第13話 大地に落ちる潮の思い出

 それまで、私ももちろん何度も手紙を送っていたけれど、返事は一度も返ってこなかった。私が大成するのを待って黙っているのか、ただ先生が御自身のことなどを忘れて私自身の人生に専念しろと言っているのか、私は帰ってこない返事のことを思ってはどんな意図なのかと考えた。

 それで、いつの間にやら私の方から手紙を送ることも無沙汰になってしまい、会うことも許されないので帰ることもなく、まったく疎遠になってしまった。しかし、思えば帰っていればよかったのだと振り返る。


 心苦しさを抱えて、報せから数日後に先生の家に戻った。実際に目にしてわかったが、私たちがかつて住んでいたところは取り壊されて何も残ってはいなかった。おんぼろの家であったとはいえ、まったくなくなってしまうとは覚悟していなかった。消えてしまった思い出の場所に郷愁を覚えた。


 せめて墓参りに……と思ったが、どこに墓があるのかは知らなかった。これまでも一度も墓参りをしてないし仏壇もなかったくらいだから、墓は最初から無かったかもしれない。あるいは仏教徒でもなかったのかもしれない。それでも周囲の寺を回り住職に調べてもらい、先生が眠る場所を見つけた。私はその寺の無縁仏へ線香を上げに行った。


 最初から石の下に誰もいないことはわかっていたけれど、墓標を拝んだ。拝みながら先生の死に顔を考えてしまった。あの頃、すでに年齢を感じる様子だった先生は、悲しい姿でしか思い浮かべることができなかった。年月で擦り切れて泥や土で汚れた死に装束。こけた頬。その姿はやがて想像の中で朽ちていき、皮膚も崩れ目もくぼみ、耳も落ちて骨ばかりになった。


 本当はどこにいるのかもわからない、二度と目覚めることのない先生は、もう私を私だと判別することはできないだろう。人生の先を歩んでいた先生に、自分はなんとかこのくらいには成長して来たのだと姿を見せたかった。それなのに、ここにいようがどこにいようが、私の存在を感じ取ってさえもらいない。もう一度だけでも先生に会いたい、先生のことが心から離れなかった。



 私の思い出話はそろそろ終わる。最後に先生が言っていた大事な言葉を記そうと思う。これは、兄も話した「振り返ってはいけない」という言葉についてだ。


 先生は火事や地震、大雨、その他後ろ髪を引かれそうなとき、どんなときでも戻ってはいけないのだと言った。金庫や印鑑、思い出の写真などが気になっても絶対に戻ってはいけない。そうやって振り返った人間は、戻ったがために死んでいる。決して振り返ってはいけない。でなければ、ロトの妻になる。火に焼かれ、建物に潰され、水に流され、塩の柱になってしまう、と。


 先生は今の私に何と言うだろう。おそらく、こんなことを言うのではないかと私は考えている。

「私のことなど思い返してはいけない。死んだ人間に心奪われてなどいけない。自分のことに専念しなさい。私はただ、先に生きて先に死んでいくだけだ」

 涙はあふれ出て、振り向くことを禁じ得なかった。私は塩の柱になるかもしれない。けれど今だけは泣きたい。そう思って涙して、落ちた滴が地面に染みをつけた。

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大地に落ちる潮の思い出 浅黄幻影 @asagi_genei

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