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山郷ろしこ

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 冒険に必要なのはひとつだけ。ほんの少しの勇気、それだけでワクワク包囲網。


「Oh~」


 思わず口ずさんでから、翔汰はハッと口を押さえた。背後の壁をゆっくりと振り返り、耳を澄ます。壁掛け時計の針の音に紛れて、父親のゴロゴロしたいびきが聞こえてきた。ほっと息をついて口を解放する。一年生の頃に見ていたアニメの主題歌で計画を台無しにするなんて、そんな恥ずかしいのはごめんだ。


 夏休み二日目、午前四時。閉じたカーテンから滲む光が翔汰の部屋を満たしている。シーツがしわくちゃになったベッド、教科書がバラバラと積まれた勉強机、床に放り出されたランドセルと、キラキラシールがめいっぱい貼られたタンス。


 かつて通っていた幼稚園ではシール交換が大流行していて、翔汰も友達という友達からレアシールを巻き上げていた。小学校に上がってからはそのキラキラが恥ずかしくて仕方なかったが、こうして別れを告げるとなると、少し惜しくも感じられる。早朝の冷たい明るさに包まれて、翔汰の胸は高鳴りっぱなしだった。


 あぐらをかいた足の前では、満杯のリュックが口を開けている。ゲーム機、水筒、財布、菓子パン、虫よけ、ウエットティッシュ、ありったけの下着。すべてが揃っていることを確認したら、リュックに全体重を乗せてギチギチとジッパーを閉めていく。


 飛び出す水筒を押し込みつつどうにか閉じきると、リュックは不格好な岩のようになった。それでもワクワクは加速する。翔汰はにやつく下唇を軽く噛んで、肩紐に腕を通した。お気に入りの紺のキャップを被って、キッズスマホをポケットに押し込む。


 さて、問題はここからだ。


 部屋のドアノブを握ると、思いきり空気を吸い込んで息を止めた。呼吸をせず、爪先歩きで玄関に向かえば気づかれることはない……と、翔汰は信じている。慎重にドアノブを回し、手前に引き寄せ、細い隙間からぬるりと廊下へ出る。きちんと振り返ってドアを閉めてから、一階へ降りる階段に足を向けた。父親のいびきが遠ざかっていく。


 大丈夫、大丈夫だ。まだ息も苦しくない。


 翔汰はこのミッションを「家出」とは呼ばない。もし友達に訊かれたら「家出だよ」と答えるけれど、心の中では絶対に「冒険だよ」と思っている。翔汰は冒険がしたかった。友達曰く小学五年生はもう子供ではなくて、アニメを見ても真似をするのはダサいらしいけれど、それでも諦められなかった。家の車も学校のバスもいらない。自分の足とほんの少しの勇気だけで、どこか遠くに行ってみたかった。


 最後の一段を降りたとき、ガチャ、という音が聞こえた。心臓がバスケットボールのように跳ねる。慌てて二段上に戻って、顔だけを下の廊下に向けた。並んだドアの一つが開く。心臓が暴れる。息が苦しくなってくる。翔汰の家は三人家族。父親が起きた気配はなく、両親の寝室は別々だ。


 ドアからゆらりと、母親が姿を現す。


 翔汰はぎゅっと瞼を閉じて、それから大きく見開いた。母親は重たそうに瞼を伏せて、ふらふらと向かいのドアに向かう。トイレだ。母親が姿を消すのを見届けて、薄く息を吐いた。そしてまたぐっと止める。同時に、固まっていた思考が回り出す。


 どうする。お母さんがトイレを出るまで待つか。いや駄目だ。トイレを出て寝室に戻っても、すぐに眠りに落ちるわけじゃない。重い玄関ドアを開け締めすれば絶対に気づかれる。チャンスは今だけ。そして玄関の音を誤魔化せるのは、たった一瞬だけだ。


 ぐっと前傾姿勢をとって、翔汰は軽やかに階段を降りた。玄関は廊下の突き当たり、寝室のドアとリビングのドアとお風呂のドアとトイレのドアを通り過ぎたその先だ。


 トイレットペーパーを巻き取る音。それに隠れるようにして、爪先を擦って駆け抜ける。スニーカーを引っかけて、玄関ドアのノブにとりつく。


 ドアに嵌った曇りガラスから、青い光が差し込んでくる。早くドアを開けたい。でもまだ、まだもうちょっとだけ、我慢だ。鍵をゆっくりゆっくり回して、いつでもドアを開けられるようにしておく。廊下に広がる数秒の静寂が、やけにうるさく感じられる。


 ゴポ。湿った音が静けさを破る。ノブを掴む手に力を込める。


 ……ジャー!


