


 「これでは、流石に太刀打ちできぬな、皆も怯んでおるわ」


 本多忠政が真田昌幸と会見し降伏を促すと、その申し入れをいとも簡単に承諾した。この時、昌幸の軍は、農民兵を合わせて三千五百でしかなかった。昌幸は、一計を案じていた。


 「上田の戦いでは徳川軍に迷惑をお掛け申した。その侘びとして、頭を丸めて降伏致しまする」


 本多忠政は、あまりの手応えのなさに拍子抜けした。さらに、秀忠軍に同行していた信幸と真田親子の戦いは避けられたという安堵感からだった。徳川家の汚点であった上田の戦いの敗北。その汚点を秀忠自らの手で払う事ができた喜びも重なっていた。その気の緩みが秀忠に大きな重しとして伸し掛る事を、徳川軍の誰もが知る由はなかった。

 降伏を申し出ることで徳川主力軍が警戒の網を解くのを待って、昌幸はせっせと上田城に兵糧・弾薬などを運び入れ、上田城周辺の各所に伏兵を忍ばせ、軍備を固めていった。昌幸の降伏は、戦闘準備の時間稼ぎだった。そうとは知らず秀忠は、一向に約束を実行に移さない昌幸に業を煮やしていた。痺れを切らした秀忠は、昌幸に使者を送った。昌幸は、秀忠の使者の書状を受け取る間もなく、言い放った。


 「返答を延ばしていたのは、籠城の準備で御座った。充分に仕度は出来申したので、一合戦つかまつろう」


と、宣戦布告した。これに秀忠は、顔を赤くして激怒した。


 「姑息なことを。大人しく降伏していれば、血を流さずに済んだものを。ええい、胸糞悪いわ」


 秀忠は、家康から遅参しないように釘を刺されていた。それさへなければ、思う存分、叩き潰せるのにと、苛立っていた。徳川の汚名を払えた、と空喜びしただけに、昌幸への恨み辛みは、秀忠の怒りの限界を超えていた。


 「このまま見過ごして家康公の元へ参れるものか、目に物見せてやるわ」 


 それを聞いて本多正信は、焦った。三日以上も時を無駄に費やし、苛立つ秀忠が安易な行動に出ることへの確信を感じていた。 


 「お・お待ちくだされ…家康公より、進軍を急ぐよう、強く命じられておりまする。ここは、お考え直しを」

 「このまま捨て置けというか。昌幸に対しては、敗戦を恨む者も多い。兵力の差も圧倒しておるではないか、すぐに片付けてやるは」 

 「昌幸という男、侮れないやつめで御座います。兵力の差を分かって、敢えて、宣戦布告を仕掛けて来ておりまする。前の上田城のこともありまする。きっと、きっと、何か奇策を用意してるに違いありませぬ。ここは何卒、何卒、進軍を」


 榊原康政も正信に続いて、秀忠の怒りを治めようと尽力した。しかし、進言も虚しく、秀忠の怒りは、重臣の意見さへ聞き入れる余地はなかった。


 「一度ならずや二度までも、徳川を愚弄しよって見逃す訳にはいかぬは」 


 上田城の前には、今か今かと戦の号令を待つ徳川主力軍がいた。その時だった、上田城の門が開いた。そこに現れたのは、昌幸だった。徳川軍の目と鼻の先で、突如、昌幸は高砂を踊り始めた。まるで、のぼうの城の成田長親の田楽踊りのごとくに…。昌幸にとっては、膠着した戦況を打開する決死の場面変換だった。


 「何事ぞ…」


 呆気に囚われる者もいれば「小馬鹿にしよって」と、怒りを増長させる者など、様々。こけにされた徳川軍は、秀忠の攻撃命令を待たずに、上田城に雪崩込んだ。その頃、城内では、前代未聞の迎撃作戦が進められていた。篭城している民衆が米を大きな釜で茹で、大量の粥を作っていた。激情に狩られた徳川軍は、我先に真田軍によって築かれた砦をよじ登って行く。その時だった。


