第3話
それからは目が回るほどのスピードで、いくつかの場所を回った。
彼女の言う「洋服屋」は僕のイメージに反して、カジュアルでお手頃な価格の服が主に置いてある、全国チェーンの店だった。
「ここに、来たかったの?」
彼女は元気よく頷いた。そして僕を否応なしに様々なコーナーへ引きずり歩いた。
僕はファッションにはほとんど無頓着だから、彼女がどうしてこうも楽しそうなのかと疑問に思うばかりだった。それでも、目の前にいる人が楽しそうだという状況は悪いものではなかった。
「あっベレー帽。どうだろう似合うかな?」
「僕は服のセンスとかはないから」
「拓也くんの意見が聞きたいんだけどな」
はぁと溜め息を漏らしながら、答える。
「どっちかといえば、似合うと思う」
「どっちかといえば、かあ」
そんなことを何度も繰り返しながら、結局何も買わずに出て行くときはお店に対する罪悪感さえ抱いた。
「あんなに試着したのに、買わないの?」
彼女は一切の嫌味もない、暖かい笑顔になった。
「きみ、ほんとにファッション関係のお店に興味なかったのね」
セリフと表情が一致していなくて、けれどこの違和感にもさすがに慣れてきた感じがする。
彼女はそういうことの多い人なんだと割り切れば、割り切れるものなのだ。
洋服を買わずに彼女が向かったのは、何と店からちょっと歩いた所にあったソフトクリームの屋台だった。
「えっまた甘いもの食べるの?」
と僕が言うのを無視して、彼女は一つ牛乳ソフトを買った。
「きみも食べなよ、美味しいよ」
目の前で食べられると俄然欲しくなってきて、結局僕も買った。
「これ食べながら歩こう!」
もはや彼女の提案に反対することは、どのタイミングでもできないのだろうと思った。いちいち彼女の挙動を疑いの目で見るのも億劫というより、無意味だと考えるようになっていた。
それから、よくもまあこんなに思いつくなと驚くほど、彼女の「次」は続いた。
「次はね、古本屋だ」
「次はーあそこの公園行こう」
「休憩終わり、次はあそこの駅ビル!」
こんなに一日で歩くのも何ヶ月ぶりだろうというレベルの運動頻度なので、僕の脚はそろそろ悲鳴をあげている。
でも、疲れたから座りたいとは言わなかった。あまりにも彼女が楽しそうにしていたから。
いや違う。僕もきっと、楽しんでいたのだ。説明はつかないけれど確かに目の前にある、このゆったりとした時間を、じんわり噛み締めている自分が確かにいた。
「——疲れたでしょ?」
彼女の指差した駅ビルに向かう途中、そう尋ねられた。
「いやそんなことないよ」
「ごめんね、色々私の都合で振り回しちゃってさ。次のとこで最後だから!」
最後。
唐突に真面目な声色で放たれた言葉は僕の胸の底にずっしりと沈み込み、びくとも動かなくなった。
なぜだか分からないけれど、僕はこの人と別れるとしたら、それは寂しいような気がしてきた。
おかしいだろう、つい数時間前にいきなり話しかけてきた人だぞ。
自分に言い聞かせようとしても全く無駄だった。冷静に筋道立てて考えようにもある一定の段階で、霧のようにふわっと、全部消えてしまうのだ。
「ここのね、最上階に行くから。エレベーター使って行きましょ」
そのビルの最上階には、展望台があった。僕も何度か来たことがあって、このあたりでは一番高く見晴らしが良いことで有名だった。
二人でエレベーターに乗り、展望台に着いた。
「うわあ」
その景色を見るまで僕は、いつの間にか時間というものを全然意識していなかったことに気づいた。
そうか、もうすっかり夕方になっていたのだ。
太陽が沈みかけていた。高くても三階建てほどの建物が手前を埋め尽くし、奥まで目をやるとうっすら、緩やかな山々が見える。夕日は今、山肌に触れそうで触れない所で細かく揺れていた。
街中がオレンジ色に輝く景色は大きなガラスの枠に縁取られ、絵画のような美しさを創り出していた。
「綺麗...!」
これまでずっと喋りっぱなしだった彼女が、初めて言葉を失ったように思えた。
ふと横を向けばもういないのではないかと不安になるほど、彼女は静かになった。僕は夕焼けの景色から目を離せずにいたが、同時に彼女も視界から外さないようにしていた。
「ねえ、」
彼女の澄ました声に、僕は振り向いた。眼が太陽の光を受けて茶色がかっている。
「天気雨ってどうして降るか、考えたことある?」
急に、予想もしなかった質問だ。僕は首を横に振った。
「あれって不思議じゃない?私はあるんだ。ほら、よく雨が降ると『空が泣いてる』とか言うでしょ?」
「は、はあ」
「だとしたら、晴れてる時はその逆で、空が笑ってるとも言えるよね?」
それは聞いたことがないが、理屈には納得できなくもなかった。
「確かに、そうかも」
「だとしたら、天気雨って空が晴れてるのに雨が降ってることだから、空は笑ってるのに泣いてることになる」
彼女は言葉を選ぶように間を置く。
「つまり、嬉し泣きなんだよ。空が嬉しくて笑いながら、涙を流してるってこと」
何だか、いかにももっともらしい言い方だった。僕は思わず、というか無意識に、うんなるほどと頷いていた。
「ほら、こんな話してるうちにまた降ってきた」
落ち着いた声で彼女は言った。外を見ると確かに、キラキラと空中に細かく光るものが現れては消えていた。
僕は数秒それを眺めて、あっと思い出したように彼女に目を向けた。
彼女はもちろん消えてなんかいなかった。その代わり、すごく寂しそうな笑顔を見せた。
「もうそろそろなんだよねー」
これまで話してきたのと同じ声だった。拍子抜けするほどあっさり、彼女はなぜか無性に悲しくなるようなことを言った。
良い夢を見ている時に目覚ましの音が聞こえてきたような、突然時間がぶつ切りにされるような感覚を、僕は味わった。
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