鳥尾巻

嘘 ~あるいは丸い波紋~

 四月一日と書いてわたぬきと読む。


 わたぬきさんは読書を好む物腰柔らかな青年だった。背が高く色白で、艷やかな黒髪の持ち主。高い鼻梁にかかる黒縁の眼鏡の奥には涼やかな切れ長の瞳。自然な曲線を描く品の良い口元。

 バイトで市役所の窓口業務に就いていた20歳の私は、休み時間に休憩室で本を読んでいる彼を幾度となく見かけ『田舎の市役所勤務には勿体ない程の美形がいるな』と内心思っていた。

 私も読書を嗜むので、それとなく近くのテーブルに座って、本の陰から彼を観察していた。近隣の老人ばかりが訪れる鄙びた役場の花、いわば目の保養だ。


 そうして観察を続けたある日、ふと顔を上げた彼と眼が合った。見てたのバレた?彼は立ち上がり、こちらに近付いてきた。


「窓口の子でしょ?」


「…そうです…」


「何読んでるの?」


 予想したより低めの声の、ゆったりした問いかけに、内心焦りながら本の題名を答える。


「僕もその作家好きなんだ。面白いよね」


 彼は嬉しそうに微笑んだ。それが、わたぬきさんとの出会い。

 それから何度となく会って、読んだ本の話をするうちに、すっかり仲良くなった。お互いに本の貸し借りをしたり、感想を言い合ったり。

 わたぬきさんは博識で、穏やかで、見目も麗しかったので、とてもモテているようだった。2人で話していると、周りから冷やかされたり、やっかまれたり。休憩時間に本や他愛もない話をする以外、何もなかったのだけど。


 わたぬきさんには遠距離恋愛中の大学生の彼女がいた。読書の感想を言い合う合間にそんな話も少しずつする。彼が5歳年上なこと、幼馴染の彼女との馴初め話、青が好きで嫌いな食べ物はきゅうり、などなど。


「最近、彼女から連絡が来ないんだよね。こっちから電話してもすぐ切っちゃうし」


「きっと勉強が忙しいんですよ」


「そうだといいけど…」


「心配なら休みの日にでも会いに行ったらいいんじゃないですか?大学はもう春休みでしょ?」


「そうだね」


 そんな会話をして別れた数日後の、4月1日。いつものように、昼食後に休憩室で本を読んでいると、わたぬきさんに声を掛けられた。


「隣座っていい?」


 いつもは向かい側に座るのに、珍しい。どうぞ、と促すと、なぜかおずおずと隣に座る。黙ったままでいるので、先日のやり取りを思い出して聞いてみた。


「そういえば、彼女に会いに行きました?」


「行ったよ」


「どうでした?」


「うーん………別れた」


「えっ?」


「他に好きな人が出来たって」


「えー、マジですか。わたぬきさんみたいな美形も振られるんですねえ」


「美形って…」


 彼は苦笑したが、不意に表情を改めてこちらに向き直った。


「あんまりショックじゃなかったっていうか……僕も実は気になる人がいたし」


「へー」


「……君なんだけど」


「………」


「………」


「あー!わかった!今日エイプリルフールですね!また真面目な顔で冗談言ってー!」


 ちょうど休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴って、笑いながら立ち上がった。わたぬきさんも立ち上がる。背が高いので、私の頭は彼の胸の辺り。頭上から、周囲に聞こえるか聞こえないか、ギリギリの音量の声が降ってくる。


「イギリスではね、エイプリルフールの嘘は午前中までなんだって」


「へえ…」


 私がぼんやりその言葉を反芻しているうちに、彼は自分の部署へ戻ってしまった。自分も慌てて窓口に戻り、業務に追われていて、その意味に気付いたのは終業時間を過ぎてからだった。


 果たしてどこからどこまでが嘘だったのか…。彼が発した嘘で何かが変わってしまった気がした。嘘であって欲しいような欲しくないような。


 むずむずする甘い予感を抱えて私はそっと胸を押さえた。

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