3月9日(本編第11話後)


 「ありがとうございましたー。」

 

 お釣りは……と。

 うん、あってる。

 こないだ、千円札を出したのに、八千円返ってきてびっくりしたから。


 3月、9日。


 レシートの上に、

 レジの人と並んで打たれている印字。


 中学だと、卒業式、か。


 くしゃっと丸めそうになったレシートを、丁寧に伸ばし直す。

 クレジットカード払いじゃないから、エクセルに入れ直さないと。


 雪化粧に覆われた山。

 ところどころ割れた路。

 ガードレールに積もった雪、鉛色の側溝。

 枯れ掛けながらに雪に耐えるススキ達。


 まだまだ、寒い。

 吐く息が、遠くまで白い。

 コート着てても、耳たぶは刺すように冷たい。


 早く、帰ろう。

 ……荷造りも、していかないと。



 「柚葉さん。」


 

 あ。

 車の中の、純白のマスクの先に。


 薄くなった白髪、太い黒縁の眼鏡。

 紺のボウタイにカシミアのカーディガン。

 

 たしか、柏木、さん。

 有樹おじさんの、上司の方。

 あの夜に、車を廻してくれた方。

 

 「……こんにちは。」

 

 スーパーで、逢うはずのない方だけど。

 家、駅の反対側のはずだし。

 

 「乗って行かれますか。

  寒いでしょう。」

 

 「い、いえ。」

 

 五分もかかりませんので。

 

 「行き先は同じですから。」

 

 え。

 やっぱり、最初から。

 

 「ふふ。

  お乗り頂けますか。」

 

 「は、はい……。」

 

*


 温かい車内で、思わず身体が緩んだ。

 意地を張らなくて良かった。柏木さんは、あの人達とは違うはずだから。

 

 車が、滑るように、すぅっと動き出す。

 歩くのが、ばからしくなるくらいに。

 ちゃんと空気を循環させているのに、温かくて、早い。

 有樹さんは車、乗りたがらないけど。


 「お買い物ですか。」

 

 すこし低くて、小さいのに。

 マスクの中からなのに、響く声。


 「は、はい。」

 

 150円くらいしか使ってない。

 外に出るのことに、ちょっとずつ、慣れようとしているだけ。

 仙台に行ったら、ぜんぶ、一人でやらないとだから。

 

 ……仙台に、か。

 

 「ふふ。

  柚葉さん、端正で可憐なお顔立ちになられましたね。」

 

 ぇ。

 

 「合格、おめでとうございます。」

 

 え。

 どうして、知ってるの?

 

 でも。

 喜んで、くれてる。

 ミラーの先で、眼鏡の奥から、優しく、微笑んでくれてるから。

 

 「……ありがとうございます。」


 本当に受かると、思わなかった。

 受かって、良かった。

 ……ほっと、した。


 「竹内君は、

  より倍率が高そうですが、大丈夫ですか。」


 ……あはは。

 たしかに。


 「やります。」

 

 「……ふふ。

  竹内君は、年齢差を気にするでしょうから、

  貴方が大学で同世代の異性と接触し過ぎると身を引くと思います。

  不自然にならない程度に注意を払ってください。」


 あ。

 そういうことも、あるのか。

 

 確かに、有樹さん、考えそう……。

 考えなくていいのに、っていうこと、考えるから。


 「ありがとうございます。」

 

 「……聡子さんは、

  復縁に向けて本格的に動き出しておられますが、いかがですか。」

 

 ……やっ、ぱり。


 聡子叔母さん、有樹さんとホテルで話した時、声が弾んでて。

 隠そうとしても、身体中が嬉しそうで、歓びに溢れてて。

 息も、心も、ぴったりで。


 聡子叔母さんと有樹さん。

 子どもの頃に、わたしが仰ぎ見ていた、理想の夫婦。


 収まるんだと。

 収まったままのほうがいいと、分かってるのに。


 譲るつもりでいたのに。

 いつでも、譲れるつもりでいたのに。

 あの日、有樹さんが呼んでいたのは、聡子叔母さんの名前なのに。


 「…………

  別れたく、ありませんから。」


 嫌だ。

 絶対に、嫌だ。

 離れたく、ない。


 あの日から。

 真夜中に、情けない身体を、抱かれてしまった時から。

 

 有樹さんの匂いがしないと、呼吸が、出来ない。

 悪夢を見続け、頭の芯が揺らぎ続け、

 震えながら嘔吐き続ける日々に、戻りたくない。

 

 隣にいたい。傍にいたい。

 汗が飛び散ってくる場所に。

 息使いを、鼓動を、生を感じられる場所に。


 「……ふふ、そうですか。

  大丈夫です。貴方のほうが、分がありますよ。」

 

 ぇ。

 

 「……そう、でしょうか。」


 五年間、一緒に暮らしていた夫婦。

 嫌い合って別れたわけじゃない、会話と笑顔の絶えない夫婦。

 聡子叔母さんのほうが、絶対に有利なはず。


 「聡子さんには、竹内君に、そして貴方にも、ご遠慮がおありでしょう。

  何より、貴方は、向こう仙台でも、竹内君と一緒にお住まいになられる。」

 

 「……はい。」


 「カシアス・クレイ。」

 

 ……?