 水が流れる音と同時に、思い切りノブを回した。ドアに体重をかけると、思ったよりも軽く開いて、勢いよく外に放り出される。急いで体勢を立て直し、焦る心をどうにか抑えて、丁寧に、しかし素早くドアを閉めた。貨物列車の音がする。母親の怒鳴る声は……しない。


「よ、っしゃ」


 溜めていた空気が口から抜けて、頭の奥がじいんと痺れた。「よっしゃ!」小声で繰り返してから、お腹を膨らませて息を吸う。夏の夜よりもひんやりしていて、冬の夜よりも暖かい空気が体に満ちる。早朝の住宅街は昼よりもずっと神秘的で、だけど夜のように怖くはない。


 たまらなくなって駆け出した。重いリュックに何度も背中を叩かれるけれど、少しも痛くなんてない。風にあおられるキャップを片手で押さえて、学校とは反対の方向に真っ直ぐ、真っ直ぐ走っていく。


 住宅街を出ると幅の広い川が横たわっていて、河川敷を覆う雑草のにおいが翔汰の心をもっと躍らせた。左右も見ずに車道を渡り、河川敷を見下ろす長い橋を思いっきり踏む。と、欄干に若い女が寄りかかっていた。「ボク、ひとりでどこ行くの?」なんて幻聴を振り払って、キャップのつばをぐっと下げる。


 小学五年生はもう子供じゃない。子供じゃないから、どこへだって冒険できる。


 翔汰はもう一度息を止めて、女の脇を走り抜けた。橋を渡りきると同時にガチャンと音がしたけれど、振り返らずにずっとずっと走る。




 ガチャン。予想外に大きな音がして、松井友里はヒヤリとした。


 やっぱり捨てるなら山だったかな。でも、こんなののために山まで車出したくないしな。うん、じゃあここで良かったってことにしよう。決まり。よし。


 友里は優柔不断なようでいて、中途半端にきっぱりしていた。しかし一応、さっき走っていった少年の背中は確認しておく。紺色をした安っぽい帽子が、こちらを振り返る様子はなかった。強張った肩から力を抜く。


 欄干から身を乗り出してみると、川べりの平たい岩の上に破片が散らばっている。なるほど、音の原因はあれか。それなら、次は河川敷の草むらに落とせば問題ないだろう。友里は足下の紙袋を片手で漁って、適当なひとつを取り出した。あの破片と同じ緑色をした、青磁器ふうの小さな壺だ。


 今度はしっかり狙いを定めて、岩とは反対の川べりに投げ落とす。するとかすかに鈍い音がして、あとはサラサラとせせらぎが続いた。落下地点に目を凝らすと、壺は割れることもなくただ草に埋もれている。


「うわ、つまんな」


 反射的に舌が動いた。せっかく過去を断ち切りに来ているのに、これでは少しも背中を押されない。友里は周囲を見回しながら次の壺を手に取り、今度はまた岩の上に落とした。ガチャン。澄んだ空気を震わせる硬く派手な音に、口角が上がる。やっぱりうるさいかな。でもまぁ、こっちのほうがいいや。


 友里には三人の「子」がいて、七人の「孫」がいる。といっても、実際に出産や子育てを経験したわけではない。知人を喫茶店やレストランに呼び出し、言葉巧みに壺を売りつけて「在庫」を預ける。それが友里にとっての出産であり、秘密の副業だった。


 どこにでもいる普通のOL、しかしその実態は、裏社会に蠢くネズミ講の華麗なる会員なのだ……と考えては、「やっぱり少しも華麗じゃないわ」と思い直すのが友里の日常だ。


 紙袋にはまだまだ壺が残っている。梱包されて三セットに分かれていた「在庫」を、この日のためにバラバラにしてきたのだった。そしてこれから、もっともっとバラバラにしてやるのだ。


 ガチャン。岩に広がる破片を見ると、無性にスカッとする。


 友里は綺麗事が好きではなかった。ネズミ講そのものに嫌悪感はなかったし、放っておけば金が入ってくるシステムには心が躍った。こうして在庫を川に投げ捨てることになるなんて、つい三日前まで少しも思っていなかったくらいだ。


 ガチャン。町は薄暗く、生温い風が吹いている。


 三日前の夜、友里はドラマを見ていた。最近はテレビなんてほとんど見ていなかったけれど、SNSで話題になっていたのが目について、そのドラマだけは毎週見ていた。イケメン俳優演じる刑事とイケメン俳優演じる詐欺師が追いかけっこを繰り広げる、スタイリッシュぶったチープなドラマだ。


 ガチャン。


 友里はそのチープさと、詐欺師のキャラクターが気に入っていた。イケメン俳優が演じるにしては、詐欺師のやり口はリアルに悪どかったのだ。女を口説いて騙すようなシーンはほんのわずかで、老人にサイバー犯罪への不安を煽ったり、税務署の職員になりすましたり……。キザな美学を掲げることなく、利益のために淡々と罪を犯し続ける姿が見ていて楽しかった。彼に自分を重ねていることは、はっきりと自覚していた。


 ガチャン。ガチャン。ガチャン。


 しかし三日前の夜、詐欺師は刑事の味方についたのだ。自分の姉が犯罪グループに誘拐されて、許せないからと言って。


 ガチャン。


 SNSは軽く炎上していた。今さら正義面をされても応援できないとか、見たいのはあくまで刑事と詐欺師の対決なのに、とか。けれど、友里にとってはそんなことはどうでもよかった。詐欺師に自分を重ねられなくなったことだけが、ただただ悔しかった。こんなチープな脚本に心を乱されるくらいなら、初めからネズミ講になんて手を出さなければよかった、と思った。会の拡大のためにと追加されていた在庫三セットが、急に憎たらしく見えてきた。


 ガチャン!


