葉桜の由来[完全版]

蓬葉 yomoginoha

葉桜の由来

 前書き




 去る八月の半ばに亡くなった曾祖母は、幼いころから日記をつけていました。

 曾祖母が生まれたのは昭和二年、1927年のことで、それから亡くなるまで欠かさず日記帳に一日の出来事をつづっていたのです。


 日記の始まりは昭和六年の一月。つたない文字で次のようにあります。

 

 おとうさまがにっきお(を)しゆうかん(しゅうかん)とせよとゆうのでまいにち

 かく むかしのさそく(きぞく?)もにき(にっき)お(を)かいたらしい きよ

 う(きょう)はれだった

 

 かっこの中は、後に曾祖母が注として追記したものだそうです。曾祖母は自らの生きた記憶を時折見返しては誤りを修正し、またその時代に思いをはせていたということです。自ら記したものに注釈ちゅうしゃくをつけるなんて、なんて不思議な営為えいいでしょう。


 この日記には、今や教科書でしか知りえないようなことも記されています。 

 例えば、日記を始めてから一年後の五月には次のような記述がありました。

 

  五月十五日 はれ ていとでいぬかいしゅそう(しゅしょう:犬養毅《いぬかい

  つよし》首相)がぐんたいにさつがいされたそう。お父さまやおじさまはつぎは

  だれになるんだとはなしている。ぐんたいってなにときくと、お父さまはたたか 

  う人たちだとおっしゃった。しゅそうとたたかったのかときいたけれど、お父さ

  まはなにもおっしゃらなかった 和子わことりんごをたべた

 

 いうまでもなく五・一五事件の記述です。

 

さらにそれから数年後、尋常じんじょう小学校に通う頃には、日々の執筆の賜物たまものか、おそらく同年代の児童とは比べ物にならないほどの文筆ぶんぴつ能力を身に着けていきました。記述も長く、かつ詳細になっていきました。

 

  二月二十六日 くもり。 遠い帝都ていとで大事件が起きたらしい。オカ田

  首相(岡田啓介。なぜここに記したか不解。当時は死亡説が流布るふしてい

  たか。実際には首相の義弟の松尾伝蔵という秘書が誤って殺害されたそうで、岡

  田首相は生存)、サイトウ首相(斎藤実さいとうまこと前首相)、マキ野大

  じん(牧野伸顕まきののぶあき前内大臣。なぜここに記したか不解。当時は

  死亡説が流布していたか。実際は生存)、スズ木じゅじゅう(じじゅう)長(鈴

  木貫太郎すずきかんたろう侍従長じじゅうちょう。重傷だったが一命を

  とりとめた。戦争終結時には総理大臣)、渡辺教育そうかん(渡辺錠太郎《わた

  なべじょうたろう》教育総監)、高橋大じん(高橋是清たかはしこれきよ

  蔵大臣)が殺されたらしい。前の日記に、同じようなことが書いてあった。げん

  えきの首相が殺されるのはこれで二回目。東京は大丈夫なのか。先生は非常事能

  (態)とおっしゃった。くわしく聞くと、ここ数年、政府のえらい人がころされ

  る事件が多いという。名前はわすれたけれど、首相が殺されることもしばしばと

  か。わたしが生まれる前にもおなじようなことがあったのかもしれない。

  父は、サイオンジ公も殺害されたらしい(西園寺公望さいおんじきんもち

  元老とよばれる。実際には襲撃を逃れた)、陛下はどうなさるのかとこの事件に

  きょうみしんしん。

  妹たちはよくわからないという。母も政治のことはわからないという。 

  

  和子わこが泣くので、しかたなくいもを分けてあげた。 夜になってにわか

  に雨がふった

 


 わたしが当時の曾祖母と同じくらいの歳だった時には、きっとここまでのことを書くことはできなかったでしょう。曾祖母の賢さの一端を垣間かいま見たような心地になりました。

 

 さて、上の二つの記事を読むだけでも、曾祖母の日記は、自分から遠く離れたことか身の回りのことかの遠近感の違いはあるとしても、対象としていることがわかると思います。ここでは省きますが、他にも戦時中の勤労動員きんろうどういんや戦後の混乱の記録もあり、おじの復員や妹との病別などの記録もあります。


 日記の本質はそういうものだとは思うのですが、一つだけ、その本質を逸脱いつだつした、不思議な記述があるのです。

 それまで、そしてそれ以降もない、思わず眉をひそめてしまうような記述が突如とつじょとして現れるのです。

 その記述があるのは戦時中、昭和二十年の春から初夏にかけての短い期間なのですが、ほんとうにそこにあることが真実なのか空想なのかはわかりません。

 

