第89話 エピローグ2

 茶会がお開きになったその夜、采夏は久しぶりに黒瑛に呼ばれた。

 のんびりと、二人並んで椅子に座りながら、ここでもやっぱり幻の白茶を楽しむ。昼間も妃達とみんなで楽しんだが、まだ楽しみたい。幻の白茶はそう思わせるうほどに見事なお茶だった。

 采夏は、茶杯に並々と注がれた透明な液体に魅入った。

 この色のないお茶こそが、幻の白茶。

 通常、色みの出にくいお茶だとしても、多少は色が出る。でも、この幻の白茶には全く色が出ず、一見すればただの白湯にしか見えない。

 だが、その湯気から溢れ出てくるお茶特有の爽やかな香りは間違いなくお茶だ。

 白湯のようなのに香り高い。まるで人を惑わせる蜃気楼のようなお茶。

 その蜃気楼の幻に心奪われて、茶杯に口をつける。

(ああ……すごい。うまみが。うまみが舌の上で踊っている……!)

 采夏は美味しすぎて思わず唸った。

 幻の白茶に、渋みや苦みといったものは全くない。通常、渋みや苦みがあまり感じられないお茶は、采夏の好みではない。淡白で、深みがなく、どこか物足りなく感じるのだ。

 だが、幻の白茶は違う。

 お茶の柔らかな甘さと、強烈なほどの旨みがあるのだ。その旨みが、干からびた大地に染み渡る恵の雨のように、舌の上を転がっていく。

「これは、もう! 出汁ですよ! お茶の出汁! いいえ、お茶の神様の出汁です!」

 あまりにも強烈なうまみに、采夏は感極まって吠えた。

「お茶の神様の……出汁。つまりは神を煮立たせているわけか……。想像するとなんだか申し訳ない気持ちになるが……」

「いえ、煮立たせているというよりも、良い湯加減のお湯に浸れて喜んでいらっしゃるような感じです」

「いい湯加減……。つまりはこのお茶はお茶の神的な存在がお風呂に入った後の残り湯……?」

 そう言って、微妙そうな顔で目の前の茶杯にはいった透明な液体の茶を黒瑛は見た。

 そして、ふっと思わずと言ったように笑う。その顔はとても優しかった。

 それを目に止めた采夏は、意外に思って首を傾げた。黒瑛は采夏と違って、お茶を見るだけで柔らかく笑うことはあまりない。

「まあ、陛下がそのような顔をされるなんて珍しい。さすが幻の白茶ですね。それほどに気に入りましたか? 長年、皇帝献上茶は、龍井茶が選ばれておりましたが、来年は分かりませんね」

「いや、来年の皇帝献上茶も、龍井茶だ」

 間髪入れずにそう断言した黒瑛に、采夏は目を丸くした。

「そうですか? 苦みや渋みが苦手な陛下でしたら、好みとしてはこちらのお茶の方がお好きなような気がしたのですが」

 采夏がそういうと、黒瑛は優しい微笑みを称えたまま、采夏を見た。

 その眼差しの柔らかさに、思わず采夏は息を飲む。

 これからとても大事なことを言われる予感がした。

「龍井茶は、俺と采夏の出会いのお茶だ。その思い出がある限り、龍井茶を越えられるものは出てこないだろう。龍井茶を飲むたびに、采夏との新鮮な出会いが蘇る。俺にとって、これ以上のお茶はもうない」

 采夏の顔が俄に赤く染まった。

 黒瑛が言った言葉は、愛の告白以外の何ものでもない。

 そして采夏自身も、そう思っていた。

(私が、龍井茶をとても特別に思うのは、きっと陛下と同じ。それにしても陛下は、本当に……気を抜くとっても甘い言葉を言うのだから… …!) 

