最終話 【零式自立感覚絶頂反応】ASMRを聴いているときにイヤホンを落としてしまったのだけれど
6
と、俺は天ヶ崎さんと一緒にブースを回った。
のだけれど――。
「しくじったぁ……」
よりにもよって、連絡先を聞き忘れるとは。
ゴールデンウィーク明けの月曜日。
朝から快晴なのはありがたいけど、胸に広がるどんより雲を意識せざるを得ない。
周囲を歩く同じ制服の人たちも、同じような表情に見える。
連休明けの憂鬱。
毎年のようにASMR音声世界にダイブしていたのならまだしも、今年は違う。
同じ熱を持つ三次元の女性と、話してしまった。
天ヶ崎さんは今頃、大学で講義でも受けているのだろうか。
サンプルディスクや冊子をたくさんもらって、お互いカバンはパンパンだった。
あまりにも楽しくて。
あまりにも非現実的すぎて。
終始、フワフワした感覚に包まれていた。
なのにもう、ほとんど覚えていない。
刹那過ぎて。
あっという間で。
まるで俺だけの濃密なASMR音声世界が広がっていたかのようだ。
もしそうなら、何度だって天ヶ崎さんと会えるのに。
それを否定するのが、残高が減っていたICカードの存在だ。
無機質な記録。
せめて、スマートフォンに天ヶ崎さんの連絡先が登録されていればよかったのに。
(もう、会えないよなぁ)
有機的な思い出が欲しかった。
出会えたのは奇跡みたいなもんだ。
新作披露会も当分ない。次の披露会に彼女が行くかもわからないし、仮に行ったとしても広い会場でそう都合よく出会えるわけない。
「はぁーあ」
清々しい太陽が憎たらしい。
やがて校門が見えてきた。
向かいの道路からも次々に生徒たちが校門をくぐっていく。
あの時は、これ以上の人混みだったな。
と――。
「……っ!?」
「え…………」
向かいの道路を歩く人混みの中に、天ヶ崎さんがいた。
俺は思わず足を止める。彼女も同じだった。パッチリした両目を見開いている。
すぐ脇を次々に生徒たちが通り過ぎていく。
彼女は制服姿だった。
あの時と同じ、肩までの黒髪セミロング。今日は花をあしらったカチューシャをしている。
黒ブレザーにチェック柄のプリーツスカート。
紺のクルーソックスのおかげで綺麗な両脚が朝日を受けて瑞々しく輝いている。
胸元には赤紐のリボン。左右の輪っかが綺麗に均等だった。
天ヶ崎さんは目を丸くしたまま、軽く手を振った。
俺はぎこちなくそれに応える。
「驚いたぁ。まさか同じ高校だったなんて」
「えっ、ええ。てっきり大学生とばかり」
「まあ」
天ヶ崎さんはうっとりと頬を上気させた。
すぐに俺たちは学年を確認し合う。天ヶ崎さんは俺の一つ上の三年生だった。
「二年生かぁ。いいなあ」
天ヶ崎さんはプクリと頬を膨らませる。
「それより、この前は楽しかったね」
「ええ。とても」
「私ったら、ゴメンね。色々連れまわしちゃって。妹に試してみたいサンプル、たくさん見つけちゃって」
天ヶ崎さんはクスリと笑う。太陽のような眩しい笑顔だった。
あの時の会話を思いだす。
妹がいて、気持ちいい音を見つけては日々試していること。
将来の夢がASMR音声メインの声優であること。
しかし両親に反対されそうで、相談できないこと。
「進路相談、早速始まるんだよねぇ」
「確かに、説明が難しいかもですね」
それでも俺は、あの時の雰囲気を思い出し、続ける。
「天ヶ崎さんがしたいことを、僕は応援しますよ」
「芥子山くん……ありがと」
俺と天ヶ崎さんは並んで昇降口まで歩く。
「えっと、その……この前連絡先訊こうと思って……」
「そう! 私も思った! すっかり忘れちゃったよね」
「あっ、あと! 今度、もっとASMRについて、その……話しませんか!」
「もう! 相変わらず固いなあ芥子山くんは。いいよ。あっ、そうだ!」
天ヶ崎さんが俺を追い越し、くるっとこちらを向く。
フワリと舞ったプリーツスカートが膝上で揺れる。
「試したいツールあるんだよねえ。もしよかったら、付き合ってもらってもいい?」
「はっ、はい! 是非、なんでもこいです!」
心地よい天ヶ崎さんのボイスが、俺の耳奥をくすぐった。
完
ASMRを聴いているときにイヤホンを落としてしまったのだけれど 向陽日向 @kei_ichi
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