1. 神室彩月

結局はあいつもただの女だったということだな。


神室彩月はその日、そう口の中で誰にも聞こえないように独り言をつぶやいた。ただの女、というのは鳴海ねねという女性のことであった。彩月とねねは合同コンパと称された単なる飲み会、後に二次会でカラオケ、という会合にて出会った二人であって、神室彩月が節操もなく据え膳食わぬは男の恥とばかりに手を出し、ねねも特段何も考えておらず、彩月を一通り観察し、デブではなくて顔もブサイクではないから、ま、いっかな、という程度の感想を相手に抱きつつ行為に及び、その後でお互いを彼氏と彼女と呼び合う仲になったが、それからふた月も経たずして別れることとなった。付き合い始めたきっかけも判然としなければ、別れた原因も判然としない、そんな関係であった。


学食のテーブルで眠い目をこすり、定食Aセットを機械的に口に運んだ。左手にケータイを置き、もはや誰から来るわけでもない連絡を待ちながら「ただの女」と今までに及んだ情事を反芻して、やっぱり惜しいことをしたなという気持ちと、いやいや、一切の面倒から自由になったのだという気持ちを天秤にかけて心を揺り動かしていた。


神室彩月はどこにでも居る大学生の一人であった。学力も能力も平均以下であった。特に秀でているものは無いものの理想だけは高く、将来は繁華街の高層ビルの一フロアにオシャレなオフィスを構える、まだ若くていけてるベンチャーのユニコーンスタートアップに就職して楽して高収入を得たいと常々夢想していた。昼食はフリーランチが提供され、座席もフリーアドレス。高層ビル群が眼下にそびえるような窓際の座席で、女子大を卒業したばかりの、おっぱいがでかくてレトロなフレームの眼鏡をかけていて、その奥は二重の女の子と一緒にお仕事をする未来が手を伸ばせばそこまで迫っているのだと、根拠のない自信に胸と股間を膨らませていた。


しかし客観的にはそのような未来に至るのは難しいことと判断される。大学の二年次ですでに留年の危機に瀕していたし、真面目に勉強をしていないことは少し会話すれば容易に見抜けるだろう。いけてて儲けまくってるベンチャースタートアップが彼のような人材を欲しがる理由は何もなかった。


そもそも高校生のときより成績は芳しくなかったが、高校二年生のときに教師に「大学に行ったほうが良いぞ」と勧められ、なんとなくそれが良いなと思ったということが進学の理由であった。一念発起して受験勉強を始めたが大した成績の向上はなく、首都近郊の大学に滑り込みで合格したもののやはり授業にはついていけなかった。


要領も悪かった。彼のように御頭のよろしくない学生の多くは先輩から期末試験の過去問を入手したり、同学年の真面目な学生になかば無理矢理にノートやレポートを写させてもらうなどして単位を取っていた。しかし神室彩月に関してはそのようなことは出来なかった。彼は社交的ではなかったからだ。


さらに無能なくせにプライドは高いので、「他人からノートを写させてもらって得た単位など無意味だ、自分の頭で考えて単位を取る」と思っていた。それも思っているだけで実際の彼の生活行動の中に勉学はほとんど組み込まれていなかった。授業こそはそれなりに出席していたものの、常日頃から未成年でありながら飲酒を繰り返し、酔った勢いにまかせて女の子に迫り、いかにして性交に及ぶか、だけを日々考えていた。合コンがあれば片道数時間かけてでも出かけていき、その日は自宅に戻らないことは当然であった。目当ての女の子が見当たらなかったならば、酔いに任せて町中を行き交う女子に片っ端から声をかけて行くことも度々あった。


そういう背景があるがために、実際は「他人からノートを写させてもらった不まじめな同級生」のほうがよほど勉強もしていて頭も良かったのが事実だ。それでも彼は「ノートを写すやつよりはマシ」と信じていた。それだけを心の拠り所とした。


現在、二年次に上がり、一年次でそのような生活を続けた負債を精算しなければならない時期が訪れていた。一年次で落としたほとんどの授業は二年次で取らなくては進級できなかった。


留年したら母親は大学を辞めさせるだろうな、働けと言うだろうな。彩月は常々、そう戦々恐々としていた。馬鹿なりに自分の今の身分は学生であることと実家からの仕送りで成り立っていることだけは理解していた。最低限の今のご身分を維持するために必要な要素とはなにか、はちゃんと理解していたというわけだ。


だから、そろそろ行動せねばならぬなぁ、とは思っていた。


思っているだけだった。


その証拠に、先程彼女から別れを告げられて悲しみに浸っていたはずなのに、今は外の芝生の上で弁当を食べている女学生の足を眺めながら次の女子を品定めするようなことを考えている。手をつないで唇を合わせたらどの様な反応を示すだろうか、首筋や髪はどんな匂いがするだろうか、ベッドの上でどのように喘ぐのかとゲスな妄想をふくらませるのみであった。


そんな体たらくで進級ができるだろうか。できるわけがない。それは自身でもよく分かっていた。それでも彼は焦ることがなかった。勉学に関してはギアが入ってエンジンが温まれば少年漫画の主人公のようにミラクルな才能を発揮して勉学がスイスイと進み、鮮やかに全ての停滞していた授業を「優」、悪くても「良」で単位取得できるだろうと本気で信じていたのであった。ギアされ入れば。エンジンさえ温まれば。今はまだ休むときだ、と。そう考えていたのだ。


