第5話 【超絶人混み】これぞまさに、ASMR!
5
「いやいや、やっぱりムリ」
俺は大勢の人々が巨大な建物に向かって歩を進める光景を眺める。
流れの端っこに逃れ、やっぱり帰ろうかと踵を返そうとする。
「でもなあ、イベント限定ASMR音声サンプル、欲しいしなぁ」
思い切って来てみたASMR新作音声披露会の会場。
五月のゴールデンウィーク最終日。
華の連休だけど特に予定もなく、朝からASMR三昧だった俺だけど、参加を決意したのは昨日のこと。
大好きな制作サークルの新作が一挙に発表されたのだ。
その中にはヒナさんのキャラクターボイスを担当した声優さんの新作も含まれていた。
他の声優さんと共演するものもあった。
そして、限定サンプルをイベントで配布するという、神イベントの告知を目にしてしまった。
これは行くしかない。
『きみがきてくれるのを~~、まっているよ☆』
ヒナさんの囁きが脳内を揺らした。
これこそ神のお告げ。
一瞬でもヒナさんと触れ合った俺が行かないわけにはいかない。
そしていざ、やってきたはいいけれど、
「やべっ、帰りてぇ」
あまりにも人混みがきつすぎて、早速挫折寸前である。
しかし、諦めるわけにはいかない。
「サンプルだけもらって、とっとと帰ろう」
*
と思っていたけど、
「どうぞ~! 声優〇〇様の新作ASMR音声でーすっ!」
「炭酸泡と耳かきに特化した新規サークルで~す! サンプル配ってまぁす♪」
「囁き声マニアの方に、いい作品ありますよ~」
あるわ。あるわ。あるわ。
こっちも、あっちにも。
まるで天国だった。
通路の脇にブースを構える数多の制作サークルたち。
立ち止まって、サンプルを聴き込む来場者たち。
モニターに流れる録音風景。
数百万円もする高級マイクによる録音体験をする数組のカップル。
ヘッドホンをして、ASMRと連動した冊子を読みふける若い集団。
どこを見渡しても、ASMR音声に関連したコンテンツしかない。
何だか不思議な気分だった。
ここにいるのは名も知らぬ、素性も知らない人たちばかり。
しかし、ただ一つの共通点がある。
それはASMR音声が好きだということ。
同じものが好き――ただそれだけだ。けど、それ以外、なにもいらない。
俺にとってこの空間こそ、ASMRに他ならないからだ。
勇気を出して、ここまで来てよかった。
「よしっ」
俺は気合を入れ、自分の中のASMR音声アンテナをフル稼働し、見逃しがないように通路を突き進む。
まずはヒナさんの声優の新作チェックだ。
パンフレットを確認し、場所を確認する。
そのとき、たくさんの人が通路奥からやってきて、すれ違う。
俺はカバンを引いて、スレスレで通過する。
「あらっ!」
「えっ」
すれ違った女の人のイヤホンが、ポロッと外れて俺のカバンの上に落ちた。
女の人はそのまま多くの人の波に流されてしまう。
俺は口を開いた。
「えっと、すぐに! すぐに……えっと」
いきなり喉を震わせたのだから、声が出るはずもなかった。
やがて俺も、背後からやってきた人の波に押されていった。
*
「ふぅ。ごめんなさい。イヤホンありがとうございます」
「い、え……その」
今度は緊張で声が喉奥に引っ込んでしまう。
人波に押された後、何とかイヤホンを掌で包んだ。
来た道を戻っているとき、同じように戻ってきた先程の女性と再会できた。
イヤホンを返すためとはいえ、初対面の女性を前にするのは気まず過ぎる。
「すごい、人、いますもんね」
「そうですね! いくらなんでも、イヤホンは外すべきでしたね」
女性は受け取ったイヤホンを専用ケースに入れて、肩掛けカバンにしまった。
その仕草に、俺の心臓はドキンと高鳴った。
すごく美人だったからだ。
絹糸のような艶めいた黒髪セミロングが肩にフワッとかかっている。
赤縁メガネをかけた凛とした表情。
大人びたピンク色のブラウスと膝丈の純白のスカート。
スラリと伸びた両脚は黒タイツに覆われ、照明を魅惑的に反射している。
赤スニーカーを履きこなし、軽く爪先をトントンとする動作が、俺の鼓動をさらに速くした。
こんな綺麗なひと、初めてみた。
歳はどのくらいだろう。若そうだけどコーデは少し大人な感じ――大学生くらいだろうか。
「きみも、ASMR音声好きなの?」
「ひぇっ!?」
声が暴発して、上擦る。
きみ――その呼び名は、ASMR音声では定番だから。
音声世界に入り込む魔法の言葉。
そして――ヒナさんが俺を呼んだときと同じセリフ。
「そ、その……」
言葉を捻り出そうとするも、唇が真一文字になって出てこない。
その間も、美人な大学生風の女性は俺に視線をやって離さない。
「は、はい。好き――いや」
言おうとして、一旦飲み込む。
「ん?」
大学生風の女性は、不思議そうに首を傾げた。
あの時、ヒナさんが俺に言ってくれた言葉を思い出す。
覚悟を決めて俺は言い放った。
「大好きですっ!」
「……っ、……ふぇっ?!」
女性はびっくりした表情を浮かべ、口元に手をやる。
マズい。何だか告白したみたいになってない?
