ノイバラのしたで

羽生零

『ちよちゃんとわたし』

 かれこれ、二十年は前のことです。


 その時、私はまだ小学校に入学したばかりの、六歳の子供でした。初めての夏休みに心を踊らせていた当時の私は、しかし、八月に入って日が経つにつれ、次第に元気を無くしていきました。

 体調を崩したわけではありません。悪くしたのは、どちらかといえば機嫌の方でした。

 というのも、八月にはお盆があります。お盆には、父方の実家に帰省をするのですが、私にはそれが苦痛でした。遠い山陰の、山中にある実家には、友人など一人もいません。その代わりに、大勢の親戚がいるのですが、子供心に私は、彼らに強い苦手意識を持っていました。親戚としては私を可愛がっていたのかもしれませんが、しかしその言葉の幾つかは、子供心に屈辱を感じるものでした。

 そんな実家で唯一親しみを持てたのが、祖母でした。祖母は無口な性分でしたが、繊細な人で、私が言われた嫌な言葉を否定せず、ただ気持ちに寄り添うように肯定してくれる人でした。

 そんな祖母を、私は親戚の中の誰よりも、あるいは両親よりも慕っていました。ですが、祖母は私が五歳になった冬に、急逝してしまったのです。


 六歳のお盆。祖母が亡くなってから、初めてのお盆です。


 新幹線を降りると、早くも出迎えに叔父さん――父のお兄さんが出迎えます。一族が集まる実家は山の中にあるため、車がなければタクシーで行くしかないのですが、私の一家を送迎するのは決まってこの叔父でした。

 さて、この叔父のワゴン車の中で、私は癇癪を起こして泣くことになります。

 というのも、この叔父の長男、つまり私の従兄に当たる男の子の一言が、我慢ならなかったのです。

「今年からは、ばあちゃんのぶんのお年玉が減っちまうなあ」

 自分がこの言葉に何と言って怒ったのかは覚えていません。が、従兄のこの言葉そのものはいまもよく思い出せます。

 泣きながら騒ぎ出した私に従兄はもちろんのこと、母も父も、叔父も呆気に取られていたことでしょう。事実としてどうだったかはともかく、叱られたのは急な癇癪を起こした私だけだったように思います。そのことが余計に、幼かった私の怒りを煽ってしまい、その日は家族とも親戚とも話してやるものかという、子供っぽい意地を張りました。


 当然ながら、そんな子供は親戚一同からは『扱いづらい』という風に見られます。


 この時怒った従兄は同い年だったのですが、彼は子供らしい、残酷なまでの無関心を祖母の死に向けていました。程度の差はあれ、他の親戚の子供達も似たようなものでした。親はそれをたしなめるのですが、さしてそれにも注力しません。子供なのだから、人の死に鈍感でも当然という雰囲気がありました。

 この年代から下、つまり幼稚園や保育園に行くような年頃の子供だとその傾向はもっと強くなり、これより上になると、子供は親たちの間にある空気を察して、普段より大人しく振る舞うのが当たり前でした。

 そんな中、私だけが、過剰に祖母の死に反応していました。祖母の遺影を見ては泣き、慰める言葉には耳を貸さず、周囲の子たちともあまり馴染めない。面倒な子だと親世代も子世代も遠巻きに私を見てくるので、私はより一層意固地になっていきました。


 お盆のその日。私たち一族は、手に手に墓参りの道具を持って、山の中へと入っていきました。


 墓地は山の中にありました。山の上の方から、下へ下へと広がっていった墓地は、登るほどに古い家のお墓があることになります。一族はこの辺りでも古くから住んでいる旧家なので、墓石が並ぶ山を延々歩かされる子供たちは、口々に不満を漏らします。大人たちの間ですら、暑いだの腰が痛いだのという声が出ます。

