1950年11月のある兵士

名瀬口にぼし

第1話 1950年11月のある兵士

 アリョンは幼いころ、雪遊びが好きだった。

 蔚山ウルサンはあまり雪が降らない土地なので、積もった日には友達とはしゃいで走り回った。まっさらな雪に足跡をつけて歩くのは、子ども心に特別な高揚感があった。

 だがあの六月二十五日ユギオの後の半島にいるアリョンにとって、そうした冬はもう遠い記憶でしかない。


 ◆


 一九五〇年十一月末、朝鮮戦争が始まって約五ヵ月。アメリカ軍を主体とする国連軍は一時は釜山プサンまで追い詰められたが、仁川上陸作戦をきっかけに反撃を次々と成功させ、十月には三十八度線を超えて平壌ピョンヤンも陥落させた。祖国は統一間近で、戦争はもうすぐ終わるはずだと上官は言った。


 だが上層部の明るい展望とは裏腹に、アリョンのいる軍団は敗走し、敵地の雪深い山で散り散りになっている。

 アリョンの所属している韓国第二軍団は、中国との国境である鴨緑江アムノッカンに向けて山岳を進軍中だった。だが突然現れた中国兵との戦闘により、第二軍団は総崩れになったのだ。

 北朝鮮の援軍としてやって来た中国兵は、日が落ちて暗くなった夜に、けたたましいラッパと銅鑼の音とともに攻撃を仕掛けてきた。知らぬうちに退路は断たれていて、後退しようとした先にも大勢の中国兵がいた。


 アリョンは何が起こっているのかよくわからないまま、暗闇の中で脇目もふらず敵から逃れた。そして気付けば見知らぬ土地の雪山で、アリョンは一人になっていた。


(朝になっても道はわからないし、味方の姿も見えないな……)


 アリョンは葉の落ち切った木々を見回しながら、疲れ切った足どりで厚く降り積もった雪を踏みしめた。

 冬の始まった北の山岳は寒く、日が昇ってもなお空気はかなり冷たい。アリョンは南の海沿いの村に生まれたので、取り戻すべき祖国の領土であるはずの土地であっても、この雪山は異国のようなものだった。


 生まれてから二十年少々、アリョンは何のとりえもない、だけど特別駄目なところがあるわけでもない平凡な男として人生を歩んできた。何となくで軍隊に入ってから後も常に誰かの後ろについて行動してきたので、ほとんど学校の延長のような気分だった。先生が上官に変わっただけで、何も考えずに日々他人に従い続けてきた。

 だから敵地でたった一人になり、生き延びるために決断を下さなければならない状況に立たされ、アリョンはどうしたらいいのかまったくわからなくなっていた。


(アメリカ軍の偉い人はクリスマスには勝って凱旋だと言ってたらしいが、本当にうちの軍は勝ってたんだろうか)


 国連軍の総司令官のマッカーサーは東京に住んでいて、あまり戦地には来ないと聞く。紙の上の状況だけを見ていれば勝っているように見えたのかもしれないが、中国兵に怯える末端の兵にはその楽観はまったく理解できない。

 吐く息で手を温めながら、アリョンは自分たちを死地に追いやった権力者たちを呪った。手袋をしていても、指先は芯から痺れるように冷たかった。

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