Factory on the Moon: 2030

yuri makoto

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要旨。


これは私が2000年代の春日国で何が起きたのか、取材したことをまとめた報告である。


そう、報告書である。後世、何があったのかを知る手がかりにするために、なるべく詳細に記したいとは考えている。とは言うものの、果たしてどこから話せば良いのか…。どこまで記すべきか。その全体像を記すには書くべきことがあまりにも多すぎる。


話す年代を限定することとしよう。この報告では特に2010年代後半から2030年にかけての出来事を取り扱うこととする。


2010年代の終わり頃から、この国はおとぎ話の世界に迷い込んでいた。


しかしそれは春日国が特異であったというわけではない。世界全体でそのような傾向にあった。


新しい価値観が世界に蔓延した。機械に頼ることを止めて、プリミティブでシンプルでミニマルな生活をしようというムーヴメント。全ての場所で均一に性別を消失させることに固執した新しいジェンダー平等論。「大きな政府」を超越して無制限に国民を保護すべし、結婚相手と幸せな家庭まで国家が世話をすべしとする福祉国家論。カリスマ的な経営者によって率いられた新しい工業製品とサービス。そしてその狂信者。


それらは何ら実態を伴った主張ではなかった。


多くの市民は企業が不正な方法で資産を貯留して労働者に分配しないと信じ込んでいたし、上級国民は不当な既得権益を得ていて犯罪を犯しても特別な恩赦がなされると妄想していた。世間には不正義があるから正さなければならない、不正義を正義によって正せば私の人生が向上すると本気で信じていたし、そういう言葉を言う人を皆が信用した。私が聞くと心地よいことをこの人は言っている。だからこの人の言うことが正義なんだ。すべての人が多かれ少なかれそのような思想を持ち合わせていた。人々は自分の頭で考えるのを止めた。答えはインターネットで検索した末にたどり着くものであった。


私の理想、私が感じる心地よい言葉。あってほしい世界。正しいと感じる世界。曖昧な概念が世間に流布して高浸透性の潤滑油のように薄く、均一に、無味無臭の液体を伴って広がっていった。


それらは一部の人々の間で「理想とすべき姿」として認識して語られた。個々人が各々のユートピアを待ち望んだ。そのユートピアはいつか「当然そこに今あるべきもの」に変貌した。しかし、彼らにとってユートピアとは自分の足で歩いていくものではなく、ある日突然空から降ってくるものであった。人々はある日突然別世界で人生をやり直し、何の苦労を経ることもなく理想の異性や就業上のポジションに就いて活躍する夢物語を愛した。


そしていつしか現実的な恐怖から目をそらし、我々はすでに理想郷に生きているのだと盲信するようになった。そしてその理想郷と現実のギャップを見る度に人々は政府が悪い、企業が悪いと自分以外の誰かを批判した。我々一般市民の生活苦は大衆以外にその原因が存在するという理論は多くの人にとって口当たりがよく、やわらかでしっとりとした口当たりのスポンジを搾りたての生乳で作った生クリームで包み込むかのような優しい論理であった。それが真実であるかどうかという検証は不要であった。なぜならば私が信じたいことが正義であって真実であったから。人々は目を隠し考えるのをやめた。


「何が正しいか」ではなく「誰を信じるか」が主要な議論に変貌したら、おとぎ話の国へ向かう潮流は決定的なものになった。以下は当時、世界中の一定数の人々によって信じられていた与太話の一部だ。


- 国境に某国の数万の軍隊が秘密裏に展開されている

- 2020年代の技術で人工的に地震を発生させることが可能であり、政府は兵器開発を進めている

- オーバーレイと呼ばれる秘密結社が主要先進国を裏で率い、児童を虐待することで抽出できる血液製剤を販売する非人道的な製薬関連企業に対して攻撃を行っている

- 片山弘幸(極論しか言わない泡沫候補だ)がアストリカ大統領になれば春日国の国民に6億円が分配される


それを教育の敗北と言う人も居た。一部の人間が信じている陰謀論であって、まともな人間は取り合わないと言う人もいた。しかし言うだけでは何の解決にもならなかった。最初は皆がそんな事を信じるのは馬鹿だと笑っていた。その裏で自分で考えることを放棄し、結論の導出を「私が信じる誰か」に委譲した人々は徐々に増えていった。そうした人々が増えてしまうと、もはや大きな流れは誰にも止められないものとなった。最初に与太話だと笑っていた人々は、すぐに笑えなくなった。


そうしたことがあって、世界では今までの民主主義がうまく働かなくなってきた。つかの間の平和を実現していた世界は、再び綻び始めていた。

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