第4話
「そろそろって、何が」
薄々分かっていても、僕は尋ねた。いっそ答えないでほしいと心のどこかで思っていた。
「時間が来るんだよね」
彼女は街の風景から目を離さなくなった。建物や山の一つ一つを、目に焼き付けようとしているみたいだった。
「いやー、満足満足!もうやれるだけのこと、全部やったもんね」
声は底抜けに明るくても、僕の耳にはそう聞こえなかった。
「まあーどうだった?ちょっと困ったでしょ、通学途中にいきなり知らない人に声かけられてさ、こんなとこまで」
「知らない人」という表現が、しっくりこなかった。僕からすれば彼女はもう、いわゆる「知らない人」だとは思えなくなっていたのだ。
でも確かに初めて話しかけられた時から今まで、僕が彼女について知っていることなんてほとんどないままだ。
じゃあなぜだろう。
なぜ僕は、彼女のことを何も知らないのに、彼女を知っている気がするんだろう。
「——ところでさ」
「ん?」
「知らない人、でいいんだよね?」
「...え?」
「あなたは僕の、知らない人、なんだよね」
そう言った途端何だか急に、自分のことが信用できない気がしてきた。
この人を、本当に僕は知らないのだろうか。
——本当の本当に?
「そうだよ!私がきみを好き勝手に、いろんな場所に連行してっただけなんだから。最後はここって決めてたんだ、一回ここからの街の景色が見たくて——」
「ほんとに?」
発している自分の声が、想像以上に冷たかった。それは彼女も感じたらしかった。
「拓也くん——?」
「あの、一つだけお願いがあるんだけど」
「はい、何かな」
太陽がさらに傾く。雨が眩しく、僕の視界の隅で弾けるように光る。
時間は過ぎていく。僕はそれをどうすることもできない。
「あなたの名前を、教えてもらえないかな?」
こんなことを訊くつもりではなかった。
でも名前も知らない人と半日、街を練り歩いていたのだ。そんなこと、彼女以外とだったらできただろうか。
そして今までの状況を何となく受け入れていた僕自身が、何よりも不自然じゃないか。
「名前なんて教えたって、私はきみの知らない人だよ」
教えまいとして必死に見えた。
「とにかく、私が言いたいことはね」
「待って」
「私は今日の少しだけでも、きみといられて楽しかったってことだよ。ずっと楽しかった」
「いや勝手にシメみたいなコメントはやめよう」
何となく、分かる。彼女はもうすぐ、ここからいなくなるのだ。
分かる。彼女はきっと何かのルールで、ずっとここにいるわけにはいかないのだ。
「拓也くん、本当にありがとう。私はきみのこと忘れないけどさ」
「待って」
「でもきみは私のこと忘れて良いからね」
彼女はゆっくり瞬きをして、それから僕のことを見ず下を向いたまま振り返る。
行ってしまう気がする。ここで彼女が僕を振り返らなかったら、もう二度と会えないような気がする。
なぜだろう。
「待って!」
声が大きくなった。僕の意思に関係なく口が動いた。
「ミサキ!」
——不思議な現象だった。
今の言葉が僕の口から出たのかどうか、その時の僕からすればよく分からなかった。
だが彼女は背中を何かに弾かれたように、すごい勢いで振り返った。僕を大きく見開いた目で見つめた。
だからきっと、僕が言ったのだ。
ミサキ。僕の知り合いにそんな名前の人はいない。
「今、何て?」
今の距離で、ギリギリ僕に届く声だった。小さいのではなく、震え掠れた弱々しい口調だった。
「ミサキ。そんな顔、してる」
直後、彼女の瞳がふるふると揺れた、ように見えた。ちょうど今、山に沈みゆく夕日と同じように、ぼんやりして見えた。
「ハズレだよ」
当たるはずなんてなかったのに、僕は自分が間違ったことを意外に思った。
「私、そんな名前じゃないよ。残念でした!」
言っているうちに、驚きで固まっていた彼女の表情はほぐれて、落ち着いた笑顔に戻っていった。
「じゃあ。私降りる前に、お手洗い行ってくるから」
嘘だ。彼女はこのまま、僕の隣には帰って来ない。
「ここはさ」
彼女の言うことを聞かないふりをして、僕は言った。
彼女に遮られないように、早口で言った。
「ここは夕焼けの景色も良いけど、何より夜景が最高なんだよ。この展望台から街の明かりが広がって見えて、夢みたいな景色が見られるんだ。それはもう綺麗で、これ見たら死んでも良いなってくらい——」
そんな今日一番の僕の演説を聞いて、彼女は笑ってくれた。
心の底から安心する笑顔だった。
僕はこの人にずっと会いたかったような気がした。
そのために今日は自転車じゃなくて、歩いてあの橋を渡ろうとした。実は僕たちは、あそこで会う約束をずっと前にしていた。そう思えてならなかった。
「——だから」
知らぬ間に息が切れていた。大きく肺に空気を吸い込んで、残りの文章を吐き出す。
「だから、今度は夜景を見に来ようよ。今度会ったら、最後はここからの夜景を見せてあげる。次は、僕が案内する」
「拓也くん」
彼女は、泣くことはなかった。瞬きをする時も、涙がこぼれるようなことはなかった。
「きみはきみだね」
よく分からない言葉も、なぜか腑には落ちたのだ。僕は拳を握りしめる。
「それじゃ、すぐ戻るから」
にっと歯を見せて、彼女は手のひらを僕に向けた。
僕も手を振った。彼女が向こうを向いて歩き出しても、僕は姿勢を変えなかった。
「また今度」
このつぶやきは多分、彼女まで届いていない。しかし言うことに意味があると、なんの根拠もなく僕は思っていた。
後ろに何かの気配を感じて、僕はゆっくりと振り向いた。
誰もいなかった。その代わりにさっきまで見ていたのとは少し違った、街の風景がガラス越しに広がっていた。
山にほとんど落ちかけている夕日が、最後の強い光を放つ。眩しくて目を背けそうになるが、僕は同じ方向を見続けていた。
天気雨はまだ止まない。ガラスに水滴を作りながら、きらきらと光を反射している。
——つまり、嬉し泣きなんだよ。
彼女の声はずっと、僕の頭の中に反響していた。
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