 「わぁぁぁぁ~」

 「ぎやぁぁぁ~」


 壮絶な叫びと共に進軍の足が止まった。響き渡る兵たちの悲痛の叫び。

 真田軍は、攻めてくる徳川軍に向け、煮えたぎった粥を一斉に浴びせかけた。 


 《人馬とも粥に焼け爛れ、半死半生になりて、苦しむ者、その数を知らず》 


 農民たちは竹を切って作った矢を、容赦なく降り注いだ。六文銭の旗の素、農民たちは死を恐れず、真田軍の一員として徳川軍に立ち向かった。


 《百姓風情の者なれど、秀忠公の侍を追い払う》


 粥の熱さから逃れんとする徳川軍は、城のそばの川に誘い込む。


 「狼煙を上げぇ~」


 これを合図に堰止めていた川の水が一機に放流された。徳川軍にしてみれば、指揮官が変われど、二度目の水攻め。それでも、濁流の前には成す術がなかった。


 《河の水、暴漲し、我が軍大敗し、死傷する者、無算なし》


 関ヶ原の戦い前に、徳川主力軍は大きな痛手を被った。昌幸は、降伏を申し出て、時間を稼ぎ、城の防御や資材、食料の備蓄、堰止めの工事に要する時間を稼いだ。敵を焦れせ、高砂踊りで挑発し、まんまと術中に嵌めた。 


 「秀忠様、家康公より、急ぎ合戦に合流せよと」


 秀忠は、屈辱と合戦合流の遅れへの焦りで、身が引き裂かされる思いだった。徳川主力軍は、上田城落城を諦め、合戦参加のために急ぎ進路を西に取った。昌幸と民衆の一致団結で上田の郷土は守られた。


 この戦いの裏にもうひとつ戦いがあった。秀忠は、同時に真田幸村がいた砥石城を攻めていた。幸村もまた、徳川勢に抵抗していた。秀忠は、真田家の犬伏の別れを疑心暗鬼の目で見て真意を確かめるため、砥石城攻略に幸村の兄である信幸を差し向けた。


 「信幸よ、砥石城を攻めぇ。砥石城にはそなたの弟・幸村がおる。どうだ、応えられるか」 


 出来れば避けたい戦い。犬伏の別れを今生の別れと捉えたならば、真田家の存続こそが血族の願いと信之は、秀忠の命に背くことは考えないでいた。

 家康が賞賛した信之の即日決断を秀忠は、理解し難かった。親・兄弟の関係を引き裂いても戦う決断とは、そんなに容易にできるものなのか。仲違いがあるならまだしも、関係は良好と知る。秀忠は、信之に対する疑念を払拭できずにいた。その疑念を晴らすべく秀忠は、信之を幸村に差し向けた。

 一方、幸村は、根津甚八からの報告を受けていた。


 「若様、この城に差し向けられるのは、信之様で御座います」

 「そうか、兄じゃか…秀忠め、卑劣なことを」

 「如何なされます」 

 「この戦いは刻限を稼ぐこと。ならば、攻め落とせぬは兄じゃの不名誉となろう。砥石城を後にして、ここは上田城に参るとするか」

 「それが宜しいかと」 


 長期戦に持ち込めれば、幸村はそれでよかった。幸村には気がかりなことがあった。父・昌幸が、天下に徳川の恥を知らしめた。血族同士が戦い、どちらかが滅びることになるのを秀忠が、望んでいるのでないかということだった。ならば尚更、秀忠の思い通りに事を進めるのは、宜しくないと考えた。

 徳川勢の関心は、同族の戦いに集中していた。信之も、敵味方に分かれた真田家への疑念の目を重く受け止めていた。ならばこそ、心を鬼にして戦おうと決意していた。 

 秀忠軍が砥石城に着くと、幸村隊は既に退却し、静まり返っていた。信之は、狐に摘まれたように我目を疑った。何らかの策略か…。用心しながら城内を調べるが、怪しげな痕跡は何ひとつ見つからなかった。


