天気雨の天使
すずき
第1話
僕の人生において大切な日には、だいたい雨が降っていた。
多分これが、世に言う雨男の性質なのだろう。さすがに二十歳の誕生日くらいは晴れてくれるだろうと能天気に思っていたし、天気予報でもそう言っていたのに、結局はこの通り。見事に雨が降りだした。
しかも今回、空は晴れたまま。五月にしては強く太陽の照りつける通学路の途中で、大粒の天気雨に襲われたのだった。
傘なんて持っていない。ここまで意地みたいに降られるとは、さすがの僕も思い至らなかった。
水たまりができていない所を、選んで歩く。今日に限って底の剥がれかかったボロ靴を履いてきたから、なんてことのない道も悪路に変わるのだ。
誕生日がもっと特別なイベントだった時期はとうに過ぎたし、平日の昼間からぼんやりした頭で講義に出るのもいかにも大学生の日常らしくて、良くも悪くも普段通りの一日で満足する準備は十分にできていた。
しかしこの雨は、今日のマイナスポイントだ。天気が悪いだけで気分が下がるのは避けられない。
僕の家から大学までの道は、坂だらけだった。山の中にある大学までハイキングまがいのことをして二十分、中途半端に徒歩で行ける距離なので混雑する駐輪場を使う気にもなれず、今日も歩いて行くことにしていた。
その道を結構進んだ地点で降られてみると、いっそ自転車を使っていれば良かったと後悔してしまう。
アスファルトの坂道の他にあるのは、歩いて約十二分地点のところにある大きな橋だけだった。ここを越えれば最後の関門・一番傾斜の大きい大通りがあり、校舎が構えている。
あと少し。橋とラストの坂だけ。
天気が良ければ、僕はこの橋から見える山の景色が好きだ。右を見れば雄大な峰があり、左には田園や家が森と共生するように広がっている。橋を境に、左右で世界が違う気がしてくるような、不思議な場所。
今は天気雨のせいで、より神秘的な雰囲気が出ていた。
傘さえ持っていれば。あんな所にキャンパスがなければ。溜め息をつきながら、校舎の方を睨みつけてペースを早める。
僕がその立ち姿に気づいたのは、もう濡れてしなしなになり始めた靴紐を結び直し、再び立ち上がった時だった。
——あの人、さっきまでいたっけ?
小さな疑問に付き合っている暇はなかった。しかし数秒間だけ、やけに僕の頭にはその存在が引っかかった。
道ゆく人々の中で当の女性だけが、傘を持っていたからかもしれない。薄いピンクの、すらっとした彼女には少し大きめな傘だった。
突然の雨なのに、どうして折りたたみでもない傘を持っているんだろう。
些細な引っかかりだった。だから僕は最初、ただその横を通り過ぎるために歩調を早めようとしたのだ。
だがある違和感が、僕の歩くスピードをむしろ遅くした。
彼女、僕の顔から目を離さないような気がする。
気のせいだと思い込みたくて、しかし近づくうちにどうにも思い切れなくなってきた。
彼女の方は歩いていない。大きな幅のある橋の、僕が歩くラインに立っていて、傘を肩にかけるようにさしていて、やはりこちらを見ている。
白のワンピースというか僕には正式名称のよく分からない、しかしともかくフォーマルなドレス風の服を着ていて、この辺りの風景からはどこか浮いているように見えた。
まさか、何か怪しいことを話しかけて来るわけじゃあるまいな。何かの勧誘だったらどうしようか、もう狙いを定められているようだし、逃げるのに都合が悪すぎるが——。
とにかく話しかけられないようやり過ごそうとしたのだが、数メートルのところまで近づいた時、僕の心を折る声が聞こえた。
「おはよう、久しぶり!」
まず笑顔で、まるで待ち合わせしていたかのような自然さで話しかけられ、これは危ないタイプの人だと僕は判断を下した。
——先手必勝。
「あのすみません僕いま急いでるので」
「あ、ちょっと待ってよ清瀬拓也くん」
その一言で、僕は突然ビンタされたような衝撃を受けた。びくんと体が硬直する。
それは僕の名前だ。
恐る恐る、その女性の顔を見てしまった。
くっきりした二重の目、ショートボブにまとまった真っ黒の髪、さりげなくきらりと光るネックレス。
遠くから見た時の何となくの印象より、はるかに若く見えた。もしかすると、僕と同い年くらいかもしれない。
でもこんな人と僕は知り合った記憶がない。
「どうして僕の名前を」
「そんな顔してるから」
ただ僕は固まって、彼女の顔から目を離せない。
「なんかごめんね突然」
心底残念そうにそう言うのだから、本当は昔の知り合いなのかもしれない、と一瞬は思った。
彼女は言った直後になぜかしまったという顔をし、慌てて続ける。
「まあとりあえずさ、行こう」
「はい?」
「出かけよう拓也くん、まずは駅前のカフェからね」
状況が把握できなかった。質問がこうも次々湧き出てくると、人はその一つも口に出せなくなるのかと思った。
「あの、僕これから授業があるので」
「そんなの休んだら良いじゃん、今日は特別な日でしょう?」
言いながら彼女は、僕に向かって一歩踏み出してきた。
そこで逃げも引きもしなかったのはなぜか、思考が固まっていたからなのか、彼女の振る舞いに怪しさを全く感じなかったからなのかはよく分からない。
気づけば、僕は彼女の傘の下にいた。
今まで雨が肩や髪を濡らしていた代わりに、パラパラと心地よい音が耳を刺激する。
「こうすれば晴れ」
僕に言ったというよりは、彼女の独り言に聞こえた。でもどうしてか、心の落ち着く響きだった。
そうだ。確かに空は明るいし、雨に濡れさえしなければ今日の天気は晴れと同じような気がしてきた。
「はい、駅前のカフェ!行ってみよう!」
そんなはずはないのに、彼女は僕と元々ここで会う約束をしていたかのように振る舞った。あまりにも違和感がなくて、僕の方が何か忘れているんじゃないかとまで考えてしまった。
単なる彼女の演技力ではなくて、彼女の持つ独特の雰囲気がそうさせているのだと思う。
だからと言ってここでついて行く理由には何もなっていないのだが、僕は実際彼女に従うことにしてしまったのだった。
「あ、あの分かりました、分かりましたけど、あなたはその——どなた、ですか?」
彼女は当然、と言わんばかりの屈託のない笑顔で答えた。
「きみの知らない人だよ」
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