空に向かって蹴れ
七緒ひかる
第1話
扉がノックされた。翔太はその時パソコンでYouTubeを開いて、最近お気に入りのアーティストのMVを観ていた。
扉に立っていたのは弟の翔平だった。
「なに? どうしたん?」
「翔太さ、ちょっとお願いがあるんじゃけど」
翔平は、腕を組み、苛ついた様子で翔太を見ていた。人にお願いするような態度ではなかった。
「お願い?」
「明後日の土曜日、ちょっと家から出とってくれん?」
「なんで?」
「いや、土曜日うちに彼女連れて来たくて」
3つ下の17歳である翔平はべつに顔がいいわけではなかった。おそらく翔太のほうが、顔の造形はいいほうだろう。
「別に連れてくりゃええじゃん」
「じゃけえ、邪魔なんよ翔太が。翔太は働いとるって言っとるから」
「休みで今日いるって言ったらいいだけじゃないん? 別に部屋から出んけ」
翔平は、口調に苛立ちを帯びた様子で言葉を荒げた。
「いや、じゃけえそういう問題じゃないんよ。翔太が家におることが嫌なんじゃけ」
高橋家は三人兄妹で、翔太が長男だ。3つ下の翔平のひとつ下には妹の翔子がいた。しかし、翔太はふたりの兄妹とはあまり仲が良くない。
父親は野球好きの人間だったが、翔太はその因子を受け継がなかった。どちらかというと本を読むようなタイプに育ってしまった翔太を残念がった。しかし、翔平が生まれて、彼は父親の因子を強く受け継いだ。それからキャッチボールや野球観戦に翔平を連れて行った。それから、翔子が生まれ、愛娘を溺愛するようになった。
母親は翔平が生まれて、翔太より手のかかっていた彼に良く目をかけるようになった。そして翌年には妹の翔子が生まれ、母は翔平と翔子の面倒に忙殺され、おとなしかった翔太はあまり目をかけられなかった。
そんななか翔太は小学校にあがったが、翔太は勉強もスポーツも凡庸だった。低学年までは、みんなと仲良くしようという風潮はあったが、それでも次第に翔太は周りにつまらないことが知られ始め、グループが固定されていくと、次第に孤立していった。2時間目と3時間目の間にある休み時間に誘われていたドッジボールも誘われなくなったとき、翔太はついに孤独になり、話す相手もほとんどいなくなった。
両親からは世話を焼かれず、勉強もスポーツも凡庸で、友達もいない翔太は家庭内の序列も下がっていき、成長すればするほど、兄妹との溝は深まっていった。なんとか自宅から近い、広島市内総合選抜時代の6校のひとつに合格したが、そこでも馴染めず中退してニートとなって以降は、兄という地位すらないに等しかった。
「母さんが10000円くれるみたいやし、市内行きゃえーじゃろ?」
広島市に住む人間にとって、市内というと本通近辺のことを指す。市内に遊びに行く、といえば本通あたりで遊ぶということだった。
「夜までネカフェとかで過ごしたらえーじゃろ。頼むけおらんでくれ」
翔太はため息をついて、わかったよ、と言った。
土曜日になると、朝の7時に翔平に叩き起こされた。実をいえば、このまま寝て過ごしてしまおうと考えていたのだが、翔平は決してそれを許さないようだった。彼女は10時に来るという。いつまでいるかは未定らしいが、母と翔子、そして翔平と彼女の4人で食事をしに行くのも決めているらしいので、19時くらいまでは家にいるのだろう。自宅に帰っていいときはラインするという算段になっていた。
翔太は仕方なく起き上がり、風呂に入る。20分ほどで出ると、入れ替わりで翔平が入っていく。中学時代から定期的に彼女を作っていたが、家に呼ぶのは初めてのことだった。自分という存在がその機会を潰してしまっていたのだろうと、翔太は髪を乾かしながら思う。
「ごめんね翔太」
昔はパンだった朝食は、今ではごはんに変わった。これは翔平が、パンだと昼までもたないという理由だった。翔太はいつもその朝食を昼に食べるので、こうして朝食をとるのは数年ぶりだった。
「べつにいいけど」