 そんな中、私はただただ無言でした。唇を噛み締め、たまに息を切らして夏の熱い空気を乱すだけで、誰との会話にも参加しませんでした。周りが私に話しかけなかった、ということもあるでしょうが、そもそも私には、周りの話し声は、森の中から聞こえてくる蝉の声と混じりあって、ほとんど雑音のようでした。

 そうして、汗を垂らしながら、坂道や石段を登り、ようやく祖母の墓が見えてきます。

 祖母の墓と言っても、それは祖母一人のものではなく、祖母の夫、つまり私の父方の祖父の家に伝わる墓です。以前一度、大雨で起きた土砂崩れの折に押し流され、新しくなった墓石は以前よりも立派で、大きなものになっていました。以前と言っても建て替えられたのは四年前なので、私の目から見れば、いつもの大きさです。

 しかし、私はいつも、この墓石に大きな恐れを抱いていました。自分の背丈よりも遥かに大きなそれは、墨のような黒さも相まって、こちらに倒れかかってくるような威圧感があったのです。

 私はいつも、一族の名が彫られた墓石を避けるように両親の陰に隠れて立っていました。そしてこの時も、やはり以前と同じように――いえ、それ以上にこの墓石を避けるように、目を背けて立っていました。

 私はこの時、墓石と目が合うような気がしていたのです。墓の下からじっ、と誰かが見ているような、いつにない恐ろしい想像が、鮮明に頭の中にありました。しかも、見つめてくるのは歴々の祖先ではなく、亡くなったばかりの、まだ記憶に新しい祖母なのです。亡くなった祖母から、私は目を背けたのです。まだ幼く、祖母の死を受け入れられなかったがための、恐ろしい空想と逃避でした。

 恐ろしく、そして陰鬱な空気の中、唯一の救いは祖母の死を悲しむ親族がいたことでしょうか。すすり泣く声を支えに、私はこの墓参りの時を過ごしたのです。


 そうして、墓参りを終えると、私たちはまた、長い坂道を、愚痴を言いながら下りていきます。やることを終えたという感覚より、時が経ってさらに熱を増した空気にうんざりする気持ちの方が皆大きいようでした。肩を落とし、だらだらとした行列の中で、私を除いた子供たちだけが元気なもので、早く家に帰って遊ぼうと道を駆け下りだす始末です。

 私はというと、何だか空っぽな心地になって、ただぼんやりと歩いているだけでした。とても疲れていたように思います。祖母の死も、夏の陽気も、私をほとほと弱らせました。

 なので、家に帰っても他の子供地と遊ぶ、ということもありません。そもそも仲の良い他の子がいないのですから、必然、家の中ではひとりになります。

 ひとりになった私は、喧騒に満ちた家から離れるように、裏庭へと出ました。裏庭の垣根のすぐ向こうには、雑木林が見えます。草木が伸び放題になっている雑木林は、真夏の昼前だというのに、濃く暗い影に包まれていました。

 私は何故か――本当に不思議なことに、この雑木林の中にひとりで分け入って行きました。親にもひとりで出歩くなと、特にこんな森の中には入るな、と言われていたはずなのに、私の足はこの暗い雑木林へと向いていました。

 雑木林の中は、日がほとんど差さないためかひんやりと涼しく、そして、家の音も聞こえてきませんでした。私は、ほっと息を息を吐きました。何かに守られているような、不思議な安心感がありました。いまにして思えば、不気味にも感じられるこの雑木林は、当時の私にとっては何か砦のようなものに感じられたのでしょう。少なくとも、不安などは感じず、一歩また一歩と、奥の方へ入っていきました。

 自分の家の周りでは、あまり聞かない蝉の鳴き声だけが、どこかから聞こえいました。葉の隙間から、わずかに差し込む光が、まだらに地面を照らしていて、その光を追いかけるように、私は雑木林を進んで行きました。