 「弟よ…味なことを」


 信之がいとも簡単に砥石城を占領した知らせは、監視の意味合いも含めて配した忍びから秀忠の元に報告された。忍びの報告は城の外からの監視。信之の軍の流れ込む声がしばらく続き、徐々に収まっていく。そこに激闘の様相はなかった。そもそも、城内にいとも簡単に入り込めたことすら、怪訝なこと。武田信玄でさへ攻略に苦しんだ砥石城。それを簡単に占拠した。それは、返って徳川勢の疑心暗鬼を上塗りすることになった。 

 秀忠は、合戦で豊臣方に寝返るのではないかと疑い、信之を無風の砥石城に守備を名目に留めさせた。

 幸村は昌幸のいる上田城に入城した後、こっそり裏門から姿を消していた。向かった先は、伊勢崎城だった。そこに二千の兵を用意し、進軍の時を待っていた。

 秀忠は、上田城の染谷台に陣を進め、城を包囲した。 


 「康成、田畑を刈れ~。我らが本気である事を見せつけてやれ~」 


 短期決戦を目論んだ秀忠は、戦い易いように牧野康成に命じて、地をならさせた。真田勢への緊迫感を高め、討って出てくるのを誘った。昌幸には秀忠の思惑が、手に取るように分かった。


 「若造が。その誘いに乗ってやるわ、がはははは」 

 「行きまするか」 

 「いかいでか、あはははは」


 昌幸と幸村は、約五十騎を率いて城外に偵察に出た。徳川勢の鉄砲隊の配備や人数など布陣の確認は怠らなかった。昌幸が徳川軍勢を煽りつつ油断させている間に着々と幸村の密偵たちは、徳川秀忠の居場所特定に勤めていた。


 「若様、昌幸様上田城にて、大軍を引きつけておられます」 

 「あい、分かった、皆の者、出陣で御座る。目指すは秀忠の首なり。いざ、参るぞ」 

 「おお~」


 徳川の大軍を昌幸が上田城に引きつけ、手薄になった秀忠本陣を幸村らが襲撃する策が、甚八の報告を受けて実行に移された。


 「秀忠様、大変で御座ります」 

 「如何致した」 

 「見張り番より、知らせが。敵方が向かっているとのこと。その敵方が、道半ばにして二手に分かれたとのこと。挟み撃ちにする手配ではとの知らせが御座いました」

 「何と、真田軍が…、図られたか…敵方の狙いは、この秀忠か」

 「兵の殆どが上田城に…このままでは秀忠様のお命が危のう御座います、ここは退却を」

 「この秀忠、隊を率いる者として敵に背中を向ける訳には参らん。叶わなければ腹を切るまでよ」

 「お考え直しを…今は、家康公からの指示を守ることが第一かと。ここはひとまず退却を…このような場所でお命を落とされるようなことがあらば、徳川の往く末に大きな影を落とし兼ねまする、何卒、何卒、お考え直しを」 


 家臣はそう言うと、秀忠を無理やりに馬に乗せ「ご無礼仕る」と言うと、「頼んだぞ」と、馬の尻を鞭打った。家臣の気持ちを察したように馬はひと嘶き、両前足を上げ、着地と同時に勇ましく走り出し、秀忠を一機に本陣から遠ざけた。それを見守るように、壁となる三騎が追随した。 


 「あれをご覧くだされ」


 山裾を駆け去る一団が目に入った。


 「秀忠め、命拾いしよったか」 


 徳川主力軍は、真田昌幸・幸村の策略の前に惨敗した。上田城の戦いの九日後、関ヶ原で東西十六万の軍勢が激突した。しかし、この中に秀忠を中心とした徳川主力軍の姿はなかった。昌幸に破れ、天下分け目の戦いにも間に合わなかった。