母親に謝られたところで、追い出すという翔平の提案に賛同しているということに変わりはない。少なくとも反対はしたのだろうが、翔平に押し切られたのだろう。家庭内では翔太の意見はないに等しかったし、両親も扱いに困っているであろうことは、翔太自信感じていた。
「でも翔平兄ちゃんもひどいと思わん? わざわざ追い出すことないじゃんね」
一足先に朝食を食べていた制服姿の翔子は、麦茶を飲みながら言った。今日は土曜日だったが、翔子は部活が昼まであるのだという。放送部に体育会系のような朝練があるのかと思ったが、翔子の通う高校は放送部が有名らしい。全国大会での実績はもちろんだが、とある声優も所属していたというのがさらに知名度をあげたようだ。毎年、アニメオタクがこぞって入部してくるそうだが、部活自体はしっかりと週に3日、隔週で土曜日もやり、大会にも本気で取り組み、ドラマ制作などにも真面目に関わる部活のため、想像したほどゆるくはなく、部員は淘汰されていくらしい。
翔子は、運動部は面倒くさいが、お遊びでやるような文化部には入りたくないという理由で、しっかりと部活をしている放送部に入部を決めたらしいが、そこで声で表現することに目覚めたようで、今では声優になりたいと思っているらしい。翔太は、そんな夢を抱く彼女に対して、羨望すら抱いた。
「部屋から出てこんでって言うだけでいいのにね」
翔平はふだんほとんど話しかけてくることはないが、翔子は彼とは違い、あまり蔑むような素振りは見せてこず、たまに話しかけて来る。しかし、それでも翔太の存在を疎ましく思っていないわけではないようだ。
ツイッターで、『今日、友達の家に行ったら大学生のお兄ちゃんがいてめっちゃいい人だった。うちの兄とは大違いで情けなくなった。自慢できない兄ってほんと最悪』とツイートしていることを翔太は知っていた。
「翔子って、グレーテみたいな人間じゃね」
「グレーテ?」
「わからんのんならえーよ」
翔太は笑いながら言った。ニートになってから、本を読む冊数は劇的に増えた。時間があれば本を読むようになり、そして読書幅も広がった。海外小説も有名なものを読むようになって、カフカの変身はかなり衝撃を受けたものだ。
ある日、虫になってしまった主人公グレーゴルが、家族から虐げられる。グレーテはグレーゴルの妹で、グレーゴルを嫌悪しながらも、食事を運んでくれるなど世話をしてくれるのだ。しかし、最終的にグレーテが、グレーゴルを見捨てるべきだと、グレーゴルを持て余すものの残酷な決断ができない家族に進言する。
翔太は、最初に読んだときなんてひどい人間なのかと思ったが、何度か読み返すうちにそういう印象はなくなった。家族はグレーゴルを空気のように扱うが、グレーテがいちばんグレーゴルに向き合っていたのだ。だからこそ、彼を見捨てるべきだと思ったのだろう。翔太は、自分もいつか翔子に見捨てられるのかもしれないな、と思う。
翔平の恋人が来るという時間ギリギリまで家にいようと思っていた翔太だったが、翔平が、さっさと出ていってほしい、としつこかったので、1時間前に家を出た。よほど翔太を恋人と会わせたくないのだろう。
広島市西区は観音町。それが翔太の住む地区の名前だ。平和大通りから中に入ったところにある。広島電鉄の天満町電停も近く、不便さを感じたことはあまりなかった。
翔太はどこに行こうかとふと迷った。別にこのまま本通あたりまで行っても良かったが、なんとなくそういう気分にもなれなかった。とりあえず秋晴れの過ごしやすい時間だし歩きながら考えようと思い、平和大通りを比治山方面へと歩いていく。
平和大通りは、100メーター道路とも呼ばれていた。小学生の頃に、住んでる街について調べてくるという夏休みの宿題を出されたことを思い出した。近所だったこともあり、この平和大通りについて調べようと決めたことがあったが、けっきょく最後までやらなかった。今まで課題というものを、あまり最後までやったことがない。それは中学でも高校でもそうだった。
だから、翔太は平和大通りの歴史を知らないまま大人になった。道路幅が約100メートルあること、比治山から庚午まで約4キロあることくらいしか知らない。
