第2話
分からない。
ここに至っても、何一つ理解できていないままだ。
たどり着いたのは僕も気になっていたカフェで、昔からレシピの変わらないプリンが人気の老舗だった。
だがこんな形で初めて来ることになるとは。
彼女は僕を引きずりこむようにその店に入ると、迷いもせず窓際の席に座り、定番のプリンを二つ注文した。
「やっと来られたねえ、ここのプリンがどうしても食べたくてさ」
「は、はあ」
どこか夢の中のような非現実感を拭きれないまま、僕は間抜けな返事をした。
「甘いものは、好き?」
かすかにレモンの味がするお冷を飲み込む。
「はい、どちらかといえば」
「嫌だなあ敬語はやめてよ、私たち同い年なんだから」
「ど、どうして同い年だって」
「今大学二年生?」
二本指を立てて彼女は聞いてくる。
「はい」
「じゃあ同い年。ほら、タメ口で良いから」
頑なに断るほどの理由はないと思った。巧みに彼女のペースに乗せられている感覚はあったが、僕は言われた通りにすることにした。
「わ——分かった」
「ぎこちない!」
何がそんなに面白いのか吹き出して笑う姿に不気味ささえ感じ、鳥肌が立ち始める。
「何なんです——」
彼女は大げさに咳払いする。
「——何なの、そのからかう姿勢は」
「からかう訳じゃないよ、でも同級生と話すとき、いつもそんな感じなの?」
「そんなことないって、学科同期とはもっと普通に喋れるよ。ただ今回はその、状況がよく分からなくて」
首を細かく振り、「ダメだなあ」と呆れる顔。
「きみの悪い癖は多分、何でもかんでも考えすぎることだよ。人生はもっとシンプルにできてるんだから、いくら考えたって無駄なこともあるし」
僕と同い年のはずのあなたが人生の何を知っているんだ、と思わなくもなかったが、大人しく聞いていることにした。
「とりあえず今は、目の前にあることだけを考えてれば良いんじゃないかな?」
「目の前にあること?」
「きみの前には私がいて、私の前にはきみがいて——」
そのタイミングで、店員がプリンを運んできた。
「私たちの前には、美味しそうなプリンがある。ね、肩の力抜いて考えれば簡単でしょう」
「は、はあ」
本日二回目の間抜けな返事が出た。
いかにももっともなことを言うトーンで、何の中身もないことを語ってやしないか。僕はただけむに巻かれているだけなんじゃないか。きっとそうだ。
それでも反論できない、というか反論を許さないような説得力が、彼女の言葉にはあった。
確かに運ばれてきたプリンは美味しそうだった。市販のものより一回り大きく、皿まで垂れたカラメルが独特の光沢を放っている。カラメル部分の上には真っ白のホイップクリーム。
「じゃあ」
彼女が手を合わせると、僕もつられて同じようにしてしまう。
「いただきます」
「いただきます」
固めでほんのりと卵の味がする、絶品のプリンだった。
これまで安物で満足してきた僕にとっては思いのほか新鮮な感動で、つい顔が綻んでしまうのも結局は隠しきれなかった。
その笑顔が漏れてしまうのを見つけるたび、彼女はさも可笑しそうにニヤリとする。それだけが無性に気に食わなかった。
プリンを食べながらする話は、本当に他愛もないものばかりだ。
「拓也くんは理系だよね?」
「——文系だけど」
「コーヒーはブラックだ」
「いや、ほとんど紅茶しか飲まなくて」
「目玉焼きには、醤油!」
「あ、僕も醤油だな」
「おー、これはおんなじ」
常に噛み合わないような、でも時々妙にしっくりくるような、内容はいたって日常的な会話だった。
プリンの最後の一口を食べ終わると、彼女は突然立ち上がった。
「え?」
「よし、じゃあ次」
「つ、次?」
唐突すぎて言葉の意味を理解できなかったが、とにかく彼女が席を引いて店の出口に向かい出したので、僕も従わざるを得ない。
「次は、洋服屋さんで」
「は、はい?」
むしろ僕の反応に戸惑う様子で、彼女は眉をハの字にした。
「分かった、プリンのお金私が全部払うから!」
「いやそういう問題じゃなくて」
「じゃあ、どういった問題でしょう」
身を乗り出して詰め寄られると、僕もすぐには答えられない。
「あれだよ、その、そろそろ必修の講義の時間が迫ってて——」
これは本当のことだった。二限は欠席できるが、これから三十分後にある三限のドイツ語演習は必修だ。これは二回欠席するだけで単位を落とすという、なかなか厳しい授業だった。
「ええ?まだ大学のこと考えてるわけ?」
明らかにがっかりした声。そんなにまずいことを言ってしまっただろうか。
「ご、ごめんなさい、これ一回でも休むと相当響く授業で——」
彼女の顔が一瞬だけ、すっと寂しそうに翳った。
しかしすぐに仕方ないか、と吹っ切れたような笑顔になった。
「そういう真面目さが、拓也くんってことだね」
はいともいいえとも答えづらい言葉だった。ただ、彼女は元々返事を欲しがっていないように見えた。
どうしてか急に、申し訳なくなってきた。
「あっ」
ポケットのスマホが震えた。慌てて手を突っ込んでから迷ったが、彼女はうなずいた。
「ごめん、ちょっと」
メールの着信だった。なるべく速くメールのアイコンをタッチする。
本日三限 ドイツ語演習Ⅱ 志田教授急用のため、臨時休講とします。
目を見張った。その一文だけがまず目に入ってきて、読み取った瞬間に僕は彼女の顔を見た。
「えっと」
「——どうかしたの?」
純粋に僕の驚きようを見て不思議がっているようだった。
こんな偶然があるものだろうか。「何事も計画性が第一だよ」と口癖のように言う志田教授に限って、直前に休講の発表なんて。
何か彼女が得体の知れない力でも使ったんじゃないか。
あまりにも現実感がなくて、そんなことまで考えついてしまった。気を取り直し、僕は笑顔を作る。
「必修の授業、たった今なくなった」
「え——なくなった?」
これはもう、彼女に逆らう理由を失ってしまった。
「じゃあ——」
高揚を抑えきれない彼女の声に、僕は俯いて溜め息をついた。
彼女はどういうわけか、それをオッケーのサインと受け取った。
「よし!じゃあ洋服だ!」
嬉しいとかほっとしたとか、決してそういうことはなかったのだが、店を出てからは知らぬ間に、僕も彼女と同じくらいのペースで歩き始めていた。
彼女がスキップみたいに飛び出した店の外で、雨はもう降り止んでいた。
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