 そこで、わたしはあえてその箇所を小説という形にすることで、その是非ぜひを考察したいと思っています。

 なぜそんなことをするのかは、皆様からすればきっと大した理由ではないのですが、全てを完成させた後に記したいと思います。



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 ※以下はわたしが曾祖母の日記をもとに作成した、ノンフィクションに限りなく近い(と自負している)フィクションです。

 



 仮題[葉桜の由来]

                                                            

 春だということを忘れてしまうくらい暑くなった夜、私は藍色の浴衣を着て神社に向かった。

 変なところがないか鏡で何度も確認し、約束の時間ギリギリで鳥居の前に行くと、彼はすでに到着していた。


「ごめんなさい。おくれてしまって……」

「いやいいよ」


 彼はやわく笑んで言った。そして私の出で立ちを脳天から爪先まで凝視ぎょうしすると、数度頷いて言った。

「よく似合ってる」

「ほんとうですか?」

「うん。ほんとうに綺麗だよ」

 私は、顔を下に向けてしまった。面と向かって綺麗だと言われたのは初めてで、とても恥ずかしかったのだ。

「行こうか」

 甚兵衛じんべえ姿の彼が、私に手を差し出す。その手を軽く握り返し、長い石段いしだんを上った。

 

 

 神社の創建を記念した祭りは、戦時下という時世柄じせいがら、当初は中止も検討されたそうだが、結局規模と時間を縮小して開催されることとなった。本殿の方から笛やしょうや、つづみの音が聞こえる。


「意外とちゃんとやってるじゃないか」

「ええ。そうですね」

「どうする。何か、食べるか?」

「そうですね……」

「それとも、あっちがいいかい?」

 彼が指をさす方には、桜の綺麗な堰堤えんてい》がある。今はもう桜の花は散ってしまったが、私と彼が会うときは決まってそこを歩くのだ。

 わたしは「ええ」と頷いて彼を見上げた。



「足元気を付けて」

 そう言って彼は手を差し伸べてくる。

「ありがとうございます」と返事をしてその手を握る。

 静かな笛の音と川のせせらぐ静かな音が、涼しい雰囲気をかもし出している。

 しかし、握った互いの手のひらだけは、確かな熱を持っていた。


 一歩一歩を踏みしめるように階段を下る。木々が揺れる。一寸先は闇という言葉を体現たいげんしているくらいに薄暗い。

 一人だったならこんなところには来れないが、彼が手を引っ張ってくれるから、どこまでも行けるような気がした。


 土手の下を見ると、北から流れてくる大河が静かに流れていた。

「夜の葉桜も、綺麗だな」

 下を向く私の隣で、彼は頭上の桜を見上げていた。

「光次郎さんは、本当に、葉桜がお好きなんですね」

「そうだな……。桜の花も好きだが、散った後の姿もとてもきれいだと、僕は思うんだ」

「変な、ひとですね」

 そう言うと、彼はふっと笑った。気分を害した様子もない。本当に鷹揚おうような人だ。

実和みわさん」

 彼の微笑みに笑い返していると、突然彼は私の方を向いた。

「はい」

「この前の話だが、なかったことにしてほしい」


 



 一瞬強く風が吹いた。

 同時に今まで遠く聞こえていた楽器の音や、足元の虫とかえるの声が、聞こえなくなる。まるで私たちの会話に気をつかっているかのように。


「どうして、ですか」

「やっぱり、君に僕は釣り合わないよ。僕は、農家の次男坊に過ぎない。君は銀行員の娘。生きる世界が違うんだ」

「……」

「だから……」

「待ってください。光次郎さん」

 

 彼の声をさえぎって私は言った。

「悪いが、もう」

「私が今更そんなことを信じると思いますか?」

 彼は顔をそむけて目を合わせようとしない。その仕草こそが、彼が本心を言っていないことの証明だった。

 わたしは彼の視界に回って、無理やりに彼を見上げる。

「バレバレですよ。そんな嘘」

「そんなことはない」

「いいえ嘘です。だって、初めて歩いたとき、言ってくれたじゃないですか。家柄いえがらとか立場とか関係ないって。ただ僕はあなたを愛してるって」

「……」

「気が変わったのなら、素直にそうおっしゃてください。私、諦めますから」

 そう言うと、彼は頭を振った。そこを明確に否定するなら、なぜ。

「だったら……」

 次は私の声が遮られる番だった。

 彼は川の音や桜の葉が落ちる音に消されてしまいそうなくらい小さな声で、言った。


「召集命令が、来たんだ」





 戦争は長期化していた。

 初め、中国方面だけだった戦線は、いまや東南アジアや南洋諸島の各地にまでも拡大していた。その余波よはを受けて、寺からはかね徴収ちょうしゅうされ、食料は配給制になった。「皇国のために」、「御国のために」、そんな言葉が、さながら枕詞まくらことばのように生活に浸透していた。