天満橋付近にさしかかると、遊具のあるスペースが見えてくる。平和大通りはベンチなどの憩いの場が設けられていて、何ヶ所かこういう公園のような場所があった。目の前を片側2車線の道路があり、歩道もあり、あまり落ち着かないのではと翔太はいつも思う。子供はすぐ死のうとする、と誰かが言っていたことがあるくらい、考えなしに道に飛び出したりするから、目を離せないだろう。
翔太は、ここに少し寄ってどこに行くか決めようかと思い、ベンチに座った。遊具スペースでは、男の子が鉄棒をしていた。小学生くらいだろうか。母親のほうが、もっと足を蹴り上げて、とアドバイスをしているようだったが、男の子はうまくいかないようだった。
翔太はスマホを触りながら、どこに行くか決める。カラオケかネットカフェは面白みはないし、かといって限られたお金では遠出もできない。人生初のパチンコにでも挑戦してみようかとも思うが、勝てなければ無一文で夜まで過ごさなければならなくなるリスクを負うわけにはいかなかった。ゲームセンターのメダルゲームで時間を潰し、あとはネカフェかカラオケにするしかないか、と決めた。
「ねえ、ちょっといい?」
その決定をし、スマホから顔をあげるとちょうど声をかけられた。声をかけてきたのは、鉄棒の練習をしていた子の母親だった。
「なんですか?」
「さかあがりってできる?」
「さかあがり……ですか?」
翔太は聞かれて、さかあがりを成功させた記憶を探ってみたが、見当たらなかった。小学校低学年のときにやった記憶があるが、空中前回りができるような運動神経のいい、女子から人気だった男子生徒にバカにされて泣いた記憶しかない。そもそも運動神経というものに縁がなかった翔太には、どのスポーツも得意とするものがなかった。
翔太は出来ませんと言おうとしたが、あれからもう十数年が経っているのだと思い直す。当時出来なかったが、大人になった今、出来るかもしれないと思った。
「できると思いますけど」
「じゃあちょっとやってみてくれん? うちの子にお手本見せてあげたいんじゃけど、わたしスカートじゃし」
ロングスカートとはいえ、逆上がりをするのは抵抗があるだろう。
「はぁ、まあ、いいですけど」
「しゅん君良かったね。お兄ちゃん出来るって」
しゅんと呼ばれた子は、目を輝かせて翔太を見た。期待の眼差しを向けられ、できたことがないのに、できると言ってしまったことを後悔した。
子供の期待にはこたえなければ、と思いながら鉄棒を持った。コツは知っている。脇を締め、腕を曲げて、腹を近づけるのだ。翔太は心の中でそれを反芻し、イメージをすると、空を蹴った。しかし、予想に反して足があがらなかった。さすがに大人なので筋力という面では充分だろうが、鉄棒をまわることができなかった。2回ほどやったが、結局さかあがりはできなかった。子供が、あからさまに落胆した表情を浮かべる。子供は純粋だ。失望というものを隠すことなどできず、翔太は罪悪感に苛まれた。
「やっぱり長年してないと難しいですね。昔は出来てたんですが」
昔は出来ていたという嘘になんの得があるのか、翔太は自分でもわからなかったが、おもわず口をついていた。
「そっか〜ごめんね無理言っちゃって」
「あ、でも補助なら手伝いますよ」
せめてもの償いだと言わんばかりに、翔太はそう提案した。
「あ、ほんと? お願いしてもいい?」
「はい」
「君は……えっと名前は?」
「高橋翔太です」
「翔太くんか。わたしは理沙。この子は俊輔」
自己紹介をすませ、さかあがりをする俊輔が足を蹴り上げるのと同時に、腰に手を回し、回転をさせてやる。補助つきとはいえ、初めてさかあがりを成功させた俊輔は嬉しそうにしていた。
無尽蔵な体力を持っているのではないかと翔太が思うほど、補助ありでさかあがりを幾度となく繰り返していた俊輔だったが、しばらくして少し疲れた表情を見せ、休憩をすることになった。
2人は翔太の隣のベンチに座った。理沙がコンビニの袋から菓子パンを取り出して、与えている。
「良かったら食べる?」