 家康は合戦に勝利したものの、西軍から没収したおよそ六百三十万石の内八割を東軍の主力となった豊臣恩顧の武将に配分しなければならなかった。特に京都から伊勢には、豊臣恩顧の外様大名が支配し、徳川の大名は皆無の状態になった。家康は、西国の直接統治を諦めざるを得なくなった。

 豊臣家を一機に攻め落とせない布石を作ってしまった。関ヶ原の合戦で徳川の勢力を一気に伸ばし、政権の基盤を作ろうとした家康の野望は、昌幸と民衆によって砕かれたのだった。

 関ヶ原の合戦後、西軍に就いた昌幸は、上田城から引き離され、紀州・九度山に幽閉された。徳川の監視のもと、昌幸は不自由な暮らしを敷いやられた。昌幸はこの時、家康に就いた信之に手紙をしたためていた。


 「私は、もうすっかりくたびれ果ててしまいました。上田の様子を久しく聞いておりません。是非、承りたいと思います」


という内容だった。昌幸は、二度と故郷・上田の地を踏むことはなかった。上田城は、徳川の手によって取り壊された。その後、上田には徳川一門の大名が置かれた。しかし、旧上田城下の民衆の心には、真田家、昌幸への思いが、忘れ去られることはなく、深く根付いていた。

 上田城では勝利したと言ってもいい昌幸・幸村だったが、石田三成の西軍に就いたばかりに処罰の対象となった。上田領は没収され、昌幸・幸村には死罪が下された。


 真田信之は、父と弟の処罰を知ると、出来る限りの手立てを打った。特に、妻である小松姫の父であり、徳川の重臣である本多忠勝と共に懸命の嘆願を行った。その甲斐あって、死罪だけは何とか逃れることが出来た。

 昌幸と幸村は、紀伊・九度山にて蟄居。紀伊藩から年五十石の合力や信之と暮らす母・山手殿、昌幸の正室からの仕送りで生計を立てていた。昌幸は、精根尽きたように床に伏せることが多くなっていた。生活は苦しく、借金も余儀なくされた。生計の足しにと「真田紐」を考案し、家臣に行商もさせた。徳川の監視下にあったとは言え、比較的自由な日々を送っていた。曲者が幸村の命を狙うこともあったが、幸村自身が撃退していた。そんな様子を家臣たちは心配とも、頼もしさとも捉えていた。


 「若様、曲者を仕留められたそうで」

 「誂うな」


 いい年の幸村も、家臣にとってはいつまでも若様だった。


 関ヶ原の合戦から早いもので十四年が過ぎ去っていた。


 そんな折、書状を携えた使者が訪れてきた。遠方からの訪ねてくる者は始めてだった。それは、豊臣家からの使者だった。豊臣家と徳川家は、一触即発の双璧にあった。だが、徳川の勢力の拡大は著しく、豊臣恩顧の名立たる大名も徳川の勢力を恐れてか、豊臣家に就く者は少なかった。今や秀吉の威光だけでは、どうにもならに状況だった。

 豊臣側は止む終えず関ヶ原の合戦で苦汁を舐めている武将や浪人に我が方に就き、徳川討伐に力添えするようにと、兵を募っていた。幸村もそのひとりに上がってのことだった。他者と違ったのは、戦績の優もあり、その使者が持参していたのは、黄金二百枚、銀三十貫の破格の誘いだった。幸村は即断し、監視の目を盗んで家族を伴い、九度山を後にした。勿論、家臣もだ。昌幸の旧臣にも、賛同を呼びかけ、百人程が集まった。幸村の九度山からの脱出は、監視役が見逃した、民衆が嘘を述べ追従をかく乱したとの諸説があるが、容易く脱出できたのは、幸村らの人柄が大きく影響していたものに違いない。


 早速、幸村は、大坂城に出向いた。

 幸村四十八歳の冬、木々が葉を落とした頃だった。

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赤き流星・真田幸村列伝《激闘編》1/3部作目 龍玄 @amuro117ryugen

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