精神障害と生活保護

@himeniko

第1話 つながる

「金がないんじゃ。なんとかしてくれえや!」「もしもし。どうしたん?」いきなり大声で怒鳴ったかと思うと「助けてください」と泣きながら言う。山田君は精神障害者で生活保護を受けている。月の初めに生活保護費が振り込まれるのだが、1週間後には数百円になる。私は山田君から電話があると自宅を訪問することにしている。玄関のチャイムを鳴らし、しばらくすると鍵が開く音がして、タバコのもあっとした匂いとともに山田君が顔を出す。「お金なくなったん?どうしようかねえ。ちょっと家に入らせてくれる?」と言うと「はあ」良いとも悪いとも分からない返事を聞いて、後について家の中に入る。「お邪魔しますよー」玄関を入るとすぐに大きなビニール袋に入ったビールの空き缶、中にはウイスキーやワインの瓶もある。台所には食べかけの宅配ピザや、床にはハンバーガーの空袋が転がっている。お金がない理由を聞くと「食べるものを買った」とか「知り合いに貸した」と言う。テーブルの上には数枚の「借用書」と鉛筆で書かれたノートをちぎった紙にアパートの隣人、佐藤さんと今田さんの名前が見える。今田さん佐藤さんとも生活保護を受けて生活し、精神障害者で私が担当している

 私の仕事は相談支援専門員。高齢者が介護保険を利用するときにサポートしてくれるのが介護支援専門員(ケアマネージャー)。相談支援専門員(相談員)は、障害がある人たちが福祉サービスを利用するときのサポートをする。ケアマネージャーも相談員も、介護保険や障害福祉サービスを利用するとき支援が主な業務なのだが、今回の山田君のように経済的な相談や家族間のトラブルなどで本来の業務ではない場面でも登場することが多い。

 山田君との出会いは4年前、前任の相談員が退職するので引き継いだ。前任者と一緒に担当交代の挨拶に訪問した。「今度から山田さんの担当を引き継ぐことになりました。よろしくお願いします」と言うと「はい」と言う声が、かすかに聞こえた。声が小さく背中は丸まっていて年齢より老けて見える。普段はとても大人しく話し声も小さいのに、お金がなくなると声が大きくなる。「どうにかしてくれえや!!」と電話では強気だ。自宅に行き「食べるものがないなら市役所へ相談しに行こう」と言うと「僕は対人恐怖症なので外には出られません。代わりに行ってきてください」こんな時の声はとても小さい。「私だけ行っても食べるものはもらえないんよ。事務所の車で一緒に行こう」と何度も言うと、仕方なしについてくる。生活保護の担当者に事情を説明し米やふりかけ、缶詰を分けてもらう。保護費の使い道も質問されると、山田君は人に貸したと答えた。「人に貸せるお金があるのなら、その分を次の支給から減額しますよ」ときつい口調で言われると、山田君は俯いたまま何も言わない。私が山田君の担当を引き継いでから、こんなことの繰り返しだ。生活保護の担当者から、社会福祉協議会の金銭管理の利用を提案された。「毎月、お金がなくなるたびに、こんなことしていたらお互いしんどいよ。話しだけでも聞いてみようよ」と山田君を説得する。1時間近く粘って説得して、ようやく「話だけなら」と言ってくれた。社会福祉協議会の武田さんと山田君の家を訪問する。社会福祉協議会の武田さんとは20代のスラっとした美人さんだった。山田君には結婚願望があり、若くて可愛いヘルパーさんをストーカーしたことがある。武田さんと一緒に山田君の家に行き、金銭管理について説明してもらった。一通り説明が終わり、どうするのか聞くと「お願いします」と言った。金銭管理が始まると山田君の担当は武田さんではなく、若い男性の森さんになった。さすが、社会福祉協議会もよく分かっている。社会福祉協議会の金銭管理は毎週のお小遣いの額を決めて、山田君に手渡しをしてくれる。毎週、山田君に会って光熱費の請求書などを回収し生活状況を聞き、そしてお小遣いを渡す。そのお陰で、月の中旬にはお金がなくなってしまうことは無くなった。

ようやく生活が落ち着いたと思っていたら、ヘルパー事業所から連絡が入る。20代のヘルパーさんが訪問したときに、携帯の電話番号をしつこく聞いてきた。答えられないと言うと「俺だって結婚したいんだよ」と怒鳴ったそうだ。連絡があってすぐに山田君の家に行く。「ヘルパーさんに電話番号を聞いたん?」と言う首を縦にふる。その後、山田君はずっと黙っている。女性の頃を好きになること自体は正常なことなのだが、一方的に思い、思い通りにならないと怒鳴る。そんなことでは恋愛どころか、普通の関係を築くことも難しいだろう。今後は男性ヘルパーが対応することになった。