理沙が持っていたのは、5個入りのクリームパンだった。翔太は朝食を食べてそんなに経っていなかったが、差し出されたものを断るのも悪い気がして、じゃあ1個だけいただきます、と言って受け取った。
「翔太くんはこの辺に住んどるん?」
「まあ、そうですね。観音町なんで、すぐそこです」
「あ、そうなんじゃ。うちもすぐそこなんよ」
後ろにみえるマンションの1つを指差して理沙が言った。見るからに立派そうなマンションだった。服装を見ても、お金をある程度かけているように見えた。ブランドには疎いが、ファストブランドではないのは翔太にもわかる。
「良さそうなマンションですね」
「昔からマンション住みじゃったけん、ほんとは一軒家が良かったんじゃけどね。旦那が一軒家住みだったからマンションが良いって言い出して。話し合ったんじゃけど、セキュリティも高いし、生活もしやすいじゃろって言われて」
「ぼくんとこ一戸建てですけど、確かにマンションのほうが良さそうには感じますね。セキュリティとかそういうのはマンションのほうがはるかに優れてそうですし」
「まあ、今住んでるマンションはそういう意味ではすごい住みやすいし、不満はないけど、やっぱりマイホームと言ったら一戸建てって感じせん?」
確かにそうですね、と翔太は賛同した。誰かとこうしてまともに話すのは久しぶりだった。家では家族としか話さないし、家族以外と話すときといえば、コンビニなどで接客されるときくらいだ。
「そいや翔太くんは何歳なん?」
「今年、20歳になりました」
「あ、そうなん? 若いんじゃねえ。わたし28歳よ」
「ぜんぜん見えないですね。24歳くらいかと思ってました」
子供は7歳くらいなので、そうなると17歳ほどで産んだことになり、10代の出産は決して珍しくないとはいえ、あまり現実的ではないが、見た目だけでいえばそう見えた。
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃん。まあ、若作りメイクってやつじゃけどね」
そういうものがあるのかどうか知らないが、たぶんメイクを落としてもあまり変わらないのだろう。しわというものは目立たないし、肌もキレイだった。
「お酒もう飲んだ?」
「ビールをちょっと前に飲みましたけど、めちゃくちゃ不味かったですね」
父も母もお酒を嗜む家庭で、自宅によくビールをまとめ買いしたものが冷蔵庫にストックされている。それを20歳になってしばらくして1缶もらったが、不味いとしか感じなかった。苦いし、臭いし、後味は最悪だった。
「やっぱそうよねえ。わたしも最初そうじゃったもん。でも今じゃ、ビールしか勝たんって感じ」
「おいしく感じるようになるもんなんですか?」
「まあ、ずっと苦手な人もおるじゃろうけど、わたしは飲みに何回か出て、飲むうちにハマっていったんよね。舌が慣れたというか。友達とかと飲みにいかんの?」
「え? ああ、まあ、まだそういうのは……」
まさか友達がいないと言うわけにもいかず、しかし、どう答えるのがいいのかわからなかった。
「あ、そうなの? 大学生とかってすぐ飲みに行くイメージなんじゃけど。翔太くんは学生じゃないん?」
「あ、えっと……」
翔太は素直に言うのを憚られて、でも就職して社会人と言うのもためらわれた。
「フリーターです。きょうはその、休みで」
「あ、そっちか。でもバイト先の人と飲みとかないん? わたしがバイトしてたゲーセン、毎月のように飲み行きよったよ」
「ぼくんとこは本屋なんで……あんまりそういうのがなくて……」
「あ〜。本屋の店員って確かに終わったらみんなで飲みに行くイメージないかも。でも楽しいよ? 飲みに行くの。たちまちビールでって言いながらさ」
「機会があれば行きたいですけどね」
高校を中退し、友人もおらず、働いてもいない自分には、誰かと飲みに行く未来など存在しなかったが、そういう未来がもしあったのなら楽しいだろうなと思う。
翔平や翔子には、きっとそういう楽しい未来が待っているだろう。友人に恵まれ、恋人もでき、大人になっていくのだ。だが、自分には無理だと翔太は思う。