 ――すると、そのうちに、雑木林が唐突に途切れ、石積みの壁が現れました。

 驚いて私は足を止めました。壁の前だけ木が生えていないため、その辺りだけが、まばゆい陽光に照らし出されていました。目を細めて壁をよく見ると、壁際には、手すりのついた階段があります。では階段の上に何があるのか、と顔を上げて見たのですが、角度のせいか、上の様子はほとんど見えません。

 ただひとつ。白い花が、上から垂れ下がるように生えているのが見えました。近づいて、真下から見てみると、それは五枚の花弁を広げた花であることが分かりました。後々調べて分かったことですが、これはノイバラの花でした。

 雑木林の奥に唐突に現れた、壁とノイバラに私は驚き、しばしの間佇みました。蝉の声だけが静かに聞こえる中、日中の陽光を浴びて眩しいほどに白いノイバラに目を奪われていると、不意に頭上から足音が聞こえてきました。

「誰?」

 という声に、びくっとして振り向くと、そこには小さな女の子がいました。小さな、といっても、当時の私と歳はさして変わらない、つまり五、六歳の女の子です。真っ黒な髪を長く伸ばし、白い肌をした女の子は人形のように可愛らしくて、びっくりした私は、問いかけられたのも忘れてただ彼女を見ていました。

 そうしている間に、女の子は、呆然と立つ私の前まで歩いてきました。女の子は首を傾げて私を見ています。そして、もう一度、私に問いかけました。

「ねえ、あなたの名前は?」

 私はとっさに、自分の名前を答えていました。すると、

「ふうん、かよちゃんていうんだ。わたし、ちよっていうの」

 ちよちゃんはそう言うと、にっこりと私に微笑みかけました。その笑顔は、日差しの下できらきらと輝いて見え、その日は一日陰気にうつむいていた私とは、真反対で魅力的なものでした。私はすっかりちよちゃんに見とれてしまい、挨拶も会話も、立ち去ることも出来ませんでした。

「かよちゃん、友だちになろう?」

 私は呆然と、その言葉に従って、気づけば首を縦に振っていました。私が頷くと、ちよちゃんは嬉しそうに笑って、

「じゃあ、今日からわたしたち友だちね、かよちゃん」

「うん。友だちだよ、ちよちゃん」

「ここでのことは、みんなにはナイショだよ」

 どうして内緒にしてほしかったのか、私には分かりませんでしたが、友だちができた嬉しさに、何も考えずに首を縦に振っていました。


 そうして、私は『ちよちゃん』と出会い、友だちになりました。


 その日から、私は毎日のように、あの白いノイバラの咲く壁へと行きました。家で孤立していた私を気にかける人は誰もいませんでした。

 家を抜け出して会いに行くと、ちよちゃんは、いつも、ノイバラの下にいました。階段の中ほどに立って、まるで私を待っているように夏の陽光を浴びて立っているちよちゃんは、まるで天使や妖精のようにも見えました。

 そうして顔を合わせた彼女と何をするかと言えば、たいてい、おしゃべりをしているうちに、あっという間に日暮れが来ているのです。

 話すのは、ほとんど私でした。ちよちゃんは私にたくさんの質問を投げかけ、私はそれに次々答えます。話し終えて家に帰ってみると、ああちよちゃんのことをもっと知りたかっなぁと思うのですが、いざ私が質問しようとすると、言葉を選んでいる間にちよちゃんが私に質問を投げかけているのでした。

 私は様々なことをちよちゃんに話しました。といっても、話すのは家のことばかりでした。そして、家のことを話すと、多くの場合は愚痴っぽくなってしまいます。嫌なことを言われた、気に入らない態度を取られたなどという、子供同士で話しても楽しくないだろう話題です。それなのに、ちよちゃんは嫌な顔ひとつせず、延々微笑んで私の話を聞いてくれるのでした。

 そうして会うこと、五日が経ちました。

 親戚一同が集う帰省とはいえ、全ての親戚が同じ期間だけ実家に滞在するわけではありません。私の家は、一週間という比較的長期間、実家に滞在する予定でしたが、他の親戚一家は、すでに帰宅したところもありました。

