私はあの人のことをほとんど何も知らない。知っているのは名前くらいだ。どういう声で話すのかもよく知らない。ダウナーな声なのかもしれないし、歯抜けな声で話すのかもしれない。見た目でいえばかわいらしい声をしているのではないかとも思うのだが、いかんせん耳にする機会がない。少なくとも誰かと話しているところを見かけたことがない(話していないわけではなく、普段からあまり見かけないだけだ)し、話しかけたこともない。否、話しかければあまりの緊張に言葉が出なくなってしまう恐れがあり、直接話しかける気が起きない。だが、おかげさまで正門に至るまでのあまりに急な坂道を、遅刻しそうな中あくせく登っていたときに「ねえ」と真後ろから話かけられても、振り向いてそれが誰かを確認するまでは平静を保っていられた。「君、ボクの隣の組でしょ? 今日の一限の数学の教科書忘れたから貸してよ」。刹那、様々なことが頭をよぎる。ボクが一人称なのか、予想外だった。意外と低めの声、それも悪くない。いやむしろ良い。今日は数学の教科書を持っていたか。なぜ今ここで訊ねてきた? ……なるほど、遅刻しそうで貸し借りをする暇があるかわからない。ちょうど隣の組の生徒が見えたから、一か八か訊ねたといったところか。意外と身長差がある。数学の教科書? すでにあらかたの問題の解答を書き込んでしまっているものだから、貸すには忍びない。等々……

「急なお願いで悪いけど、数学の田部先生、いつもはやく教室に来ては忘れ物の貸し借りに目ざといからさ」どうやら私が何も返さないのを渋っていると捉えたらしい。申し訳なさそうに困り顔でそう補足された。「まぁ……数学なら別に、教科書も持ってきてるし大丈夫」なんとか言葉を紡ぎ、そう伝えるとぱぁっと顔を明らめ、「お、ありがと。遅刻しないように急ご」と返してきた。


 朝方のことを思い出しつつ、一限はほとんどうわの空で終わった。今日の数学の授業は午後、午前いっぱいは貸したままでも構わないと机から離れずにいつごろ来るのだろうと考えるそのとき「はい。どうもありがとう」という言葉とともに教科書を差し出された。「何とか助かったよ。お礼といっては何だけど、今日配られるプリントの問題の答えもメモってあるから。使って」。教科書を受け取り、何か言わねばと焦る。しかし私はこの牢獄で自らの手足を雁字搦めに縛り付けている。もがけばもがくほどそれは複雑に絡み合う。何か言葉を発しなければ。慌てふためくほど思いもよらないところが締め付けられる。何か。その様子を察してか、「もしかして返すの遅かった?」と声をかけられる。それすら面会室の強化ガラスの向こうの声のように少し遠くに聞こえる。鎖がまとわりついて木乃伊になっているような感覚を覚える。「ううん、大丈夫」と口にして顔を上げる。「よかった。じゃあまたね」そう言って去る背中を見送る。その姿はまるで強化ガラスに包まれているように見えた。そういえばさっき、プリントの答えをメモしてあるといっていたな、と教科書を開いてみる。そこには小さな紙切れが挟まれており、問題番号と答えが所狭しと書かれていた。裏を見ると、「教科書の問題、フルで終わってるんだね すごい、今度わからないところ教えてよ」と書かれていた。まるで密告書だ。俄然喜びが勝ってきた。教えるくらいわけない、と思った。そう、教えられるならむしろ光栄かもしれない。いつでも訊いて構わないよ。

 鎖に閉じ込められる前なら。

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