 

 「ふふ。

  お若い方は、ご存じないでしょうね。」


 「す、すみません。」

 

 慣れてます。

 ふだんから無知な奴だと良くなじられてますから。

 

 「いえいえ、とんでもない。

  竹内君は、仙台では、難しいポストに配属されます。

  帰りが遅くなることも、土日が潰れることも、珍しくないでしょう。」

 

 「……はい。」


 そっちのほうが普通なんだぞと、聞かされてる。

 ほぼ毎日。タコができるくらい。


 「竹内君も、遮られることを嫌います。

  流れに逆らわないようにして下さい。」

 

 「……はい。」

 

 ……夜に帰った時に、鍵を開ければいいのかな。

 

 「仕事の話は、聞いて理解しておくと同時に、

  聞かれない限りは、話をしないことです。

  手伝えることを、分からないように手伝って下さい。

  少し遅れて気づくはずですから。」

 

 ……なんとなく、分かる。

 有樹さんは、ちゃんと、気づいてくれるから。

 

 「柚葉さん。

  竹内君の前で、蝶のように舞うのですよ。」

 

 ……ぇ。

 

 「彼が貴方だけを見ている間は、

  羽を休めて、掌に収まっていてあげなさい。

  他の蝶に目移りしたら、即座に飛び立つのですよ。

  見えるように、目立つように、簡単には捕まらないように。」

 

 ……ど、どういうことだろ。

 

 「ふふ。

  常に貴方に意識を向けさせておく、ということですよ。

  できますか?」

 

 「……やります。」

 

 やらないと、聡子叔母さんの元に、戻ってしまうだけ。

 心を、奪わないと、いけないから。

 

 「それは頼もしい。」

 

 ミラーの先から覗く、年輪を重ねてきた瞼の中の瞳が、優しい。

 でも。

 

 「……柏木さん。

  どうして、わたしに、お話して下さるんです?」

 

 「……贖宥行為、でしょうか。」

 

 ? 

 な、なんて言ったんだろ。

 息、掛からないようにだと思うけど、

 前、向いてくれてるから、聞き取りづらくて。

 

 「……ふふ。

  これでも、気に入っているのですよ。

  あの青年を。」


 え。

 31歳って、青年、なのかな。

 有樹さん、喜ぶかな、哀しむかな。


 「さ。

  ……着きましたよ、お嬢様。」

 

 あ。

 そ、そっか。

 送って貰ってたんだっけ。

 

 ドアを開けると、寒空の先で、

 あるじを待つ家の門が、寂しそうに雪を頂いている。


 ショップバックを左手に掴みながら、

 右手でバタンとドアを閉め、運転席に一礼する。

 柏木さんは、黒縁の眼鏡を光らせながら、正面を向いていた。

 クラクションの音と一緒に、柏木さんは、私の感覚から消えていった。


 ……さ。

 寒い、な。

 暖まってきちゃったし。

 

 ……忘れ物、ないよね。

 さすがに、取りにいけない。降りる前に気づけよ、わたし。


 ……鍵は、と。

 あった。はやく



 「柚葉。」



 ぁ。

 

 「……有樹、さん。」


 アクアキュータムのブラックトレンチコート。

 精悍な頬。奥二重の瞼の下の、目力の強い瞳。

 本当のことしか言えない容赦ない唇は、コートとお揃いのマスクに隠れていて。


 「買い物の帰りか。」


 力強い声を聴くと、掴まれたように、鼓動が激しくなる。

 見つめられると、身体の奥底から暖まる。


 気づかないで、欲しい。

 気づいて、欲しい。

 

 「……うん。」

 

 「ああ。

  おめでとう、柚葉。

  本当に、良くやったな。」

 

 知って、たんだ。

 そういえば、柏木さんも。

 

 「……ありがとう。」

 

 一緒に、住める。

 電話口では感じなかった歓喜が、

 内側から、溢れるように湧き上がってくる。

 

 あ。

 やって、みよう。

 

 ……えいっ。


 「!」


 奇襲、成功。

 うまく、左腕に抱きつけた。

 えへへ。


 整髪料の先で、有樹さんの、匂いがする。

 力強い鼓動が、聞こえる。

 世界で一番、わたしが落ち着ける場所。


 「な、なんだよ。 

  ど、どうした、柚葉。」


 見上げた先で、精悍な瞳が、戸惑っている。

 あはは。泣いちゃ、だめなのに。


 「か、帰ろ?」


 可愛い。

 いとしい。


 有樹さん。

 私の、有樹さん。


 「あ、あぁ。

  って、そこだろうが。」


 カシアス・クレイ。

 効果、ありそう。

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妻を上司に寝取られた俺は、左遷先の街で姪っ子? を育てる @Arabeske

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