 少し静かになった家から抜け出して、ノイバラの下に来ると、相変わらずちよちゃんは私を待っていました。そんなちよちゃんの姿を見て、不意に私は悲しくなりました。というのも、ちよちゃんと会えるのは明日までだということに、この時思い至ったためでした。

「ちよちゃん、わたし明後日になったらお家に帰らなきゃいけないの」

 私がそう言っても、ちよちゃんは相変わらず微笑んだままです。そして微笑んだまま、こんなことを言いました。

「かよちゃん、帰りたいの?」

 私は言葉に詰まりました。そのとき、問われて初めて気づいたのです。帰りたいから、という理由で帰るのではなく、帰るのだと。

「私、帰りたくない」

 私は、はっきりとそう言っていました。その時、言ってしまったという何となくの後ろめたさを感じる一方で、言ってやったという、変な爽快感のようなものを私は感じていました。そんな、不思議に入り組んだ感情を肯定するように、ちよちゃんは笑みを深めました。

「かよちゃん、私のうちにおいで。かよちゃんはきっと、私のうちのこと好きになるよ。静かで、本がたくさんあって、お庭には綺麗な花がたくさん咲いてるの。テラスで本を読んだり勉強してても誰も邪魔しないし、私のお母さんもとっても優しいの」

 ちよちゃんはそう言って、上の方を見上げました。釣られて上を見ると、白いノイバラの花びらが、陽の光を浴びてきらきらと光って見えました。それを見ていると、何だかこれから素晴らしいことが起きるような――当時は思い浮かべなかった言葉ですが――祝福されているような気持ちになりました。

 私が一も二もなく頷くと、ちよちゃんは、本当に嬉しそうな、輝くような笑顔をぱっと浮かべて私の手を取りました。ひんやりとした白い手に、そっと手を引かれると、私の足は羽のように軽くなりました。

 階段を軽やかに登っていくと、視界がどんどんと開けていきます。階段の上は木の生えていない平らな地面が広がっていて、そこに一軒の家が建っていました。白い壁に黒い瓦屋根をした立派な家でしたが、それに感じたのは、不思議なことに親しみや懐かしさでした。心が惹かれ憧れるという感覚は無く、まるで自分の家に帰ってきたような、そんな馴染みのあるような感じになっている間に、私の足は半ばひとりでに、家の玄関へと向かっていました。

 玄関は引き戸です。横に滑らせれば、からからと音を立てて開きます。と、玄関を開けて、私ははっと我に返りました。この家の子は私ではなく、ちよちゃんです。なのに、本当に自分の家に帰ったかのように、引き戸を真っ先に開けたのは私だったのです。しかも、初めて訪れたというのに、思わず「ただいま」とすら言いかけていました。驚き、小さな声で私は「おじゃまします」と言って後ろにいるちよちゃんの方へ顔を向けました。ちよちゃんは、私の行動を特に気にかけた風もなく、私の横をするりと通って家の中へと入っていきました。

「ただいま」

 と、よく通る声でちよちゃんが言うと、奥の方にあるドアが開いて、ちよちゃんによく似た、真っ黒な髪を長く伸ばした綺麗な女の人が現れました。ひと目見て分かる通り、この人がちよちゃんのお母さんで、急に来た私を見ても驚きもせず、嫌な顔ひとつ見せずに微笑んで「おかえりなさい」と言ってくれました。

 私はこのちよちゃんのお母さんのことを、すぐに好きになりました。それが何故なのか、いまになってもよくは分かりません。ただ、彼女に感じた親しみは、ちよちゃんに感じたものと似通ったものでした。特に理由の無い、不思議な安心感や信頼を伴った愛着があっという間に湧いて、私はその日の夕方まで、当たり前のような顔をしてちよちゃんの家に居させてもらったのです。