私の手元に山田君の支援記録がある。病院のソーシャルワーカーや生活保護の担当者、今まで支援してきた経過記録がある。山田君は2500gで生まれた。腹違いの兄と姉がいて一回り以上の年齢差がある。母親は10数年前に亡くなり、父親は消息が知れず、兄と姉は同じ県内に住んでいて電話番号は知っているが、ほとんど連絡を取っていないと話していた。市内の高校を卒業後、販売員、スーパーの店員、居酒屋など職を転々とする。29歳でトラック運転手をしていたときに幻覚幻聴が出現し統合失調症と診断を受けた。それ以来、入退院を繰り返した。アパートの隣人と度々喧嘩をして措置入院を繰り返しているから、警察のお世話になり、退院後は市役所の障害福祉課の保健師さんが定期的に訪問をしている。保健師さんと病院のソーシャルワーカから、支援をお願いしたいと私の勤務する相談支援事業所に連絡があり担当することになった。

お金のことが解決すると、次は女性ヘルパーさんを好きになり、次から次へと色々なことが起こる。どう対応するのか仕事を超えて、人間として試されている気になる。山田君から着信があると、つい身構えてしまう。「はい。もしもし山田君。どうしたの?」ある日、山田君から電話がなる。「あーあーうー」何を言っているのか分からない。「どうしたの?何があったの?」聞こえてくるのはうめき声だけだ。様子がおかしい。その日の予定を変更して山田君の家へ訪問する。玄関のチャイムを鳴らしても出てくれないし鍵が閉まっていて入ることができない。ドア越しに山田君の呼びかけると、かすかに声が聞こえる。ちょうどそのとき、訪問予定だったヘルパーさんも駆けつけた。「何があったの?」と言うヘルパーさんに状況を説明した。大家さんに連絡して合鍵を貸してもらえるかもと思ったけれど連絡がつかない。家の中で何が起こっているか分からない。玄関の郵便受けを押して山田君に話しかける。「大家さんに連絡がつかないから、消防署に連絡して鍵を開けてもらうように頼むよ」と伝えた。数分後に消防と警察がサイレンを鳴らして近づいてくる。心臓がドキドキした。消防服を着た消防署員さんが7−8人、警察官が3人、小さなアパートの前は赤色灯で照らされ急に騒がしくなった。警察官が近寄ってきて「あなたが通報した人?」と聞かれて、身分を名乗り状況を伝えた。「玄関が開かないなら鍵を壊さないといけなくなるかもしれないが、それ以外に家に入る方法があるかもしれないので、消防と我々で探してみます」と言われた。消防の人はアパートのトイレの小さな窓の鍵がかかっていないのを見つけ、そこから家の中に入っていった。しばらくして玄関のドアが開き、携帯電話を握りしめトイレで倒れている山田君がいた。「起きることも、立つこともできません。かなりの高熱があるので、救急車で病院に搬送します。かかりつけの病院はありますか」と聞かれた。山田君のかかりつけの病院へ連絡して搬送の許可をもらい救急隊員へ伝える。病院へ搬送され、山田君は入院した。

山田君の病名は「脳出血」後遺症で右麻痺と言語障害が残った。しばらくリハビリをしたけれど、自分の足で歩くことができず車椅子で生活することになった。今までのアパートでは生活することができない。山田君の入院中、何度かお見舞いに行った。会うたびに左手には黒いガラケーを握っていた。でも右手はだらりと伸びたままだ。言葉を話すことのできない山田君からもう電話がかかってくることはないだろう。自宅で倒れていて救急車で病院に運ばれてから3ヶ月、治療とリハビリをして山田君は退院することになった。病院からの提案で施設入所が決まり、施設に行くときには見送りに行った。「元気でね」と言うと、山田君は下を向いたまま施設の車に乗ってしまった。

施設入所になり私の支援は終了、あっけない終わりだった。山田君は障害者になり数年経って福祉サービスを利用するようになった。生活保護を受け、お金の管理ができず社会福祉協議会を手助けしてもらった。ヘルパーさんに生活を支えてもらった。いつも山田君の手に握られていた携帯電話は、誰かと繋がるための大切なものだったのだろう。部屋で倒れていたときにも消防や救急隊員、警察官、ヘルパーさんや私も含めて10人以上の人が一人の命を救うために駆けつけた。世の中は、ひとりぼっちにしない仕組みができている。そして誰も一人ぼっちでは生きていけないのだ。

数ヶ月前、携帯電話の着信音が鳴り表示を見て驚いた。山田君からだ。戸惑いながら、通話ボタンを押す。「相談支援センターの金谷です」少し間を置いて「やーやー山田です。ありありあり」次の言葉が出てこない。「ありがとうですか?」「はい」「お礼を言いに電話してくれたんですね。ヘルパーさんたちやみんなにも伝えておきますね。元気で過ごしてくださいね」「はい」言葉はスムーズに出ないのか、はっきり言えないけれど「はい」だけは勢いよく大きな声で言えるようだ。携帯電話をテーブルの上に置き、左手で私の電話番号を出し連絡してくれたのだろうか。電話をかけてくれた姿を想像すると、つい微笑んでしまった。山田君がずっと握っていた携帯電話は、人と繋がるための大切なツールだった。人は一人では生きていけない。私の仕事は、ひとりぼっちにしないことなのだ。

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