いつもの後ろには

外東葉久

いつもの後ろには

 世の中にはいろんな人がいる。

 いつも見ている人でも、面識がなければその人のことを考えたりはしない。皆、それぞれの背景があり、そこに至るまでの経緯があるはずなのに。



 冷気が制服の中まで染み込んでくる。冬の朝の自転車通学は、三年目とはいえ辛い。もうすぐ受験だから、風邪なんてひけない。マフラーで顔を鼻まで覆った。

 学校までの道のりを三分の一ほど行けば、大通りに出る。それを渡ると、この辺りでも主要な駅がある。この時間帯はいつも人が多く、速度を落とさざるを得ない。早足で歩くサラリーマン、半ズボンにハイソックスの制服姿の小学生、子どもを預けて今から仕事に行くのであろう母親。皆、一直線に駅の入り口に向かっていく。私は、駅の横の踏切を目指す。

 しばらくして、人混みから抜けられそうな兆しが見えてくると、ティッシュを配るおじさんが見える。この慌ただしい時間。受け取る人はほぼいない。

 あ、今日は金曜日か。

 このおじさんは、毎週金曜日、欠かさずここでポケットティッシュを配っているのだ。受け取ったことがないので分からないが、多分何かの広告でも入っているのだろう。

 私は特に気にすることもなく、前を通り過ぎた。


 今日も手提げカゴにポケットティッシュを入れて家を出る。

「行ってらっしゃい。」

背後から妻の声が飛んできた。

 登校する近所の小学生とすれ違い、踏切を渡れば、駅前だ。見慣れた桜の木の下に落ち着く。今日のは結構自信がある。

 相変わらず皆忙しそうだ。自分に目を向ける者も少ない。それもいつものことなので、気にせずティッシュを差し出す。

 数十人に一人ほどの頻度で、受け取ってくれる人がいる。稀に、前に受け取ってくれた人がまた貰ってくれることもある。

「おはようございます。」

女性の声がした。

「ああ、おはようございます。」

そうやって知り合った一人だ。

「虎ですか?」

彼女が自分の持つティッシュを見て言った。

「はい。新年一回目ですから。今年は寅年でしょう。」

「いいですね。」

ほんの二言三言の会話を交わし、ティッシュを受け取ってくれる。彼女の名前も仕事も知らないが、そんな繋がりも悪くない。


 

 「じゃあねー。」

「バイバイ!」

一緒に帰る友だちとは踏切の手前で別れる。明日からは、受験に備えて学校が午前中だけになる。

 電車が西日に向かって通り過ぎて行った。踏切を渡ると、あのおじさんが見えた。帰る時間にも配っているのだ。

 一度、貰ってみようかな。

 ふとそんな気持ちになった。三年間、毎週前を通り過ぎていたのだし、朝は人が多くて貰えそうにない。それに、明日からはこの時間にここを通らない。もしかしたら、ノルマとかがあるのかもしれない。それなら協力してもいいかな、と思った。

 おじさんは相変わらず、通行人にティッシュを差し出している。私は、スピードを落としながらおじさんに近づき、停止した。

 「あ、どうぞー。」

自転車から貰う人なんて、そういないだろうが、おじさんは普段通りティッシュをくれた。私は会釈して、ティッシュを見た。

 「あれ、絵?」

思わず声が出た。広告が入っているはずのところに、手描きらしい虎の絵が入っているのだ。

「はは、珍しかったかな。」

「わ、すみません。絵が入ってるとは…。」

「よかったら持って帰ってね。」

「はい…。」

 私は不思議さに怖くなって、ティッシュを制服のポケットに突っ込み、自転車を漕ぎ出した。家までの残りの道、頭にはずっとハテナが浮かんでいた。なんで駅前で手描きの絵の入ったティッシュなんか配っているんだろう。しかも、虎の絵だ。そういえば今年は寅年だったっけ。そういうことなのだろうか。

 「ただいまー。」

疑問が解決せぬまま家に着いた。自分の部屋に入ると、貰ったティッシュを取り出した。やはり虎の絵が入っている。小さいのに精密だ。袋から絵を出してみた。画用紙を小さく切ったもののようだ。こんな面倒なことをなぜ。ますます分からない。

 とりあえず手を洗いに行こうと、絵を机の上に置きかけたとき、裏に何か書いてあるのが目に入った。

 『絵、いろいろあります。』

その下に名前と連絡先。そして住所。

 その住所を見て驚いた。宛先がアトリエなのだ。

 「画家?」

予想外の展開だ。あのおじさんは、アトリエを持つ絵描きで、描いた絵を宣伝のために配っているということだろうか。


 いつも見かける女子高生が、ティッシュを貰って行った。もうすぐ受験だろうか。来週は縁起物の絵でも描こう。それにしても、さぞかし驚いていたな。そう思い返して、男は苦笑した。やはり、突飛なことをしているよな。

 絵を本格的に描き始めたのは、娘が生まれた頃だ。子どもの頃から、漫画や絵を描くのが好きだった。将来の夢がイラストレーターやデザイナーだったときもあった。結局、就職したのは絵に関係のない会社だったが、たまに、ちまちまと絵を描くことはあった。

 その後、仕事で出会った妻と結婚し、娘をもうけた。その頃から、娘のために絵を描くのが趣味になった。次第に楽しくなり、定年とともに、自宅のガレージをアトリエに改装した。

 ただ、無名の自分の絵を見にくる人などいるわけもなく、考えた末に始めたのが、ポケットティッシュに自分の絵を入れて配る、ということだ。

 画家として売れたいという訳ではなく、ただ、見てくれる人がいるだけでよかった。

 自分が諦めた子どもの頃の夢を追いたかっただけだった。

 でも、絵を配っているときの自分は、とても自分らしいと思う。楽しい。

 今日、わざわざ自転車から絵を貰ってくれた彼女にも、夢は諦めないでほしいと思った。


 朝、少し早めに家を出て、駅前で人が多くなってきたところで、自転車を降りた。

 また、絵を貰おうと思ったからだ。いつも見ていた人なのに、あのティッシュには絵が入っているのだと思うと、おじさんが随分違って見える。

 「虎の絵、よかったです。」

「ありがとう。今日のも貰ってくれるのかい。」

「はい。」


 今週の絵はだるまだった。

 明日は受験だ。

 私は自転車を漕ぎ出した。


 後ろから静かな応援がきこえた。

 


 

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