ここまでの記録からは神室彩月はどうしようもないダメ人間であるな、という評価が下されるであろう。しかしながら、このような一連の思考機序は神室彩月にとってのみ特有のものであるかというと、そういうわけでもなかった。特に、自分の能力を客観視出来ず過大評価するというのはこの時代の若者には珍しくない特徴であった。別段類まれな才能も無いのに、自分は凡人とは異なり、いずれはミラクルな花を咲かせてちやほやされるはずだと盲信している若者は探せばすぐに見つかる程度の数は存在していた。彼らの多くは、自分自身と瓜二つの人間を探しては、「ダメ人間だな」と笑いながら、自分は駄目ではないのでいつかあるべきところで花開く人間だと信じている。


しかし実際に現段階において花開くことがないのは社会や自らが属する組織が悪いのであって、適切な場所に置かれれば俺はミラクルな花を咲かせてブライトフルに輝くことができる。そう考えるならば、早く「適切な場所」に身を置こうとするのではないか?−−−−と思われるかもしれないが、実際にそうすることはない。


時が来れば自分が一切労せずとも、おせっかいな爆乳で童顔のかわいい魔女が空から落ちてきて自分をブライトフルに輝かせる世界に転送してくれるはずだと信じていた。そのような夢物語を扱った文学作品や漫画の類は飛ぶように売れた。中には、「それは因果が逆であって、本当はそのような創作物に慣れ親しんだがために自身の人生についても同様であろうと勘違いしてしまったからだ」と論評する人も居た。真偽の程はどうか分からないが、それをはっきりさせた所で全く不毛である。


しかし。この日の神室彩月はほんの少しだけ、いつもと違っていた。それは本日まで付き合ってきた鳴海ねねに別れを告げられたことによる傷心も理由の一つかもしれない。ねねは口うるさかったが、顔が好みだったしおっぱいもデカかったなあ、俺が折れてたら今もまだ俺の彼女だったかも知らん。と後悔する気持ちを振り切るように教科書を持って図書室へと向かったのだった。試験まではひと月をわずかに切っていた。


図書室で教科書を広げ、イヤフォンを装着して外界と自分の精神を切り離したつもりになった。大脳の深淵で自室のベッドの上で半裸になった鳴海ねねが誘っているのを断ち切ろうとしたのだった。


解析学Iと書かれた教科書の二十ページ目をめくり、1階常微分方程式、なるものの練習問題を解くことを試みた。流石に工学部に所属しておるのだから、いかに頭の悪い神室彩月であっても、微分や積分という概念や言葉があることは分かっていた。しかしそれ以上のことは何一つ分からなかった。「微分方程式の一般解を求めよ」、という問いの意味が全く理解できなかった。


そんな頭脳でどのようにして大学に入学できたのだと不思議に思う方もおられることと思うが、神室彩月も大学入学時点では少なくとも今ほどには落ちぶれていなかった、というのが真相であった。しかし1年次に遊び呆けていたので高校生の頃よりも学力は低下していた、と、このような単純な因果である。


本日は解析学Iを完璧にしようと息こんだ彩月であったが、蓋を開けてみると自分が何もわからない、理解していないということを理解しただけであった。気づくと窓からは斜陽が差し込み、世界がオレンジ色へと変貌していた。夕日を見て彩月は泣きそうになった。ねねちゃんは行ってしまった。ボク、留年しちゃうよ。


「大丈夫だよ。さっちゃんはやればできる子だよ」


などと無根拠に頭を撫でてくれたねねちゃんは愛想をつかせて行ってしまった。


留年したら親からの仕送りは断ち切られるだろう。すると俺はもう大学にはいられない。大学に居られなければどうなるのか?高卒で働かねばならぬ。高卒でまともな給料を払う会社は少ない。労働者派遣法が改正されて企業は正社員採用を絞っている。その数少ない正社員採用枠を争っているのが大卒の連中であって、俺は安月給で派遣社員として働くほかない。そんな惨めな生活を死ぬまで続けるならば、俺は今ここで死ぬる。そう図書館から夕焼けを見て思ったのであった。


ただ真面目に勉強して単位を取ればよい、とそれだけの話であるのに、こうして社会だの何だのと思考の境界を押し広げて悲観的に考えて自暴自棄になってしまうのもこの時代の若者ではよく見られる心理反応であった。


ここで注意したいのは、親からの仕送りが止まったとしても大学を止めろと言われるわけではないということだ。例えば、アルバイトをして学費を稼ぎながら卒業するという方法だってあるにはある。それをすっ飛ばしてなぜ自殺などという極端な結末に至ってしまうのか。そんな面倒をするくらいならば死んだほうがマシだと思うのである。本来、ブライトフルで優秀なボクは安月給で社会のお荷物グループに混じってアルバイトなんかするべきじゃないとすら思っている節があった。


つくづく甘い男であるが、しかし、この時代の男子学生ではこうした考えの持ち主をしばしば見かけるということは、公平を期すために付しておこう。しつこいが。


神室彩月の進級がどうなったのか。結論から言えば進級はできた。


そのために神室彩月は1ヶ月ほど、冬眠を控えた土竜のように自室に篭り、教科書の問題を何十回も繰り返し解き続けた。押入れの中から去年の期末試験の問題をかろうじて探し当て、それも何十回も繰り返し解いたのだった。脳に糖分を常に満たすためにスーパーで最も安いチョコレートを大量に購入し、そればかりを食べ続けた。そのために試験前後では体型が変わってしまった。


しかしその価値はあった。

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Factory on the Moon: 2030 yuri makoto @withpop

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