目には青葉

クニシマ

◆◇◆

 あのとき、私と彼女が手を重ねて閉じた扉の音は、私たちが自ら退路を断った音に他ならなかったのだと、今になって確かに思う。

 朝からひどく晴天だった。清潔な白いカーテンのレースからこぼれる陽光が、私たちの手元を明るく照らしていた。食卓越しに改めて見つめた彼女の顔はやはり美しく整っていた。それだからこそ、今日までここに彼女を縛りつけておいてしまった私の行為が、どこまでも罪深いことのように思われた。

すずちゃん」

 ふと食事の手を止めて、彼女は私の名を呼んだ。

「ごはん、食べないの」

 彼女の大きな目が、いただきますとつぶやいてから動かない私をそっと見ていた。

「食べるよ。」

 私はひとつため息をつき、皿の上のサンドイッチに手を伸ばした。うつむいて咀嚼しながら、そのため息が床を這って滞留し、部屋に暗がりをつくるのがわかった。

 終わりを伝えなければいけない。二人をくるむ、この息の詰まるような関係の終わりを。そのことだけ今は頭の中に渦巻いていた。彼女はあまりにも優しいから、私からその話を始めない限り、きっとずっと私の隣にいることを選んでくれるだろう。けれどもうそれではだめなのだ。このままでいるには、私たちは歳を重ねすぎてしまった。

 昨日はなんでもないただの平和な一日だった。もう何度目かもわからない、彼女が私と同じ歳になった日だ。私たちは例年通りに近所のケーキ屋でショートケーキをふたつ買った。彼女がその店先に飾られた淡い色の花に気を取られていたようだったから、そのあと珍しく花屋へ寄って小さな鉢植えを選んだ。瑞々しい葉をたくさんつけた、おとなしい色の花。

 今朝になって、窓辺に置かれた鉢に溢れるその緑色が目に飛び込んできた瞬間、私たちは取り返しのつかないところへ足を踏み入れかけているのだと気づいた。これはちゃんとお世話をすれば五年は咲きますよ、と鉢を手にした彼女に教える店員の笑顔が、ふと恨めしいほど残酷なものとして思い出された。この鉢植えが枯れない限り彼女はやはりこの部屋にいるのだろうということ、それはこれから五年もの時間を私が彼女から奪ってしまうのを意味しているということ、そしてそれより何倍もの時間を私はすでに奪ってきたのだということ、すべてが朝の陽射しと共にしっかりと眼前に突きつけられた。

 だから私は伝えなければいけない。

「覚えてる?」

 視線は机上に落としたままでそう切り出すと、彼女は持っていたフォークを置き、少し首をかしげて私のほうを向いた。

「もう二十年だよ」

 その数字だけで、彼女は私が何を言おうとしているのかわずかに察したようだった。

「中学の、入学式から」

 やけに静かで、奇妙なほど穏やかな、そんな空気が二人の間を埋めていた。彼女は小さく口を開いた。

「長いね。」

 なんだか、それは私が望む言葉ではないような気がした。

「でも、短かった」

 彼女を否定するつもりはかけらもない、ないけれど、私はそう言った。

「短かったよ。」

 彼女は黙っていた。私もそれきり黙った。しばらくして、彼女はまたフォークを手に取り、ガラスの器に盛られたサラダを口に運んだ。壁掛け時計の長針が、かちりと音を立てて進んだ。

 この部屋には未来がない。あるのはただ、不幸せな結末だけだ。そんなことは初めからわかっていたはずなのに、私は彼女をここに押しとどめてきた。

 そう、二十年が経ったのだ。野暮ったいジャンパースカートがずらりと並ぶ体育館で、窓から覗く桜の樹を見るともなしに見ながら、今日から六年もここにいなくちゃならないのだと考えていたあの日、私は彼女と出会った。それからずっと一緒にいた。女ばかりの教室は妙な空気を醸成するのに長けている。そんなところで呼吸をしていたら、友愛と友愛ではない何かとの境目がどんどん不明瞭になっていって、そうやって行きつく先が今なのだ。私たちは麻酔薬を吸った患者のようにあの教室での日々を過ごして、そして何か——それはやはり友愛ではない何かそのものなのだろう——に引きずり込まれるように同じ大学を選んだ。そこもまた当たり前のように女、女、女、それだけで満ちた場所だった。