「ああいや、いや! いやいや! そうではなくて、その、えっと……」
言葉が渋滞。のち、大混乱。空中分解し出す。
要領をえない言葉たちが溢れ、頭がパニックになる。
「うっふふ」
と、慌てふためく俺の前で、女性は、クスリと笑った。
「私も、大好きなんですよ。ASMR音声」
「あっ、そうなんですね! あはは、良いですよね……」
ふう。何とか誤解されずに済んだようだ。
「まさかこんなに人多いとは思わず、びっくりしました」
「えっ、ええ。ですよね。俺も――ああいや、僕も驚いています」
「そんな固くならなくていいのに」
女性が屈託ない笑みを浮かべる。
固くなるなってのが、色々な意味で難しい。
「あの、もしかしてお一人ですか?」
「ええ。そう、です。あはは。クラスに同じ趣味のひといなくて」
正確に言うと、周囲の趣味など知らないのだけれど。
「私も学生なんですよ! いないですよねえ。私も同じです。えへへ」
「で、ですよね! まだまだマイナーなんですかね? ここ来ると全然そんなことないのに」
あはは、と笑う俺。
スムーズに流れる言葉に、自分で面食らう。
「ですよね。あっ、それなら一緒に回りません? 私も一人なんで」
「えっ――」
ええええぇぇぇぇっ!
『消極』を体現する俺なんかと?
答えあぐねていると、女性が指同士を合わせて、上目遣いでこちらを見つめる。
「……迷惑、ですかね?」
「あっ、いや! そんなこと、ございませんともっ!」
「良かったぁ!」
女性がホッと胸を撫で下ろす。
俺の胸は爆発寸前。
「じゃあ早速、行きましょうよ。あっ、どこか見たいサークルさんとかありますか?」
「えっと、それなら――」
俺は大好きなサークルの、ヒナさんの声優さんの新作をチェックしたいと言った。
途端、女性の表情が華やぐ。
「あのサークルさん、私も好きです! 声優さんもいいですよね~」
「ですよねですよね。最高ですよね。さいこうですもんね。サイコーしかないですよね」
思いが臨界点を迎え、ついに俺は壊れたラジオと化した。
「それなら――」
女性はパンフレットを眺める。
細くて綺麗な指が、紙面上をあっちこっちへ行く。
その軌跡が、七色に輝いているように見えた。
「では、そのサークルさんのブースにまずは行きましょう。その後は、ここ。そしてここにも。わわっ、このサークルさんも出店していたんですね~~。それならここに行ってから――」
「あっ、えっと――」
俺は暴走しかける彼女を止める。
「……あっ、すみません。興奮し過ぎました」
わかる。よくわかる。今だって、誰もいないなら嬉し泣きしながら通路を駆け抜けたい気分だから。
「では――」
と、名前を呼ぼうとして、まだ訊いていなかったことに気づく。
「名前! その、僕は芥子山極男といいます」
「そういえば。改めまして――」
女性は優雅に礼をしてみせた。
「
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