あとがき(あるいは後日談)

 この短編は、ほとんど何も考えずにプロットも書かず、思うが儘に書いたものです。中にはそこそこ知識を必要としますが(シュレーディンガーの猫とか、シュールレアリスムとか)、そこまで難しい出来になっていなければありがたいという次第です。


 さて、(あまり作者が自作を解説するというのはナンセンスというか奇妙なものですが)ある程度補足はします。

 まず、章タイトルにある通り、二人の後日談を語っておきましょう。実のところ、二人の後日談は作者にもわかっていません。どうにもその二人の未来は見えないというのが正しいところです。道端で餌を運ぶ蟻を見て巣に帰る様子は想像できても、その先どうするのか想像できないのに似ています。あまりに無責任な作者だと思われるかもしれませんが、それは勘弁してください。作者であってもどうしようもないことです。


 この作品において、主人公や「あの人」は、性別を明示していません。例えば「ボクが一人称なのか、予想外だった。意外と低めの声、それも悪くない。いやむしろ良い。」がそうです。どちらかというと「あの人」が女性で主人公が男性に感じられるように書きはしましたが、決してどちらかに断定できるような表現はしません。ほかにも「意外と身長差がある。」をどちらの身長が高いか(主人公が見下ろす形になるか……等)としなかったのもそうです。良くも悪くも性別を断定する必要がないので。


 伏線というほどでもありませんが、最初に出てきた、切り取られた売れないジャーナリストの記事と「あの人」が教科書に挟んだ小さな紙切れは対応しています。ジャーナリストも細々と記事を発表していますし、紙切れも「まるで密告書」のように伝えてきました。要するに、ジャーナリストの記事を窓の外に棄てたのは、「あの人」からの紙切れを監獄から外の世界に放つという意味を持たせるためのものです。それがどういう意味を持つかは皆様のご想像にお任せしますが。

 また、強化ガラスと鎖という比喩が出ていますが、これも設定上明確な元があります。鎖は行動を阻害するもの、強化ガラスは伝達を阻害するものです。


 以下は、ある程度の解説のつもりで、乱雑に書いていくもの。わからないところがあったなら、目を通してみる価値はあるのかもしれません。


「二年前に失踪した父親」

 主人公は作者に重ねて書いていますが、実のところ、作者の父親は失踪していません。軽いボケで記憶は年々失踪しているようですが。

 これは主人公が恋愛に対して奥手になるために必要なものです。恋愛に奥手にするなら、過去に壮絶な失恋をした、でも構わないのですが、誰かを(この場合は母親を、あるいは家族を)傷つけるものとして過去の恋愛があるとしています。


「あってもなくても変わらないくらいの小さな本棚」

 書籍というのはだいたい人間そのものです。どういう本を読んできたかによって、人間性はおよそ推し量ることができるというのが自論です。父親の人間性とか存在とかが小さいことの比喩。これは現代文の試験で、傍線が引かれて「以下の傍線部に対する説明で正しいものを選びなさい」と問題になっていそう。


「週刊ツガル」

 あまり関係はないですが、太宰治がもとです。あまり、というより一切関係はありません。ゲーテも同じです。


「厳重にカバーをつけ」

 周りから見えないようにするためです。「紙切れと教科書」と同じです。


「自ら志願してこの学校を受験し、合格し、入学した」

 よくも悪くも(ほとんど「悪くも」のみですが)中高一貫に通っていた六年間は地獄とか悪夢とかで語りうるものでした。だいたいうまく生きることすらできない。ここならなんとかやっていけると思った学校ですらそのざまです。このあたりの反論は作者自身の心境が赤裸々に語られていると捉えても差し支えありません。


「はれて国会図書館の『ゲイユ』は孤独になった」

 たまにカッコつけたくなるじゃないですか。こういう表現したくなりません?

 という冗談はさておき、国会図書館の「ゲイユ」にフォーカスしたのは、「ゲイユ」が無くなってはいない(無くなりはしない)ことを強調したかったから。


「走るたびにがらんがらんと音を立てるような気がした」

 全体の趣旨とはずれますが、「生き急ぐと何も聞こえなくなる」という自戒のつもりの一文です。


「それに対抗するかのように匂いは染み出る。このつんとした匂いが私はとにかく嫌いだ」

 鎖に雁字搦めにされることを享受しているような主人公ですが、それを嫌に思っているのも事実です。それをここで書いています。終盤、鎖が体にどんどんまとわりつくのと同じように匂いも湧き出る。そういうこと。それをうまく除けてもまた匂いと同じようにまとわりつく。そういうことです。


「またはカフカや安部公房やバリー・ユアグローの小説」

 カフカや安部公房はいわずもがな、シュールレアリスムの巨匠です。バリー・ユアグローは奇妙な夢を描くのがうまい作家です(シュールレアリスムとは異なる気がする)。


「そこにいるのは一匹の猫かもしれないし」

 シュレディンガーの猫が元。これは主人公が「牢獄」で心を閉ざすのと「あの人」に心を開こうとするのと、反する二つの象徴でもあります。またはあの人と主人公の明暗とか。あの人と「私」は(私からすれば)近い方が好ましいが、あの人にとっては(客観的に)近くないほうがいいのでは、という反する思慮とか。


「数学の田部先生」

 実在の人物はモデルにしていませんが、名前はオマージュです。知る人が見れば一発でわかると思います。遊び心も大事。わからない人はわかりそうな人に聞いてみてください。「数学のタベ先生って何ですかぁ?」


 すみません、これ以上は勘弁してください……もう眠いです。

 この短編においては、ある種の寓意というか皮肉というか自戒をたんまり込めています。誰かの何かの役に立てばそれはそれでとてもうれしいことです。

 それでは。


 2022年1月19日午前3時

 鎖の中にて 淡風

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丘の上の牢獄(または、如何にして人間は脱皮をするか) 淡風 @AwayukiP

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