 ちよちゃんの家は見た目通りに広々としています。私の家のように縁側はありませんでしたが、代わりに居間の大きなガラス窓からは、様々な木花が生え揃う庭が見えました。夏の盛りだけあって大きなヒマワリがまず目に入りますが、他にもユリやダリア、サルスベリなどが、夏の日差しを受けて庭に彩りを添えていました。

 綺麗な庭を横目に、涼しい家の居間で、私はちよちゃんのお母さんから花札やかるたを教わりました。居間には普通の家にあるようなテレビは無く、ゲーム機もありませんでしたが、代わりに蓄音機が一台置いてあり、まだ蓄音機を知らなかった私は、その金色のラッパのようなものを頂いたそれから音楽が流れ出したことにとても驚きました。

 幼い私でも、曲だけは知っているようなクラシックを聞きながら過ごす時間はあっという間でした。庭からは日が暮れていく様も見えていたはずですが、私がそのことに気付いたのは、いきなりチャイムの音が鳴り響いたためでした。

「もう夕方だわ! 帰らないと……」

 私は無意識のうちにそう言っていました。そして、ここに来たのは『帰りたくない』とちよちゃんに言ったからだということを思い出しました。帰りたくないと言ったのに帰ると言い出してしまったことに、その時の私は幼いながらもちよちゃんを裏切ってしまったような気持ちになりました。ただ、ちよちゃんはやっぱりあの優しい微笑みを浮かべてくれたまま、

「明日も来てね」

 と言ってくれました。私は、出発前に必ずちよちゃんに会いに来ることを約束すると、暗くなり始めた森の中を走って家まで帰りました。



 翌日になると、朝早く起きた私は、残った親戚同士が挨拶で忙しい中、ひとりでいつものように家を抜け出しました。いつもより早い時間だからか、朝の森の空気は冷えて涼しく、歩いているだけで爽やかな気持ちになれました。

 朝の森を歩きながら、その時、私が考えていたのは、前日にちよちゃんが言っていた言葉でした。

 私のうちにおいで――。

 昨日、私はこのことについて深く考えていませんでした。ただ遊びに来てほしいと、そう言われただけなのだろうということをぼんやりと感じているだけだったのです。

 しかしこの時、私は何かの天啓のように、ある考えに至ったのです。それは子供の、とっぴな思い付きだったのかもしれません。あるいは、願望を勝手にそうだと思い込んだものだったのかもしれません。しかし、ともかく私はこの時、ちよちゃんは私を『送る』ために私を招いたのではなく――私を『留める』ために招いたのではないか? 退屈で鬱屈した私の家族ではなく、あの暖かなちよちゃんの家に、私も迎え入れてもらえるのでは、とそんなことを思ったのです。

 もしそうなら、それは素晴らしいことだと、その時私は思いました。家族と離れる恐怖なども感じません。ちよちゃんのおうちの子になれるかもしれないという、根拠のない期待で胸が膨らむばかりです。

 ただひとつ心残りがあるとすれば、よそのうちの子になるということは、おばあちゃんの子じゃなくなるのでは――という、やはり何の理論もないものでした。

 私はそんな思いに駆られて、いつもの道を外れて墓地の方に行きました。備えた花が萎れて置かれている祖母の墓石は、朝日を受けて鈍く輝いています。私はその前に立って両手を合わせ、頭の中で、ちよちゃんのうちの子になることを伝えて、最後にさよならを言いました。

 そうして祖母に別れを告げると、私はいよいよ、ちよちゃんの家に向かいました。ちよちゃんはいつもと変わらず、あのノイバラの下で待っていて、私を家に連れて行ってくれました。そうして、閉じた玄関のドアを後ろにこう言いました。

「かよちゃん、これでずっと一緒にいられるね」

 とても嬉しそうに、笑ってちよちゃんがそう言うので、私も笑顔になって頷いていました。嫌だとも、帰りたいともちっとも思いませんでした。やはりこのうちの子になるのだという暖かな心持ちで、私は家の奥へと通されました。


