第5話
「——良かったんだよ、本当のことを言っても」
「後悔はありません」
私は役人さんの言葉に首を振った。
「——そうですか、それなら良いけど。」
彼はエレベーターのボタンを押して、手すりに寄りかかる。
上に参ります、との案内が聞こえる。
「いやあしかし、珍しいものを見させてもらったよ。前の人の記憶が残ってることなんて、滅多にないんだから」
「いや予想どおり、記憶は残ってなかったですよ。でも、私はそれで満足です」
「何を言うんだ、君も聞いただろ?君の名前を言い当てたじゃないか」
「当たってませんよ、似てるのは偶然ですから!」
確かに彼は、私のことをミサキと呼んだ。
でも私の名前は
「期待しないように、と言ったのはそっちです」
責める口調にならないよう、おどけて言ったつもりだ。
「だからこそ僕も驚いているんだ。あんなのニアピン、ほとんど当たったようなものだよ。しかも最後、清瀬くんはちゃんと言っていたじゃないか」
役人さんが言っていることに、心当たりはあった。
——次は、僕が案内する。
それが私の胸の中に引っかかっていて、でもそれについて考えても無駄な期待をしてしまいそうだと思って、記憶の奥底にしまい込んでいた。
「清瀬くんは、いや彼は、次があることを直感しているんだよ。またいつか君に会えるってことを、心のどこかで分かって——」
「良いんです、私は今日が楽しめたから、それで」
役人さんは半ば強引に私に遮られると、どこか申し訳なさそうに「そう」とだけつぶやいて、自分の足元に視線を落とした。
そう、これで満足なのだ。
彼は清瀬拓也であって、他の誰でもない。それが分かったから、これで良い。
理系で、ブラックコーヒーが好きで、ファッションに敏感な“彼”ではないと分かったから、これで良い。
目玉焼きに醤油をかける人なんて、日本にはたくさんいる。
「そんな事より、このような機会をいただけたことが、私にとって何よりの幸せなんです。本当にありがとうございました」
私が頭を下げると、役人さんは恐縮した様子で両手を振った。
「僕なんか、何も」
「素敵なプランをいくつも提案してくれたじゃないですか。おかげで限られた時間でも、色々な場所を楽しめたんです」
今度は照れた表情。この人は感情が表に出やすいんだなと思う。
「何事も、計画性が第一だからね。僕は仕事柄それが得意なんだ。でも、実行したのは全部君だよ」
役人さんは、顔にたくさんの皺を作って微笑んだ。これまで多くの人の旅立ちを見守ってきた顔だ、と思った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
役人さんは背筋をピンとしたまま礼をした。私も笑顔で頭を下げた。
——今度は夜景を見に行こうよ。
ふと彼の声が自然に、頭の中で蘇る。
その時、エレベーターのドアが開いた。
「お先にどうぞ」
どこまでも彼は紳士的だ。
「あなたの、次の人生への一歩です」
「はい」
次の人生。“彼”にとってそれは、私よりずっと先に始めていた、そして私の知らぬ間に始めて二十年も経っていた、この街のある雨男としての人生。
これからの私にとっては、どんな人生になるのだろう?
息を吸いながら顔を上げる。
足先に、きらりと光る雨粒が一つか二つ、落ちるのが見えた。
これは多分、さっきの天気雨だと思った。
天気雨の天使 すずき @bell-J
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