第4話 綺麗な虹

 雨音が途絶えた。代わりに啓太の微かな寝息が部屋を満たしてゆく。

 かたわらにいたドロシーは腰をかがめた。耳に口を近づけて、朝だよ、と囁く。瞼の僅かな動きを見つめたあと、同じ言葉を繰り返す。

 啓太はむずかる子供のように表情を歪めた。

「……雨は」

 瞼よりも先に口が開いた。酷くしゃがれた声だった。

「やんだよ」

「草原が、見たい」

「そういうと思った。期待していいよ」

 ドロシーは微笑むと背後に回ってデッキチェアを押した。開け放した扉をすんなり通ってバルコニーの定位置で止めた。

「正面を見て」

 明るい声に釣られて啓太は瞼を開けた。

 薄青い空に虹がかり、綺麗な半円を描く。朝陽を受けて輝く草原と相まって静かな感動を呼び起こす。

「とても、綺麗だね」

「そうね」

「……夢の話だけど、僕は草原を走ったよ」

「楽しかった?」

 啓太は少しの間を取った。

「泣きそうになるくらい嬉しくて、心のままに叫んでいた。夢なのに、はっきりと覚えている」

「少しうらやましい」

「それが悪夢でも?」

「見てみたい。わたしは人間のように睡眠や食事を必要としないからね」

 耳にした啓太の表情が曇る。考え込むように瞼を閉じ、また開いた。

「ねえ、ドロシー。おかしなことをいてもいいかな」

「どんなこと?」

「僕はここにきて、一度も食事をしていないと思うんだけど」

「夢と現実が混ざっているだけよ。病院を退院したことも忘れていたよね」

 言葉に詰まることはなく、軽い口調で返した。耳にしても啓太の表情は晴れない。目は薄れてゆく虹を見ていた。

「本当に食事の記憶がないんだ。それなのに僕はお腹が減っていない。これってドロシーと同じ、ヒューマノイドだから」

「それは違う」

 ドロシーは強い口調で啓太の主張をさえぎる。強張った表情を緩めて左横に並んだ。

「啓太はちゃんと睡眠を取っているじゃない」

「それはそうだけど」

「わたしがどれだけ望んでも、絶対に真似できない夢だって見ているよね」

「そうだね」

 反論する余地がないのか。啓太はドロシーの言葉を受け入れた。途端に力が抜けたような表情となり、虹が消える瞬間を二人は黙って眺めた。

 薄青い空と輝く草原が残った。

 啓太は藻掻くようにして上体を起こす。その流れで右の太腿ふとももを両手で抱え、強引に床へと下ろした。

 意図を知ったドロシーが遮るように回り込む。

「そんな足でどうするつもりよ」

「僕なりのリハビリをしようと思って」

「まだ早いよ。もう少し筋力を付けないと」

 ドロシーは転倒を危惧きぐして両手を伸ばす。左右、どちらに傾いてもいいように啓太を間に挟んだ。

「ドロシーは心配性だね」

「無茶なことをするからでしょ」

「危ないことはしないよ。赤ちゃんからやり直すつもり。ほら、つかまり立ちってあるよね」

「あるけど!」

 怒りながらもドロシーは啓太の動きに合わせた。

「ここからだね」

 啓太は両足を下ろした姿でデッキチェアに座る。その状態で身を捩じり、身体の向きを変えようと懸命に試みる。息が弾み、支える両足がガクガクと震えた。

「わたしの判断で、それが途中であっても止めるからね」

 背中を向けた啓太に強い声を浴びせる。返事はなく、荒い息で背もたれへの移動を始めた。遅々とした横歩きで、あと一歩のところまできた。

 到達目前、笛のような音が鳴った。ドロシーは瞬時に反応。後ろから啓太を抱き締めてデッキチェアに仰向けの状態で寝かせた。

 慌ただしい足音が殺到する。白衣を着た人々が器具を持ち込み、啓太に駆け寄る。

 ドロシーは速やかに場所を空けた。感情を押し殺した顔で経緯を見守った。

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