第5話 旅立ち

「……綺麗だ」

 デッキチェアで目覚めた啓太は独り言のように呟く。付き添うドロシーは白いワンピース姿で同じ風景を眺めていた。

 草原は一面、白い花に包まれた。一晩で一斉に開花したらしく、そよ風が甘い香りを運んでくる。

 少し潤んだ目で啓太が口を開く。

「僕はまた、夢を見たんだ」

「どんな夢だった?」

「この花のように白い人達が、僕を囲んでいたんだよ」

 ドロシーは草原を見たまま、そう、と一言を返す。

「医者みたいで……夢なのに、現実のように思えたんだ」

「それなら今が夢?」

「わからなくなったよ」

 啓太は口だけで笑う。ぼんやりとした目は遠方に向けられていた。

「……ここはどこなのだろう」

「草原だよ」

「そうだけど。とても広くて、どうやって来たのかな」

「わたしが啓太を背負って連れて来たんだよ」

「そう、なんだ。ごめん、重かったよね?」

 ドロシーは頭を左右に振るとはかない笑みで言った。

「そんなことないよ。とても軽かった」

「それなら、よかった」

「全然、よくない」

 即座の反論に啓太の目が丸みを帯びた。

「ドロシー、怒った?」

「軽くていいわけないじゃない」

 目を伏せて声に怒りを滲ませる。

「そうだね。もう少し、太るよ。それと筋肉も付けて、自分の力で、走れるようになりたい」

「それでいいんだよ。こんなちっぽけな草原だけじゃなくて、もっと広い世界を知って欲しい」

「僕からしたら、草原は広いよ。でも、わかった。その時は、ドロシーも一緒だよ」

 どこからなのか。突然、すすり泣く声が聞こえてきた。啓太は緩慢かんまんに目だけを動かす。

「今の泣き声は」

「なにか聞こえた?」

「……おかしいな。なにも聞こえない。僕の耳が、ヘンになったのかな」

 啓太はのんびりとした口調で言った。

「ヘンじゃない。啓太はどんな時でも啓太だよ」

「それはそうだけど、今日のドロシーは、少しヘンだよ。当たり前のことを、力を込めて話して。どうか、したの?」

 虚ろな目となって首を傾げる。表情は希薄となり、顔から笑みが消えた。

「ほんの少し、悲しい気分になっていて。わたし、どうしたんだろうね」

「たぶん、草原の花が、綺麗だから」

「綺麗だよね」

「白いワンピースの……ドロシーも、綺麗だよ……」

 啓太は口角に力を入れる。出来上がった歪な笑みにドロシーは満面の笑みを返した。

「ありがとう、啓太。わたし、本当に嬉しいよ」

「なんか、とても眠くて……ごめんね」

「いいから。わたしはここにいるよ」

「……僕と、ドロシーは、いつまでも……一緒だよ」

 薄目の状態で耐える。ドロシーは啓太の手を両手で握った。

「そうだよ。二人で広い世界を見て回ろうね」

「二人で……」

 啓太は目を閉じる。僅かに上下していた胸が動きを止めた。

 辺りに甲高い音が鳴り響く。ほぼ同時に泣き声が上がった。妙齢の女性が駆け寄って啓太の身体にすがり付く。何度も名前を叫んで呼び戻そうとした。

 ドロシーは握っていた手を離した。後ろへ下がろうとした時に肩を掴まれる。

 真横に目をやると四十代くらいの男性だった。泣き崩れる女性と啓太を前にして目を潤ませる。

「ドロシー、君は私達の家族だよ」

「これでよかったのかな」

「君は嘘を吐いていない。啓太は退院して、このホスピスで救われた」

 堪え切れず、男性の目から涙が流れる。

「でも、ここは」

 ドロシーは周囲に目を向ける。

 草原は消え去り、無機質な白い部屋となった。バルコニーは同色の台に戻り、ロッジ風の建物は壁と扉を残して全て消失した。

「ほとんどが偽りのホログラフィで出来ていて」

「啓太には本物だった。そして今日、元気に旅立っていった。ドロシー、今まで本当にありがとう」

「わたしはなにも……」

 俯くと白い床の一部が濡れた。男性はドロシーの背中を我が子にするように優しく摩る。

「……わたし、高性能だから」

 顔を上げたドロシーは笑顔を作る。その頬は目から溢れた液体で、ぐっしょりと濡れていた。

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旅立つ前の数日間 黒羽カラス @fullswing

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