 午前四時の町は、青く静けさに沈んでいる。硬く空気を震わせて割れる壺は、まるでスポットライトを浴びているように見えた。いや、違う。スポットライトを浴びているのは自分だ。このひとけのない、早朝の世界の中心に、自分は今立っている。そして世界の中心で、このクソッタレな副業から足を洗ってやるのだ。そう考えると、呼吸がひどく熱くなった。いや、やっぱり自己陶酔しすぎかな。まぁ、それでもいいや。


 ガチャン、ガチャン、ガチャン。夢中で割り続けるうちに、紙袋の中身は残りひとつになっていた。壺を取ろうとした手を止め、このまま全部割ってしまうのも味気ないかな、と思ったとき、ふと一つのイタズラが思い浮かぶ。


 これを実行したからといって友里には何の利益もないし、そもそも成功したかどうかを確かめる術もない。しかしなんだかどうしても、無性にやりたくてたまらなくなった。自己への酔いが回った頭が、正常な判断力を失っているのかもしれない。


 友里は壺入りの紙袋を置いて、まずは最寄りのコンビニへ走った。一番安いボールペンを買い、やはり走って戻ってくる。壺は置き引きされることもなく、友里の帰りを待ってくれていた。安堵の溜め息をつきつつ紙袋を破る。五センチ四方程度に切り取った元・紙袋に、ボールペンの先を当てる。


「どうしよっ、かなー」


 身体を左右に揺らして、考える。思い浮かぶ言葉すべてが名案に思えて、足の裏がふわふわ浮いているような感覚に包まれる。カラスがガァガァ鳴きながら頭上を飛び去っていく。その濁った声ですら、自分を応援してくれているような気がした。


『この壺を手にした者には、必ず不幸が訪れます。災いから逃れたければ、別の誰かにこの壺を押しつけなさい。(注意:この紙は捨てずに、壺に入れたままにしておくこと! さもなくばあなたは死にます)』


 無限に湧き出る名案の中から選ばれたのは、こんな文章だった。思ったよりもチープになってしまったけれど、まぁ、いいや。誰か騙されやすい、小学生か中学生あたりがこの壺を拾って、嫌いな奴から嫌いな奴へと回していって、PTAで問題になったりして、「壺回し禁止!」というような紙が廊下に貼り出されたら……そう考えただけでもう、笑いが止まらなくなってくる。友里はくつくつと喉を鳴らしながら、最後の壺に注意書きを仕舞った。あとはこれをこの川に流せば、「不幸の壺」はきっと都市伝説になるだろう。


 友里はネズミ講をやめる。だからといって、正義の味方になるわけではない。警察にすべてを話そうなんて気にも到底なれない。「子」からの金で施したネイルはまだ落とさないし、「孫」からの金で買った加湿器だってまだ使う。友里は綺麗事が好きではなかった。


 不幸の壺を両手で掴み、オーバーハンドで遠くに投げようとして、やっぱり河川敷からしっかり流そうかなと一瞬考えて、でもやっぱり、思いっきり遠くに放る。壺の行方に背を向けて、歩き出す。




 ドサッ。顔のすぐ横で音がして、佐伯亮平は跳び起きた。眠りから突然引きずり出され、心臓がバクバクと暴れている。半袖シャツから出た腕を生温い風に撫でられて、くしゃみをした。


 訳も分からず周囲を見回す。目の前にはなぜか川があり、自分はなぜかその河川敷にいて、すぐそばにはなぜか壺が落ちている。夏だというのになぜか涼しくて、あ、まだ日が昇っていないのか、と気づいた。今は何時だろう。ジーンズのポケットにスマートフォンが入っていることだけはなぜかハッキリと覚えており、その電源の入れ方も知っていた。


「あー……」


 無意識に漏れた声は掠れていた。手元の液晶には時刻と、『かずきがスタンプを送信しました』という通知だけが表示されている。かずきという名前の人物は、亮平の知人には一人しかいなかった。スマホのロックを解除すると、アプリのアイコンに「87」という数字がくっついている。アイコンを軽くタップして、亮平はもう一度横になった。


『二次会盛り上がってまーす』『写真カオス』『けんた笑』『これ忘れた人誰?』『サキ二次会いる?』『いないよ~』『アルバム作りました!』『ありがとう!』『ありがとう』『ありがとう』『サンクス』『ありがとう~!』『ありがとう』『今日はめっちゃ楽しかった! また集まろ~』『楽しかったっす』『盛り上がりすぎたw』『お~』『3‐1最高!』『セルフ二次会してたわ』『いや来いよ笑』


 寝起きの頭に吹き出しの群れが襲来して、こめかみが痛くなってくる。縦に並んだいくつもの名前の持ち主たちを、亮平はひとり残らず思い出せた。中学三年の頃のクラスメイト。昨夜の同窓会に集まった彼らのことが、亮平は好きだった。


 無造作に寝返りを打つと、壺が額にぶつかった。無性に腹が立ってきて、寝転がったままそいつを川に投げ捨てる。ボチャン、という音のあと、壺はゆっくりと流され始めた。やけに穏やかなせせらぎと、近くの電柱でカラスの鳴く声が重なって、今度は悲しくなってくる。日の出前の空はのっぺりと青く、晴れているのだか曇っているのだか、よく分からない。しかし、自分が河川敷で寝ていた理由はもう、はっきりと思い出せていた。


「あ、サイキくん?」


 昨夜の亮平が声をかけると、西野美穂はそう言った。亮平の名字は佐伯だ。


「あ、リョースケ?」


 昨夜の亮平が声をかけると、浅田達彦はそう言った。亮平は亮平だ。


「おお~、ケーイチ!」


 昨夜の亮平が声をかけると、吉澤修哉はそう言った。ケーイチなんて奴は知らない。


 要するに、そういうことだ。


 ガァガァとカラスが鳴く。せっかく早朝なのだから、カラスよりもニワトリの声が聞きたかった。ギロリとカラスを睨み上げてから、動画アプリを開く。「ニワトリ 鳴き声」で検索をかけると、ニワトリのサムネイルがずらりと並んだ。