 、というより、きっと意図して逃げ出したのだ。しかもそれは自分ひとりではなく彼女を抱えてだった。大学生になったら家を出て一人暮らしをすると喜んでいた彼女は、ある日顔を暗くして私に言った。

 夜更けになると不安なの。悪いことばかり浮かんで消えないの。ひとりで暮らすのがあんなに楽しみだったのに、家のことが、家族のことが心配で、悲しくて、怖くて、それで……。

 彼女は涙を落とした。赤く染まった頬を転がるしずくが、いやになるほど透きとおって見えたから、私は彼女に心のすべてを打ち明けた。それからその身体をきつく抱きしめた。彼女もまた、ゆっくりと私の背に腕を回した。肌に伝わる震えが愛おしかった。けれど今思えば、彼女がそれを受け入れたのは決して私と同じ感情からなどではなくて、ただ拒むに足る理由がなかったというだけのことなのだろう。

 そして私たちはこの部屋に辿りついた。春の頃、荷物を運び入れる手伝いをしてくれた家族たちに手を振って玄関のドアを二人で閉めた、その重くて短い音。へその緒と新生児とを切り離すのとまるで同じ音だ。つまりその瞬間から私たちはきっぱりと自由になってしまったのだった。

 その日、私はいとも簡単に彼女とキスをした。

 もしも私に、彼女と共にその先を見よう、二人で最後まで進もうという覚悟があったなら、あるいはそれなりの幸福に至ることだってできていたのかもしれない。けれどこの曖昧な意思はまったくそれ以上を求めなかった。恐れていたのだろう。何を恐れたのか、今でもわからないままだけれど。

「ごちそうさまでした」

 目の前で、彼女が静かに手を合わせて言った。私たちは何もかもを失ってきてしまったのだということを、突然どこか脳の深いところで理解できたような気がした。

さち

 彼女の名前を呼んだ。それはとても単純なことだった。それでも、それなのに、どうしたってその次にはどんな言葉も続いてはこなかった。

「どうしたの。」

 黙りこくった私を、彼女は心配そうに見つめた。揺れる瞳が煌めいていた。綺麗だ。いつだって彼女は綺麗だった。だからやっぱり、彼女を幸せにできるわけもない私がそれを占有するなど間違っているのだ。

「結婚、しなよ」

 口を滑らせたような抑揚で私は言った。彼女が戸惑った顔になる。

「……誰と?」

「誰かと」

 なんて馬鹿なことを言っているのだろうと、自分で笑い出しそうになってしまった。けれどそれ以上に、流したくもない涙が目のふちに溜まり始めて、どうにも抑えられなかった。それに気づいた彼女は「あ」と小さく声をあげて、あわてて私の右手をそっと握った。涙が粒になってこぼれた。

 例えば普通の恋人同士のような出会いも幸せも別れも、私たちが知ることは決してない。ありふれた二人になりたかった、と、やっとのことでそれだけ言った。彼女が悲しそうに息をのむ気配がした。

「涼ちゃんは」

 彼女はささやくように言った。その声は少し震えているようだった。

「もし生まれ変わってそうなれたら、今よりもっと幸せだと思う?」

 そんな顔をさせたくてこの話を始めたんじゃないのだと言いたかった。それなのに私の空回る思考が絞り出したのはなんの役にも立たない言葉でしかなかった。

「生まれ変わりなんて、ないよ。」

 けれどきっと何度生まれ変わったとしても私たちは同じ関係になるのだろうと思った。いや、そうなりたいとどこかで願ってしまっているのかもしれない。

「うん……そうだよね。ごめんね」

 いけない。彼女を悲しませてはいけない。うつむいた視界に、その白い手の甲がまぶしく映り込んだ。

「違うんだよ、一緒にいたいよ、でも——」

「いるよ、ずっといる。ずっと、ずっといる……」

 重なった指先にはかすかな熱がこもっていて、この手をほどくなんて考えることすら愚かだと思えた。

「それじゃだめなんだよ……」

 かすれた声は彼女へのものではなかった。私は左の手のひらで乱暴に頰をこすった。

「……でも、それしかないんだよ。」

 小さな、小さな声。私は思わず顔を上げた。彼女は目を伏せていた。窓の外から射す光を受けて、長い睫毛の端がわずかに輝いた。

 部屋にはどんな音もなくなっていた。

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