第13話

 朝早い時間であるけれど、母は起きていた。母は父との生活をこなしているのだと実感した。私と同じように父の弁当を作ったのだろう。母は介護の仕事をしている。娘の心すら読めないくせに、よく他人の世話が出来るね。いやある程度鈍くないとできないのかもしれない。母はいつも疲れていた。

 スマホが震えた。メールだ。予想通りそれは母からだった。なんで電話を切ったのとでも書いてあるのだろうかとおそるおそる開くと、件名はなく、本文に


[美優は弱い子なんだから、無理しないでいいのよ]


 と一行だけあった。

 ああ、私の選択は間違っていなかった。母は私を理解してくれない。私がほしい言葉をくれない。母から離れてよかった。二人が幸せになるためにも一緒にいてはいけない。

 私は気がついた。夢の中の母が坂の上に私を置き去りにしたのは正しい行動だったんだ。一緒にいたらつらくなるのだと教えてくれていたんだ。

 私は捨てられていなかった。

 母のメールは私を悪意なく傷つけてはいるものの、私を心配してくれている。私は、私の求めていた形でないにしろ母からきちんと愛されていた。

 それだけで充分だ。今はそれ以外いらない。

 夕方、時間通りにバイトにいった。バイト先のコンビニは徒歩二十分ほどで着く。いつになくすっきりとした気分だった。バイト中はなにも考えずに淡々と品出しをしたりレジを打ったりした。私を縛る糸が消えたのだと知った。もう、私は母に捨てられるという妄想に悩まされなくていいのだ。母が私を捨てたのではない。私が母を捨てたのでもない。お互いがよく生きるために離れているのが今できる正解だというだけ。時間が経てば母を笑顔で迎えられる日が来るかもしれない。あるいは永遠に来ないかもしれない。

 あの母が簡単に私を理解するとは思えない。ただ私が知っていればいい。

 この先、礼資とどう生きるかもわからない。少しずつ。ひとつずつ、積み重ねないといけない。私はやっぱり礼資を可愛いと思う。それが愛なのかわからない。でも一緒にいたい。

 バイトが終わったのは二十二時だった。まとわりつくような夜空にいくつかの星が見える。生ぬるい風が少し怖い。私は走って帰った。

 家にはもう礼資が帰ってきている。玄関で靴を脱いでいると、「おかえり」と礼資がやってきて私にキスをした。私の顔を見て微笑んだ後、なだめるように私の頭をなでた。

「鍵は返してきたから大丈夫だよ」

「本当に?」

「うそじゃないよ。昨日もいったろ。押しつけられただけだって」

 なんであんなに動揺していたのかいろいろ問い詰めると、職場のバイト先の大学生に告白されたのだという。担当の場所が近く、いろいろ教えてあげることが多かったから、と礼資は照れくさそうな顔をしながらいった。そのことを黙っていたことや、ほんの少しでもその女子大生の奔放さに惹かれていたから罪悪感があったために動揺したらしい。

 その鍵は女子大生に無理に渡され、返そうにも、「遊びでもいいので」といわれ、呆然としているうちに走って去られてしまったと。

 今時の子ってあんなんなの? 怖いわ。と茶化して笑う礼資の本心はわからない。

「じゃあ、信じてあげる」

 私も少し茶化していう。抱きつくとまた頭をなでてくれた。

「不安にさせちゃってごめんな。俺、けっこう美優に愛してるって伝えてるつもりだったけどな。ほんとに、愛してるよ」

 優しいぬるま湯。溺れていてもいいのだろうか。信じてもいい?

 私に、この人は生きていてほしいんだ。

「礼資、私ね。礼資のこと、大好きだよ」

 まだ「あいしてる」といえない。口をあ、の形に開きながら、だいすきとむりやり発音した。愛してほしい。でも愛し方がわからなかった。

 少しずつ。ひとつずつ。積み重ねて、彼と向き合って、本当に「愛してる」といえるように。手探りだ。

「大好き」

 この気持ちは嘘じゃない。自分以外の気持ちはわからない。でも少なくともこの気持ちだけは私が認識できる最も正しいものだ。たとえこの世界が偽物だとしても、自分の中の本物だけは見失わないようにしないといけない。

 抱きついた彼のぬくもりは、間違いなく本物なのだから。

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私は坂の上 藤枝伊織 @fujieda106

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