 一番上の動画をタップすると、広告が始まる。「今すぐ貯金を増やしたいそこのア・ナ・タ!」。薄暗い周囲に白地の画面は眩しく、スマホを草むらに伏せた。音量を上げると、男の甲高い早口が鼓膜に突き刺さる。


 広告が終わっても、ニワトリの声はまだ聞こえない。サーッというノイズやガチャガチャとした環境音がして、亮平の眉間にはシワが寄る。午前四時の河川敷は空気ばかり綺麗で、目の端に映る橋脚の色や草の硬さや風の温度やひとけのなさはみんな不愉快に感じられた。だけど、もしここにさすらいの画家が現れたら、そいつは俺にどいてくれと頼むんだろうな。うっかりそんなことを考えると、もっと最悪な気分になってくる。ニワトリはまだ鳴かない。


 寝返りを打つ。すると、コッコッコッとかすかに声がした。ニワトリだ。しかし、求めているのはこんな鳴き声ではない。コケコッコーとけたたましく高らかな、あの声が聞きたいのだ。ガァ、カラスが鳴く。お前じゃないよ、と呟く気にもなれない。


「コケーッ!」


 ニワトリが鳴く。これはなかなかいい感じだった。この調子で、早く「コケコッコー」を聞かせてくれ。なんというかもう、希望はお前だけなんだ。そう願う亮平の耳元で、ノイズが止んだ。


「は?」


 上半身を起こし、伏せていたスマホを裏返す。動画は終わっていた。さっきの「コケーッ!」が、この動画の最大の見せ場だったのだ。


 気づけば亮平は動画のURLをコピーし、かずきのスタンプの下に貼り付け、『これ見てみ笑』とメッセージを送信し、そのままトークグループを退会していた。そのメッセージにいくつの既読がついて、誰がどんな感想を言って、自分にどういった評価が下されるのか、そんなことはもうどうでも良かった。立ち上がると、ジーンズの尻がじっとりと濡れている。目の前の川は濁っていて、空はよく見ると晴れていた。


 ガァ、カラスが鳴く。「うるせーバーカ!」近所迷惑も気にせず怒鳴ると、寝起きの乾いた喉が痛んだ。激しく噎せる亮平に首を傾げ、カラスは飛び去っていく。




 ガァ、カラスの声がして、貫田光一の肩は跳ねた。構えた物干し竿をそのまま突き上げそうになり、わっと出かけた声を堪える。安アパートの低い天井は、物干し竿を突きつけられたままドスドスと震え続けている。


 ふぅ。細く長く息を吐き、光一は竿の先を下ろす。傍らのデスクではPCのディスプレイが煌々と輝き、隅に時刻を表示していた。もう午前四時を回っている。いや、まだ午前四時なのだ。早朝の中の早朝、太陽だって昇っていない。


 大丈夫だ、大丈夫。自らにそう言い聞かせる。大丈夫。午前四時は、サンドバッグと向き合うには十分非常識な時刻のはずだ。一階に住む自分が、真上に暮らすボクサー志望のトレーニングを妨害することもまた、十分に許される時刻のはずなのだ。


 ドスドス、バスバス、ドスドスドス。ステップの音とパンチの音が、徹夜の脳をぐらぐらと揺さぶる。揺さぶられるうちに腹の底がぐらぐらと煮えたぎってきて、光一はまた物干し竿を構えた。


 これで思いきり天井を突いてやれば、さすがの相手も反省するに違いない。奴が上に引っ越してきてからというもの、しょっちゅうこの騒音に悩まされていたのだ。一回くらいお灸を据えてやったって何ら問題はない、はずだ。ずり落ちてくる眼鏡を押し上げ、ぐっと息を止める。


 バス、とまたパンチの音。今度の響きは、ひとつ前よりも力強かった。止めた息が鼻から漏れ出し、慌ててかぶりを振る。大丈夫だ、怯んではならない。物干し竿を構えて十五分、これまでの時間を無駄にしてはならない。こちらは一刻を争う状況なのだ。ボクサーワナビの日課ごときに、これ以上集中を邪魔されるわけにはいかない。


 ――やれ、やるのだ、貫田光一!


 ――…………。


 止めていた息を吐き、ディスプレイを見やる。その輝きは何度確認しても白く、液晶には枠線と粗い下描きと、手書きの汚い文字が入った吹き出しが映っているだけだ。画面の上半分を占める大きなコマでは、ソーシャルゲームの準ヒロイン「ミレイ」が一糸まとわぬ体を仰け反らせている。印刷所の締切日を描いた付箋が、ディスプレイの下端で剥がれかけていた。


 光一は物干し竿を置き、ディスプレイ前に移動した。やはり物干し竿攻撃の前に、一度シャットダウンしておくべきかもしれない。常識ある人間なら一度咎めれられば黙って行動を改めるだろうが、午前四時からステップを踏む奴に常識があるとは思えなかった。逆上してこちらの部屋に乗り込み、描きかけの同人原稿を無遠慮に眺め回し、ログインしっぱなしのSNSにアクセスしてアカウントを特定し、投稿をひとしきり確認した上で「この変態オタク野郎!」と光一を罵倒し、殴りつけて気絶させズルズルと引きずって二階に戻り、サンドバッグの代わりに吊るしてトレーニングを再開しないとも限らない。ドスドス、バスバス、音はまだ止まない。