 思わず采夏は両手で顔を隠した。

 恥ずかしいほどに赤く染まっているであろう頬を隠すために。

「……采夏は、皇后でいることをどう思っている?」

 気恥ずかしさでいっぱいいっぱいになっていた采夏の耳に、黒瑛からの突然の質問が響く。

「皇后でいること、ですか?」

 正直、黒瑛の質問の意図がわからないでいた。

「そうだ。正直なところ、俺の都合で、ほとんど無理矢理に皇后に立ってもらったという気持ちが拭えない。采夏は、本当にこれで良かったのか……?」

 采夏は一瞬言葉を失ったように目を見開いていた。そんなことを聞かれるとは、いや、そんな風に思われているとは知らなかった。

 どこか不安そうな黒瑛の顔に、彼が先ほど口にした言葉は嘘ではないのだと伝わる。

 だから采夏は微かに笑みを作って瞳を伏せた。

「皇后であるからこそ、幻の白茶や明前の龍井茶のような銘茶も飲めます。後宮内には陛下が下さった茶畑があって、毎日茶木にも触れ合える。それになりより……」

 そして采夏は真っ直ぐ黒瑛を見た。

「陛下とお茶を飲めることは、私の人生の喜びです」

 そうはっきりと采夏は断言した。

 茶畑をくれたからそばに居るわけではない。高価な茶葉がもらえるから皇后になったわけではない。

 黒瑛と一緒にお茶を喫するためには、皇后の地位が必要だった。

 采夏がさらに口を開く。

「陛下は、ご自身の都合で私を皇后に立たせたとおっしゃいますが、皇后に立つことは私が決めたことです。私がそうしたいと思ったから、そうしたのです」

 そう言った采夏の言葉の力強さに、黒瑛は言葉を失ったようだった。目を見開き、固まった。

 しかししばらくして片手で両眼を覆う。はあああああと、黒瑛は息を吐き出した。

「あーくそ。本当に、采夏には敵わない……多分、一生……」

 そう嘆く黒瑛の耳は真っ赤だった。

 先ほど、黒瑛の真っ直ぐな言葉に照れて恥ずかしい思いをしていた采夏は、なんとなく黒瑛にやり返すことができたような気がして胸がスッとした。

「ありがとう、采夏。いや、正直、今回安吉村周辺に白化した茶木があると采夏が知って、本当には現地に行きたくて仕方がなかったのではないかと思ったのだ。采夏のことだからこっそり後宮を抜け出してもおかしくないと」

 黒瑛は口元に微かに笑みを作りながらそう言った。

 采夏はその言葉を聞いて、ぎくりとした。ちょっとだけ心当たりがあった。

 正直なところを言えば、一瞬後宮を抜け出そうと考えたことはある、もちろん、一瞬。一瞬だ。その一瞬が何回も繰り返されたけれど、一瞬後宮を抜け出そうと思ってすぐにダメだよと自分を諌めたので一瞬なのだ。

 明らかに動揺を見せる采夏に、先ほどまで幸せそうに耳を赤くさせていた黒瑛が訝しげに眉根を寄せた。

「采夏? どうしたんだ? 汗がすごいようだが?」

 あと目がすごい勢いで泳いでいた。

「え!? べ、別に! そんなことありませんけれども! 決して、私、白化した茶木が見たくて、後宮を抜け出そうとなんて、本当に、一瞬も考えたことないですけけれども!」

 早口で捲し立てる采夏の目が泳ぎに泳いでいる。

 目が口ほどにもものを言うとはまさにこれのこと。ぐるぐると激しく彷徨い動く黒目が、采夏が後宮を抜け出そうと考えたことは明白だった。

 黒瑛は思わずため息をつく。

 だが、すぐに柔らかい眼差しで焦る采夏を見つめた。

「まあ、それこそが采夏だな。それに、今こうしてここにいてくれている。それだけで俺は嬉しい」

 黒瑛はくすりと笑うと、采夏の手を引いた。突然引っ張られて采夏はなされるがまま、黒瑛の胸へと飛び込む形になった。

「へ、陛下……」

 驚きで上擦った声で采夏が名を呼ぶのと同時に、黒瑛が采夏の背中に手を回して抱き締めてきた。

 ドキドキと胸が高鳴り、もう何も言えそうになく、采夏は口をつぐむ。

「采夏、もし、俺が皇帝でなくなってもそばにいてくれるか」

 采夏頭上から、ぼそりと少し緊張したような黒瑛の声がふってきた。

 思っても見なかった言葉で「え……?」と思わず采夏は聞き返す。

「おれはもともと、皇帝になりたくてなったわけじゃない。兄を殺した秦漱石の都合で皇帝につかされ、そして奴に復讐するために実権を握った。それだけだ。俺を慕ってくれる坦や礫、支えてくれる陸翔には申し訳ないが、俺みたいなやつは皇帝の柄じゃない」