 しかし、それでもどこか戦争は他人事だった。自分の命や生活の深くにまで貫入かんにゅうしてくるものではないと、勝手に思っていた。


 その戦争が、今、目の前に厳然げんぜんたる現実として立ち塞がっている。


「い、いつですか」

「昨日の朝方、電報でんぽうが来たんだ」

「そうじゃないです……! いつ、出征ですか……」

「一週間後には出発しなければいけない」

「そんな……」

「戻ってくるかもわからない男を待ち続けるのはつらいだろう。君にとっても」

 苦々しい顔で彼は言った。

 そんなことないです。私はそう即答できなかった。彼を待つのが辛いわけではない。しかし、まだ理解が追い付いていなかった。

「君の幸せのためにも」

 呟くように続ける彼は、ふと、不自然なところで言葉を切った。夜闇よるやみで、ただでさえ見えづらい彼の横顔が歪んだ。


「私の幸せは、あなたと一緒にいることです。なにがあっても、あなたといることです」


 せきを切ったように涙があふれる。涙はぬぐっても拭っても止まらない。

「……ごめんなさい。ごめんなさい……」

 にじんだ視界が急に黒くなる。私の背に、彼の腕が回っていた。

「謝るのは僕の方だ」

「光次郎さん……」

「僕の本意じゃない。けれど、こんな形で別れることになってしまったことを、許してほしい」

 彼の言葉は震えていた。私を抱く腕も震えていた。

 悲しさからなのか、それとも悔しさからなのか、それは私にはわからなかった。

 風に揺れた葉が一枚木を離れて、川の流れに落ちていく。その一瞬、見上げた景色に、涙をこらえる彼のつらそうな横顔が映る。

 私は見なかったふりをして下を向きなおした。

 すっかり日の落ちた闇の中、私は彼を強く抱きしめた。彼も強く抱きしめ返してくれた。



 祭りばやしの音は、もはや何一つ耳に入らない。

 私たちは結局、何も決められなかった。別離も、関係の継続も、保留も、何一つ決めることはできなかった。

 神社の鳥居の前までの歩みの中、私たちの間に会話はなかった。


「じゃあ」

 彼はきびすを返す。私はそんな彼の甚兵衛のそでをつかんだ。

 それでも、心の中の、ただ一つの、決断を伝えたかった。

「うん?」

「出立の日には、お見送りに行きます」

「……うん」

「必ず、参りますから」

「ありがとう」

「光次郎さん」


 私は上目遣いで彼を見た。彼は了解したというようにわたしの方に顔を近づけて、深く口付けをした。

 何も決断できなかったことをごまかすかのような、そんな口付けだった。

 顔を離して数瞬、彼は柔く微笑ほほえみ、身体も離した。

「じゃあ、そろそろ」

「はい。……また」

 今日だけは、意地でもさようならとは言いたくなかった。それを言ってしまったら、すべてが終わってしまう気がした。



 けれど、そんなところで意地を張るくらいなら、あなたと別れたくないという言葉に意地を張れればよかったのに。

 いつものようにゆったりと歩く彼の後ろ姿は、普段よりも小さくなってしまったように見えた。




 