 よし、まずはシャットダウンだ。そこから戦いは始まる。原稿を上書き保存してPCの電源を落とし、再び物干し竿を構えた。ゆっくりと息を吸い、止め、指先に力を込める。


 と、デスクの隅でスマートフォンが震えた。ほっとまた息を吐いて竿を下ろし、通知を確認する。瞬間、全身の力が抜けるのを感じた。


『ミレイ「ちょっと! まだ達成していないデイリーミッションがあるわよ!」』


 ゲーム内で一日五つずつ課され、達成することでアイテムが得られるデイリーミッション。その更新は毎日午前六時だ。光一は昨日のデイリーミッションを、まだ一つも達成していなかった。それどころかゲームを起動すらしていない。一日中PCにかじりついて、ミレイのエロ同人を描き続けていたのだ。


 震える天井から零れた埃が、光一の眼鏡に降りかかる。


 埃を浴びながら、そのままゲームを起動した。いつもと同じ内容のデイリーミッションを、作業のように淡々とこなしていく。プログラム通りにぎこちなく揺れる、ミレイのオレンジ色の長髪が美しかった。


 この髪が一番綺麗に見えるように、モノクロでもこのオレンジ色が鮮やかに想起されるように、光一は原稿を描いていた。ミレイの勝ち気な性格が崩れないように、そんな性格が一番可愛く見えるように、光一は台詞を吹き出しに入れていた。しかし、ゲームよりもほんの少しだけ胸を大きく描いていることを、ミレイは決して許さないだろうと思った。


『ケツアナさん進捗どうですか』


 また震動が来て、ゲーム画面の上部に通知が表示される。SNSのフォロワーから、ダイレクトメッセージだ。ケツアナさんとは光一のことで、「ケツ腕アナル」というアカウント名の略称だった。何度も後悔した呼び名に苦笑しつつアプリを切り替え、メッセージを返す。



『ダメです』


『草』『俺もなんだよなぁ……』


 フォロワーの文面からは疲労が感じられる。光一は三秒ほど躊躇ってから、液晶に指を滑らせた。



『なんでエロ同人なんか描いてんだろな』


 吹き出しの傍のチェックマークが、既読を示して青く灯る。直後、スマートフォンが鈍く震えた。手のひらから肘に向けて、ぶるぶると振動が伝わる。


『徹夜の哲学、徹学じゃん』『いいからはよ新刊読ませて』


 肘の震えがフッと消え、骨にかすかな痺れが残る。傍らの物干し竿が転がり、わずかに光一から離れていった。


『差し入れは?』


『弊サークルの新刊と交換でどうすか』『サナNTRですが』


『変態オタク野郎がよ……』


『変態オタク野郎に変態オタク野郎って言われたよママ~』


 オタクくさい返信にフッと鼻息が漏れ、去年の即売会で見た小汚い男が『ママ~』と入力している姿を想像してさらに笑えてきた。薄暗い部屋でスマートフォンを構え、ドスドスとステップの音に踏みつけられながら、光一はディスプレイに向き直る。


『原稿するか』


『えっ』『置いてかないで』


『あばよ……』


『イヤダァ……』


 半角カタカナの悲鳴を背にして、PCの電源を入れた。ドスドス、バスバス、ドスドスドス。煩わしい騒音にカラスの声にスマホの震動に外からは「せんぱぁ~い」と甲高い声が重なって、お前ら全員黙ってろ! と叫び出したくなって、叫び出さないでおく。




「せんぱぁ~い、お願いしますよぉ~」


 半歩後ろの甘ったるい声に、水嶋英梨花は溜め息をつく。そのせいで一瞬呼吸が乱れ、もう一度集中してリズムを整えなければならなかった。トットットッと続くランニングシューズの音が四つ、ぴたりと重なる。


「ねぇ~、聞いてます~? せんぱぁ~い」


「はいはい聞いてるよ。聞いてて無視してんの」


「うわ、ひど~い。エリ先輩ってそういうとこありますよねぇ~」


 不満げに語尾を下げつつも、森永綾音は楽しんでいるようだった。かったるい話し方、ふわふわとした態度、顔は可愛いくせにいまひとつパッとしないヘアスタイル。英梨花は綾音の全てが心底、嫌いだった。


 午前四時の町は青く、湖の底のように澄んでいて、錆びの浮いたカーブミラーも剥がれかけた「猛犬注意」も児童公園の雑草に埋もれたゾウもみんな、心地よい他人行儀さを纏っている。その中でただ一人、この甘ったれた後輩だけが異物なのだ。美しい湖に投げ込まれたペットボトル、ママチャリ、ブラウン管テレビ!