「そのようなこと……」

「いや、そうなんだ。その証拠に俺は、一部、皇帝の業務を放棄している」

 黒瑛の言葉が意外に思えて、思わず采夏はそっと顔を上げる。

「皇族の血を繋ぐという仕事だ」

 その言葉に采夏は目を見開いた。

 皇族の血を繋ぐ。つまりは後継を妃に産ませるということだ。皇帝にしかできない、王朝を存続させるために最も必要なもの。

 今現在、黒瑛ほど皇族の血筋の強いものはいない。秦漱石が邪魔な皇族を悉く葬ったからだ。

 薄く血を継ぐものは確かにいるが、そこまで遠くの親戚にまで帝位が転がることがあるとわかれば、血を血で洗うような争いが起こりかねない。

 だからこそ、王朝を続かせるためには、黒瑛の子がどうしても必要だった。むしろ今の黒瑛にとっては、どんな仕事よりも優先される務めとも言えた。 

「いえ、そのようなことはありません。だって陛下は、私や……他の妃様も呼んでいらっしゃるではないですか」

 采夏は黒瑛との間に子をなしてはいない。

 だから秋麗に言われて、采夏は黒瑛に他の妃も呼んで欲しいと願いでた。黒瑛は采夏のその申し出を受け入れた。そのはずだ。

「他の妃らとは、朝までともにすることはない」

「え……そんな、そんなこと……」

 采夏は黒瑛の言葉にオロオロと目を彷徨わせた。

 信じられない。だが、黒瑛がそんな冗談をいう人ではないことを采夏は誰よりも知っている。

「い、いけません。そのようなこと……」

 采夏は口では黒瑛の行いを責めた。でも本心では、どうしようもなく喜んでしまっているのが分かる。

 愛しい人を、自分だけのものにしたい。

 そう思ってしまう心を、今までどれほど押し殺してきたか。

 黒瑛の言葉に、押し殺して押し殺して、もうなくなったと思っていた皇后としてはあるまじき願いが、欲が、感情が、吹き出すように蘇ってくる。

 先ほど、『皇后に立つことは私が決めたこと』そう言い切っていた自分の言葉に嘘はないのに、途端に脆く崩れていくような感覚がした。

 確かに皇后になることを決めたのは采夏だ。黒瑛と一緒にお茶を喫したくてそう決めた。

 だけど、欲を言えば、皇后ではなく、普通の夫婦でありたかった。

 采夏は、お茶さえ関わらなければ、普通の感性を持った、普通の娘だ。

 自身が愛する夫には、他の妾は持たないでほしい、自分だけを愛していてほしい。そう思う、そこらへんによくいる、娘だった。

「実は先帝の隠し子が、市井にいるという情報が入っている」

 混乱する采夏の耳に、黒瑛の掠れた声が。

「隠し、子……?」

 呆然と繰り返すと、黒瑛はしっかりと采夏の目を合わせて頷いた。

「まあ、まだその隠し子を見つけられていないし、どういう奴なのかも定かではないが、やる気のない俺よりかはマシなんじゃないかと思ってる。……陸翔もいることだしな」

「つまり、それって……」

「もしそいつが見つかって、悪くなさそうなら……俺は帝位を譲るつもりだ」

 黒瑛の言葉に、采夏は目を見開いた。

「そ、そんな……簡単にできることなのでしょうか」

「簡単にできるかどうかで言えばもちろんできないが、やるしかない。……もう、限界なんだ。采夏、もう一度聞くが、皇帝でなくなっても俺についてきてくれるか」

 黒瑛の言葉に、先ほど込み上げてきた感情が一度にブワッと溢れ出してきて、涙となって采夏の瞳を潤ませた。

「はい……」

 掠れた声が漏れる。あまりのことに気持ちが追いつかない。どうにかやっと返事をするので一杯一杯だ。それほどに、嬉しかった。

 采夏は再び黒瑛の胸に顔を埋め、黒瑛がそんな采夏を強く抱き締めた。

 采夏は、まさにこの時、今までに感じていなかった幸せを感じていた。お茶を喫する時に感じる幸せとはまた違う幸せを。

 そしてふと思った。

 采夏は再び、顔を上げて黒瑛を仰ぎ見た。

「あ、あの……お茶ってどうなります? 好きなお茶、飲めますか? あとやっぱり茶畑は育てたいのですけれど、可能ですか?」

 実に冷静な顔だった。

 先ほどまで実に良い雰囲気だったのだが、采夏の質問で良い雰囲気は散り散りに散っていった。

 そう采夏は、お茶さえ関わらなければ普通の感性をもった女性であるが、お茶が関わった時は、例えどんな良い雰囲気でもぶち壊せる女だった。 

 一瞬面食らったような顔をした黒瑛だったが、すぐにプッと吹き出すように笑った。

「まったく、本当に、采夏はぶれない」

「あ、すみません、でもとても大切なことなので……。死活問題なので……」

 采夏はおずおずと答える。

 そんな采夏も愛しいとばかりに黒瑛は優しく笑みを深めた。

「お茶のことも茶畑のことも問題ない。帝位を譲位したとて、皇族であることは変わりない。適当な地域の王にでも封じてもらうさ。不自由はさせない」

「ああ、良かったです。それでしたら安心して陛下とともに歩んでいけます。ですが私としましては、例え落ちぶれようとも、どこか茶木が生育しやすい地域で、陛下と二人で茶農家として生きていくというのも良いかなと思っています!」

 ウキウキしながら話す采夏はこの時、完全に油断していた。

 将来のことに思いを馳せてワクワクしていると、黒瑛の手が采夏の後頭部に回り、引き寄せられ、そのまま強引に唇を奪われた。

 思わず目をぱちぱちと瞬かせていると、黒瑛がそっと唇を解放した。

 戸惑う采夏の目に、黒瑛の意地悪な微笑みがあった。

「いや、なんだかこのままでは男の沽券に関わる気がしたんだ」

 という黒瑛に、采夏は不満げに唇を尖らせた。

「へ、陛下は、本当にいつも急すぎます」

 と弱々しく不満げに反論を返す。けれど本当に不満に思っているわけではない。

 ついつい不満げな顔をしてしまうのも、照れ隠しのようなものだった。

(ああ、もう、本当に陛下は……)

 と思って、頬に手を当てる。熱い。

 その熱さが、日を追うごとに黒瑛のことを愛しく思う自身の気持ちを思い知るようで、なんだか少し、采夏は悔しい思いをするのだった。

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【書籍化】後宮茶妃伝 ~寵妃は愛より茶が欲しい~ 唐澤和希 @karasawakazuki

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