「バイト先に好きな子とかおらんの? そういう子、誘ってみたらいいじゃん?」
「いや、そういうの苦手で」
翔太は、翔平とその恋人のことを思う。きっと今ごろ自宅で楽しくしているのだろう。母親も初めて連れてくる息子の彼女に、浮かれているに違いない。翔太には、今までそういう経験はない。好きな子がいたこともあるが、連絡先を聞くこともしたことがない。聞こうと思ったこともあるけど、言い出せなかったのだ。
次第に嘘をついていくのがしんどくなって来たとき、パンを食べ終えた俊輔が声をあげた。
「ママ、鉄棒いく」
「気をつけんさいよ?」
「また背中支えようか?」
翔太が言うと俊輔は、一人で頑張る、と言い、鉄棒に近づいて行った。
俊輔は何度もさかあがりをし、そのたびに失敗していたが、補助をしてあげたおかげなのか、最初よりコツを掴んだようで、形にはなってきていた。しかし、今日中にできるかどうか、微妙なところだろうな、と翔太は思う。
しばらくして、俊輔が手を滑らせて鉄棒から落ちた。頭は打たなかったようだが、理沙がかけよって砂をはらう。
「もう、無理しんさんなよ? きょうはもう辞めにせん? 明日もあるんじゃけ」
俊輔は、まだやる、と言った。そんな彼に理沙は、わたしもやることがあるから、あと1時間ね、と言った。スマホを操作し、音を聞かせて、この音が鳴ったらおしまいだと俊輔に知らせる。
翔太は、何度やっても失敗する俊輔を見て、だんだんと苛立ちを覚えるようになった。彼の何がそうさせるのかわからないが、どうしてそこまでやろうとするのかわからなかった。
「諦めたらいいのに」
翔太は、思わずそう呟いていた。理沙が気を悪くしたのではないかと思い顔を見たが、彼女は笑っていた。
「あの子、クラスに好きな子がおるらしくてね。でもその子は、違う男の子が好きらしいんよ。ほら、クラスにひとりやふたりおるじゃろ? スポーツが出来て、頭もいいみたいな子」
「いますね」
「で、その男の子っていうのが、まあなんていうか、悪い子じゃないんだけど、ちょっといじわるな子でね。俊輔みたいなスポーツも勉強もいまいちな子をからかうの」
小学校だけではなく、中学でも高校でも、そういう人間はいた。翔太は俊輔と同じ、からかわれたり文句を言われたりする側の人間だった。チーム決めでは必ず最後まであまったし、仕方なく入れられたチーム内を仕切る男子にはプレイ中に文句を言われたりした。そのたびに、自分は世界から爪弾きにされているような気分になった。
「見返したくてさかあがりを?」
「その男の子ってのが、さかあがりが苦手らしくてね。だから、絶対にその子より先にやるんだって張り切っちゃって。月曜日、さかあがりのテストがあるみたいじゃけ、ああやって練習しよるんよ」
「でも、べつにさかあがりが出来なくても困らないでしょう? 男の子を見返すにしても、さかあがり以外でもいいわけで」
成績には影響するのだろうが、そこまで真剣になる必要はないと翔太は思った。
理沙は、さかあがりの練習をする俊輔を見てわたしもそう思うんよねえ、と笑った。
「でも、わたしはね、俊輔に逃げるような人間だけにはなってほしくないんよ」
「逃げる?」
「正直な話ね、あの子がさかあがりが出来るか出来ないかなんてどうでもええんよ。もちろんできてくれたほうがええけどね。でも大事なのはそういう壁に立ち向かうことじゃと思うんよね」
「でも、諦めも肝心でしょう?」
壁に身体をぶつけたところで、壊せなければ傷つくのは自分自身だ。できないときは諦めることが大事だろう。
「逃げることと、諦めることは違うよ」
逃げることと諦めることがどう違うのか、翔太はわからなかった。理沙は翔太のそういう気持ちに勘付いたのか、少し考える素振りをみせる。
「わたしね、旦那にも言っとらんのんじゃけど、声優になりたかったんよ」
「声優?」
「そう。イメージないでしょ?」
翔太は、はい、と頷いた。確かに理沙はいい声をしている。近年ではルックスも声優に大事な要素になってはくる声優業界でも渡り合える容姿をしていると翔太は思うが、声優になりたいと思うようなタイプには見えなかった。