「とにかくぅ、お願いしますよぉ~。エリ先輩、一緒に部活辞めてくださ~い」


 ブラウン管は英梨花の隣に追いつくと、左腕に無理やり絡みついてきた。ピンク色のTシャツから漂うアプリコットのにおいに、ゾッと鳥肌が立つ。英梨花は力づくで綾音を振り払い、スピードを上げた。トットットットッ。靴音に合わせて揺れる学校指定の体操服からは、石鹸と埃のにおいがする。


「だから、なんであたしが辞めなきゃいけないわけ。辞めたいなら一人で辞めれば?」


「それはそうですけどぉ、でも嫌なんですよ~」


「なんで」


「だってぇ」


 綾音はまた追いついてくる。透明な産毛の生えた真っ白な頬が、オレンジ色の街灯に光った。


「私だけ辞めたら、またみんな馬鹿にするじゃないですか~」


 喉が詰まりそうになるのを辛うじて堪え、英梨花は規則的な呼吸を続ける。隣から覗き込んでくる丸い瞳は、街灯を通り過ぎたせいかいつもより黒々として見えた。


 森永綾音を嫌っているのは、英梨花だけではない。綾音を疎む雰囲気は今年の四月から吹奏楽部全体に漂い続けており、中でも、彼女と同じ一年生たちの態度は露骨だった。綾音の教室での様子は一年生から二年生、三年生へと伝えられ、その情報から上級生たちもさらに綾音を遠ざけるようになり、そうして皆に遠ざけられている綾音を面白がる者が現れ、周囲もなんとなく「面白がると楽だな」と感じ始め、部員たちは綾音の口調や仕草を陰で真似しては笑いながらも、本人に話しかけられれば生返事のみで応対するようになっていった。


 英梨花は綾音が嫌いだったが、そんな部の雰囲気も嫌いだった。綾音イジりが始まってからは他の部員とも距離を置くようにし、部活中はただ黙々と、チューバの練習に励むようになった。


「別にいいじゃん、馬鹿にさせとけば。辞めちゃえば二年はアンタのことなんか忘れるよ。三年生はもう受験で忙しいし」


 トットットッ、重なる足音のリズムをさり気なくずらし、言葉でも突き放してみる。しかし綾音は首を振り、またしても体を寄せてきた。


「先輩たちのことはどうでもいいですよぉ~。気になるのは同級生なんですもん」


「じゃあなんであたしを巻き込むの。一年生はあたしのことなんか誰も知らないでしょ」


「え~っ?」


 綾音はやはり甘ったるい声で驚きを露にし、ヒュ、と息を吸った。英梨花もその音につられて思わず、吐ききらないまま空気を吸い込んでしまう。温まった体に早朝の空気は冷たく、肺が不愉快に震えた。


「エリ先輩、気づいてないんですかぁ?」


「何に」


 額から汗が流れ落ちる。これもまた、冷たい。


「エリ先輩と私、一緒じゃないですか~」


 何が、と言おうと口を開いて、何も言わずにまた閉じた。分かりきったことをあえて尋ねるなんて、とても惨めで愚かしいことに思えた。


「もしかして、本当に気づいてなかったんですかぁ?」


 なんかかわいそ~う。綾音がわざとらしく眉を下げる。他人に同情されることが、英梨花は何よりも大嫌いだった。


 休み時間に視線を感じるようになったこと、教室移動に誘われなくなったこと、自分を「エリ」と呼ぶ声が、少しずつ低くなっていっていること。思えば入部当初から、その場その場の流れの中でしか他の部員と関わってこなかったこと。気づいていないはずはなかった。


 けれど、だからといって、綾音と一緒だなんて思ったこともなかった。


「アンタとは、一緒じゃないよ」


「一緒ですよぉ~」


 綾音はころころと笑う。彼女がどうして笑っているのか、少しも分からなかった。呼吸が浅くなり、靴音と空気の音にこめかみが痛む。アパートの脇のゴミ捨て場には、カラスの黒い影が見えた。


「せんぱぁい、私がどうして今日先輩と合流できたのかぁ、分かります~?」


「分かんない」


「先輩が早朝にランニングしてるのを見た~って、低音パートの一年が話してるのを聞いたからですよぉ。うちは強豪校でもないし、そんなに真面目にやったって意味ないのに~って。しかもわざわざ体操服なんか着て、ダサすぎてキモい~って。私ねぇ、この日のために先輩のおうち突き止めてぇ、三時半から近くの電柱で張り込んでたんですから~」


「何それ、アンタのほうがキモいじゃん」


「だからぁ、それだけ本気なんですよぉ。先輩、部活辞めてくださぁ~い」


 英梨花は何も言わず、スピードを上げようと強く地面を蹴った。しかし、ダン、と重たい音が響くばかりで、加速する感覚がない。吐く息が熱く、吸う息が冷たく、えづくように咳をすると綾音にまた笑われる。普段ならもっと走れるのに。信号機が、ガードレールが、民家の庭の植え込みが、自分を見ているような気がする。


「私と先輩が一緒に辞めればぁ、『森永が辞めたぞぉ』でも『水嶋が辞めたぞぉ』でもなくて、『二人同時に辞めちゃうなんて、実は友達だったんじゃない?』ってなるじゃないですか~」


「それが何」


「今もね、エリ先輩と私が仲良しなんじゃないかって話、みんなちょくちょくしてるんですよぉ。エリ先輩がみんなとつるまなくなったのはぁ、私が笑われはじめてからだから」


「だから、それが何!」


「私ねぇ」


 トットットッ。綾音が英梨花を追い抜いて、靴音は二つだけになる。


「エリ先輩となら、友達になれると思うんですよ~」


 ふふふ。嬉しそうな声を聞きながら、英梨花は膝に手をついた。ヒュウヒュウと荒い息の向こうで、甘ったるい声が遠ざかっていく。


「あっ! 先輩せんぱい見てくださいよぉ。このおうち、プールありますよ~。いいなぁ、きっとお金持ちなんだろうなぁ、私、将来はお城みたいなおうちに住みたいんですけどぉ、やっぱり無理なんですかね~? どう思いますぅ? せんぱぁ~い……」