 それから日が暮れるまで、私はちよちゃんと遊びました。キッチンでは、ちよちゃんのお母さんが晩御飯を作ってくれています。私は、こうしてこれから毎日暮らすのだという漠然とした実感と、ほのかな幸福を感じていました。

 すると、キンコーン、と。昨日と同じく、玄関のチャイムが鳴りました。

 しかし、ちよちゃんのお母さんも、ちよちゃんも動く気配はありません。待っているうちに、焦れたように二度、三度とチャイムが鳴らされ、私は急かされているような気持ちになりました。

「ちよちゃん、私見てくるね」

 何だか無性に呼ばれているような気がして、私は立ち上がって玄関へと小走りに向かいます。「待って!」とちよちゃんの声が聞こえましたが、私の足は止まらず、気づけば玄関の前へと立っていました。

 すると、どうしたことか、いきなり玄関のドアが勢いよく開きました。そして玄関の向こうには、

「……おばあちゃん?」

 死んだはずの祖母が立っていたのです。わけが分からず呆然としていると、おばあちゃんは節の目立つ手を私に向けて差し伸べ、

「かよちゃん、帰る時間よ」

 と言いました。その言葉の意味はやはりよく分かっていませんでしたが、それでも私は、反射的におばあちゃんの手を取っていました。おばあちゃんの手はとても冷たかったのですが、その時感じた安心感は、帰省した実家の近くの山で遊び回っていた私を迎えに来てくれた時に感じたものと、全く同じものでした。

「かよちゃん!」

 後ろからちよちゃんの声が聞こえます。私は振り返ろうとしましたが、祖母に強い力で腕を引かれ、つんのめるようにちよちゃんの家から一歩、外に出ていました。

 すると、どうでしょう。目の前に現れたのは鬱蒼と茂る森ではなく、祖母が眠る一族の墓でした。祖母とともにちよちゃんの家の前にいたはずの私は、墓地にひとりで佇んでいました。後ろを見ても、ちよちゃんの家はどこにもありませんでした。そして、祖母の姿も、どこにも見当たりませんでした。


 やがて、立ち尽くしている私の耳に、私の名前を呼ぶ声がいくつも聞こえてきました。


 それは、私の両親や、親戚の人たちの声でした。裏口から森に出たきりいなくなってしまった私を探し回る彼らが持つ、懐中電灯の明かりが、日の暮れた墓地をぽつぽつと照らしていました。



 その後、私は涙を流す両親に抱きしめられたり、叱られたりしました。何故一人で外に出たのか、と問い詰める親戚の人もいましたが、私はどうしても、ちよちゃんのことを打ち明けることはできませんでした。彼女のことは、ノイバラの下の秘密なのですから。ただ、祖母に手を引かれたことだけは伝えました。私が帰って来られたのは、祖母の功績だと言わんばかりに。そのことについて、本当のことなのだと墓に向けて手を合わせる人もいましたが、私を嘘つきだと言って白けたような態度を取る人のほうが、多かったように思えます。


 祖母のことが、そしてちよちゃんのことが嘘だったのか、本当だったのか。私にとってはすべて、本当のことです。しかし、その確信を与えてくれるものは、私の記憶の中にしかありません。

 翌年、また実家に帰省した私は、家族の目を盗んで、あの白いノイバラの崖へと向かいました。しかし、そこにはノイバラも、階段も、ちよちゃんのお家も無く、ただ土でできた崖があるばかりでした。


 私は、それから二度とちよちゃんには会えませんでした。


 あれから二十年。毎年、夏がくるとちよちゃんのことを思い出します。

 もし、あの時、死んだはずの祖母が私の手を引いてくれなければ、私はどうなっていたのでしょう。恐ろしいことになっていたと、そう思うことはできません。嫌なこと、嫌なひと、それに出会うたび、もしちよちゃんの家の子になっていれば――あの綺麗な少女と綺麗なお家で暮らしていれば、と。そんなことを思ってしまうのです。

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