「わたしは昔からアニメとか好きで、声優って楽しそうだったから目指しとったんよ。じゃけ高校もその放送部に入りたくて選んだんよね。少しでも声優になる訓練がしたくて。で、高校2年生くらいのときだったかな。声優の専門学校に見学に行ったんよ。実際にアフレコ体験出来るとか言われとったし。友達と一緒にね。でもね、そこでわたし、見ちゃったんだよね。上の存在っていうものを。
わたしはね、みんな同じレベルくらいだと思っとったし、わたしのほうが上手いと思っとったんよ。大会でもそれなりに成績とっとったしね。だけど、わたしなんかよりはるかに上手い子たちがけっこうおったんよね。プロから見たら分からんよ? 上手いけど、それはただの真似でしかないかもしれんし、発声の仕方が悪いとかあったかもしれない。でも、わたしはそれを目の当たりにして、逃げたの声優の夢から。一緒に行った友達は、その学校に行って、ちゃんと人気声優やっとるけどね」
俊輔はさかあがりを繰り返している。彼はさかあがりから逃げる様子はない。好きな子によく思われるために、好きな子が好きな男の子を見返すために、彼は逃げようとはしない。
「べつに今すごく幸せだし、楽しいけど、やっぱり声優の夢から逃げたことは後悔しとるんよ。
わたしは努力は必ず報われるとか、神様は超えられない壁は与えないとか、そんな口当たりのええことは言わんよ? 努力しても報われんことはあるし、越えられない壁なんて腐るほどあるし」
わたしにとっては勉強はどうしても無理だったね、と理沙は笑う。
「でも、あの子にはそういう逃げて後悔だけはしてほしくないんよね。さかあがりが出来なくても、好きな子に相手にされなくても、好きな子の好きな男の子に勝てなくてもいい。後悔が残らなければ、その先に待つまた違う壁に立ち向かう経験になればいいの」
翔太は、ゲームのRPGを思い出した。モンスターにエンカウントし戦闘が始まると、コマンドが表示される。その中には、逃げるというコマンドもあった。逃げればその場の戦闘は避けられるが、戦闘によって得られる経験値がもらえなくなりレベルがあがらず、先にすすめばすすむほど苦戦を強いられるのだ。
さかあがりが出来なかった翔太は、逃げるを選んだ。
勉強が出来なかった翔太は、その出来ないから逃げるを選んだ。
好きな子が出来たときに、自分にはダメだと連絡先を聞くこともなく逃げるを選んだ。
高校に馴染めなかった翔太は、馴染もうとせず逃げるを選んだ。
バイトもうまくできず、初日で逃げることを選んだ。
「ぼく、嘘ついてました」
「嘘?」
「無職なんです。高校も中退してて」
「そっか」
理沙は、ただひとことそう言った。翔太はなんとなく、彼女は自分の嘘に気づいていたような気がした。
「さかあがりは?」
理沙は翔太をからかうような目で笑いながら言った。きっとさかあがりができたことがないことも、最初から気づいていたのだろう。
「さかあがり、できたことないんですよ。1回も」
「やってみたら?」
理沙に促された翔太は、鉄棒に近付いた。果たして、やれるだろうか。一生懸命練習する俊輔の隣にある鉄棒の前に立つ。
「どっちが先にさかあがりできるか競争せん?」
「うん!」
「負けんけぇね」
翔太はいうが早いが、鉄棒を握った。しかし、やはりさかあがりは出来なかった。俊輔の方がまだ可能性があった。何度かさかあがりを繰り返し、そのたびに失敗し、修正をくわえるが、なかなか成功に繋がらない。
出来ないかもしれない。それでも逃げるのはやめようと思った。
翔太は深呼吸して、そして空に向かって足を蹴り上げる。視界に、反対に映った理沙が見えたかと思うと、身体が鉄棒をまわった。
理沙と俊輔の歓声と拍手が、翔太の耳に届いた。鉄棒に捕まってみる世界が、少しだけ変わって見えた気がした。
空に向かって蹴れ 七緒ひかる @nanao_hikaru358
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