 くるまった布団に目覚まし時計を引きずり込んで、馬淵湊人は目を凝らした。蒸し暑い暗闇の中にぼんやりと、文字盤が浮かび上がってくる。短針は「4」と「5」の間を指していた。


 保育園の年中組に上がった春から七年間、午後九時から午前六時までの九時間睡眠を崩したことのなかった湊人にとっては、まったくもって未知の時間だ。


「うぅ……」


 溜め息と呻き声の中間のような、情けない音が口から漏れる。それがひどい大声に聞こえて、布団から顔を出した。が、子供部屋は不気味なほどに静まり返っていて、階下の両親が起きだす気配もない。


 こんなに静かな自分の家を、湊人は知らなかった。青黒い光に沈んだ天井は、お説教の後に黙り込む母親の背中に似ていて、昨夜から一睡もできなかったことを責められているような気がしてくる。耐えられなくなりもう一度布団の中へ逃げ込もうとして、やっぱり起き上がることにした。凝り固まった背中が少し痛かったのだ。


 目の前の壁にはカレンダーがかかっている。今日の日付は真っ赤な丸で囲まれていて、その浮かれた筆圧にげんなりした。一か月前、ナコちゃんが遊びに来ると決まったときは本当に嬉しかったのだ。でもそのときの自分は本当にバカで、アホで、スットコドッコイのオタンコナスだった。少なくとも、湊人自身はそう思っていた。


 ナコちゃんは、湊人の母親の友人の娘だ。二つ隣の町に住んでいて、湊人とは同い年ということもあり、小学校に上がるまではよく一緒に遊んでいた。ナコちゃんは鬼ごっこよりもかくれんぼが好きで、ハンバーグよりも煮物の大根が好きで、アンパンマンよりもナガネギマンが好きで、保育園の同級生たちとは微妙に違った雰囲気の持ち主だった。


「ナコさぁ、こないだ幼稚園でミユウちゃんにさぁ、誰とケッコンしたいって聞かれたよ」


 砂場の縁にドングリを並べながら言ったナコちゃんの横顔を、湊人は今でも覚えている。前髪につけた星型のヘアピンが、今にも落ちそうな位置で揺れていた。


「いちおうさぁ、ミナトくんって言っといたけど」


 言っといたけど、何なのか。それを考える余裕はなかった。当時の湊人は気づけば首をブンブン縦に振っていて、その後ナコちゃんが塾に通い始めると聞かされたときも、全然不安になんてならなかった。たとえナコちゃんが忙しくなり、会える機会が減ったとしても、自分たちは将来結婚するのだから。


 ――昔からずっとオタンコナスだ!


 転げ落ちるようにベッドを降り、紺色のカーペットを踏んで窓辺に寄る。カーテンを開けると、庭のプールがすぐ真下に見えた。真っ青な空、真っ青な町、真っ青な水面。窓を開けてもやっぱり静かで、思い出したくない言葉だけが鮮明に耳に蘇る。


「だってミナトんち、プールあんじゃん!」


 終業式の日の放課後、同じクラスのタイガはそう言って、湊人の顔を指差した。ユウマとシュンも声を揃えて「たしかにー!」と叫び、「じゃあミナトんちな!」「プッウッルッ~、プッウッルッ~」「オレさぁオレオレ、でっけーイルカのやつ持ってくから!なぁ聞けって、聞けって! オレさぁ」とはしゃぎ、湊人をおいてけぼりにする。心がピキピキと引きつる感じがして、少しも上手く笑えなかった。「夏休み、誰かんち泊まりたくね?」とタイガが言い出したときは、心の底からワクワクしたのに。


 思い返してみれば、タイガもユウマもシュンもみんな、プールに入っているときが一番楽しそうだった。毎年夏が来ると必ず湊人の家に来て、ゲームもそっちのけでプールへ猛ダッシュする。夏の間だけ増える来訪が嫌だったわけではないけれど、去年あたりからなんとなく、気になってはいた。


 みんな、うちにプールがあるから仲良くしてくれるのかな。


 うちにプールがなかったら、みんな友達じゃなかったのかな。


 そういえばナコちゃんも昔、あのプールに入ってたっけ。


 もしかしたら、ナコちゃんも……。


 目の表面が熱くなってきて、一晩中我慢していた涙をまた堪える。目の下で青く揺らめく水面が、憎たらしくて仕方なかった。


 午前四時。ナコちゃんが来るまではあと六時間。六時間! そんなにも長い時間を不安のまま過ごすのかと思うと、気が遠くなりそうだった。せっかく、ナコちゃんと久しぶりに会えるのに。しっかり眠った元気な体で、ナコちゃんと思いきり遊びたいのに。ナコちゃんと会えるウキウキに、今はじっくり浸りたいのに。あんなプールなんか、プールなんか、


「なくなっちゃえばいいのに」


 そう口に出してみて、ハッとした。そうだ、プールなんかなくしちゃえばいいんだ。そうすればきっとこの不安からも不眠からも解放されることができるし、しかも湊人の頭には、その方法が思い浮かんでいる。この間シュンが教えてくれた「天啓」という言葉は、こういうときのことを表しているに違いないと思った。


 いてもたってもいられなくなり、湊人は部屋を飛び出した。音を立てないよう慎重に階段を降り、そっとそーっと玄関を出る。早朝の家はまだまだ静かで、背中に汗が滲むような緊張感がある。サクサクと芝生を踏みしめる音が耳に届いてようやく、深呼吸ができた。


 サクサクサクとあえて音をさせながら、プールの脇に辿り着く。レンガ風のタイルで飾られた、丸いプール。その陰にこれまた丸いハンドルが埋まっていることを、湊人は知っていた。このハンドルを回しさえすれば、排水弁の蓋が開くことも。


 周囲を確認してから芝生にしゃがみ、ハンドルをぐっと両手で握る。朝早いせいか金属は冷たく、思わず手を離してしまったが、すぐに握り直した。持てる限りの力をこめて、回す。全然手応えがなかった。この作業はいつも父親が担当するので、湊人は実は、ハンドルに触ることすら初めてなのだ。


 それでも、ここで諦めるわけにはいかない。ナコちゃんとの楽しい一日が、今この両腕に、自分の腕力にかかっているのだ。プールの水さえ抜いてしまえば、プールという邪魔者さえ排除できれば、ナコちゃんはきっと自分だけを見てくれる。心配事は何一つなくなるに違いないのだ。


「ふんっ……ぬぅ!」


 喉の奥から気合いを絞り出す。瞬間、キュイッと耳障りな音を立ててハンドルが回った。それから……ゴポッ。


「あっ!」


 水の音だ! 湊人は大急ぎでハンドルを回した。キュルキュルキュルという金属音と、ゴゴゴゴゴという水の音が重なって、午前四時の静けさが消えていく。両親が目を覚ましてしまうかも、とほんの少しだけ不安が湧き起こって、だけどすぐにどうでもよくなった。ハンドルから手を離す。ゴゴゴと重かった水音が徐々に、バシャバシャと軽くなっていく。


 なんだか力が抜けてきて、芝生にそのまま腰を下ろした。朝露にズボンが濡れて気持ち悪かったけれど、眠気がそれを上回ってきた。プールの水面はぐらぐらと不安定に揺れながら、下がり続けている。バシャバシャバシャバシャ。鼓膜が絶え間なく震え続けて、タイガの声は思い出そうとしても思い出せなかった。


「何してんの?」


 バシャバシャの奥から、いきなり声をかけられた。ビクリと跳ねるように立ち上がると、道路に面した柵の向こうに、見覚えのある顔があった。同じクラスの柿本翔汰だ。思わず一歩後ずさる。翔汰はクラスの中では「一軍」の男子で、湊人は、おそらくタイガもユウマもシュンも、ろくに話したことさえなかった。


「プ、プールの水……抜いてる」


 ふぅん、と返す翔汰の瞳が一瞬、輝いたように見えた。柵越しに見える紺色のキャップにはダメージ加工が施されていて、そのことに湊人は萎縮する。眠気はどこかへ消えてしまっていた。


「なんで抜いてんの」


「え……なんか、抜きたかった、から」


「何それ。変なヤツ」


 そう言う翔汰の真顔に、ちょっとカチンときた。やり返そうと言葉を探すと、自然と唇が尖る。


「そっちこそ、何してんの」


「オレ?」キャップの下の両目が泳ぎ、すぐに戻ってくる。「家出だよ」


「家出、って……怒られるよ」


「お前だってそれ、怒られるじゃん」


「そっ、れはそう、だけど」


「なぁ」


 日焼けした指が柵に絡みついた。湊人の踵がまた一歩、後退する。


「一応さ、クラスのヤツに言うなよ、絶対」


「な、何を?」


「オレが家出したってこと」


「あ……う、うん。分かった」


「ん」


 頷くと翔汰はくるりと背を向け、ごつごつしたリュックを揺らして走り去った。秘密にさせるくせに、どうしてわざわざ話しかけてきたのだろう。それにあの、瞳の一瞬の輝きは何だったのだろう。何か珍しい、宝物とかモンスターとか、そういうものを見つけたときのような……。


 気がつくと、プールの音はしなくなっている。まぁどうでもいいか、柿本翔汰のことなんて。そう思うと引っ込んでいた眠気が蘇ってきて、芝生に大の字になってみる。ナコちゃんが来るまで、あと六時間。今ならそれまでぐっすりと、何も気にせず眠れるはずだ。


 湊人の大あくびの上空を、カラスが横切っていく。




 カラスは早朝が好きだった。早朝の町をあちこち飛び回って、気の早いごみ袋をつついたり、電柱の上で空を見上げたりするのが好きだった。普段はうるさい人間も、日の昇る前は不思議と静かだ。カラスはそんな町を飛びながら、ガァガァと自分の声を響かせるのも好きだった。


 ガァガァガァ。今朝も気ままに声を出す。カラスにも色んな声の者がいて、カァカァと澄んだ声をクチバシに反響させる者もいれば、ガァガァと野放図に喉を震わせる者もいる。カラスは後者だった。だからといって誰かに馬鹿にされることもなかったし、自分の声も気に入っていた。


 飾り気のない寂れたビルの、汚れた屋根を通過する。湿気を含んだ生温い風が、カラスの翼をかすかに揺らした。


 低いマンションの共用廊下で、オレンジ色の照明が消える。ガァガァガァ。ガァガァガァ。カラスは気まぐれに方向転換する。午前四時の町にはカラスの声と、黒色と、空の青色だけが響いて、浮かんで、漂っている。


 カラスはあともう少しだけ、飛び続けるつもりだ。

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