 「ただいま帰りました……」

 ささやくような声量で私は玄関の扉を引いた。


 今日は特例で、門限をいつもの七時から九時に変更してもらっている。今は八時半だから何も問題はないのだが、つい癖で声を細めてしまう。


 居間の電気は消えていた。我が家は夜が早い。母も妹ももう眠っているのだろう。

 すり足で妹たちとの共有部屋に入る。案の定、妹たちはもう眠っていた、が。


「あれ、和子わこ……?」


 思わずまゆをひそめる。寝息を立てていたのは三女のサクと四女の彬子あきこだけだった。

 手提てさげを置いて部屋を出る。


 二つ下の妹、和子は生まれつき身体が弱く、今も週に一度は医者の世話になっている。そんな妹が歩き回るとは考えづらいのだが。

 浴衣ゆかた姿のまま廊下を歩くと、庭に向いた縁側に座っていた。

「和子」

 そう声をかけると、彼女は私の方を向いて笑った。


実和みわ姉さん。帰ってたのね」


 月の光を浴びた白い笑顔。一つ安堵あんどの息をついて、私は和子に言う。

「駄目じゃない。こんなところにいちゃ。ほら、部屋に……」

「姉さん、何かあった?」

 しかし、和子はそんな私の言葉を遮って言った。おかっぱよりわずかに伸びた漆黒しっこくの髪が揺れる。


「何が?」

「気のせいかしら。なんとなく様子がおかしいようにおもったんだけど」


 私はまたも即答できなかった。けれど、黙ったままだと肯定したも同然になってしまうので、私は笑みを張りつけて隣に座った。


「何でもないわ」

「ふうん。そう。姉さんが言うなら、そうなんでしょうね。姉さん、わたしに嘘ついたりしないものね」

「そうよ」

 彼女と目を合わせず、私は空を見上げる。浮かぶ月にちょうど雲がかかるところだった。


「たなびく雲の絶え間より、もれ出づる月の影のさやけさ、ってやつね」

「何言ってるの」

「姉さん、百人一首知らないの?」

「知ってるから言ってるの。それは秋の歌でしょ」

 そう言うと妹は満足したように笑みをこぼして立ち上がった。

「秋風のたなびく雲の……。雲の間から見える月のかがやきが綺麗。ね、何か障壁があった方が、より相手の存在がわかるってことかしら。姉さん、どう思う?」


 この妹はなにもかも見透かしているようなことを言う。私の今日の一部始終を見ていたんじゃないかと思ってしまう。そんなことはありえないのだけれど。


「さぁ」

 私は平静をよそおってそう言うほかなかった。

「姉さん」

 すると突然、彼女は私の手の上に自分の手を重ねた。光次郎さんのものとは違う、冷たい手のひらだった。

「何?」

 隣の妹はじっと私を見つめてくる。

 誰かに穴のあくほど見つめられるのは、たとえ同性でも妹でも緊張する。

「和子?」

 彼女は、浮かべていた笑みをいつの間にか消していた。どこか様子がおかしい。普段は大胆不敵というか、余裕そうな表情を浮かべているのに。


「どうしたの。何か、あったの?」

「……」


 黙ったままの和子は、肯定も否定もしなかった。ただ、なぜか、うつむきがちに唇をかみしめて、私に抱きついてきた。

「和子? 本当にどうしたの。変よ」

 さっきの彼との抱擁ほうようには程遠い、そっとかぶさるような軽い抱擁ほうようだった。ただ一つ、背に添えられた手の震えだけは同じだった。


 戸惑いつつ、私は妹の背に手を添える。微かに、病のかおりがする。

「お願い、このまま動かないで。少しだけ……少しだけでいいから」


 声まで震わせて、和子は言った。問いかけることはできたけれど、私はただ彼女を抱き寄せて、何も言わないでいた。

 言えなかった。妹の背負う重たい運命を思えば。


 妹は手を、腕を、呼吸を震わせて、けれど、泣き声は出さなかった。

 だから、きっと泣いてはいないのだと私は私に言い聞かせた。泣き顔を見せまいとしている妹にどうして泣いているの、などと聞くのは、野暮やぼというか、とても残酷なことに感じたのだ。


 どれくらい時間が経ったかわからない。妹は身体を離して、いつもの余裕げな表情で私を見た。

「浴衣、綺麗ね」

 今更の感想を、妹は呟いた。微かに赤みを帯びた瞳に気付かないふりをして、私は「そうでしょう」とだけ言って笑みを作った。


 月明かりの下で向き合う、悲哀ひあいを隠した私と妹はとてもよく似ている気がした。


                             

                             

 

 翌朝、妹はひどく体調を崩した。高熱のせいか起き上がることもできず、薄く瞳を開いて「叔父様……」とうわ言を繰り返すだけだった。

 そこにいたってようやく私は、昨晩、妹の様子がおかしかった理由を知った。


秀介しゅうすけおじ様、何も言わずに出ていかれたの。置き手紙があって。私と彬子あきこで三丁目の自宅も探したんだけど、いなかった」

 そう言ったサクは、唯一残されていたというその手紙を棚から取り出した。


  僕は、皇国こうこくにこの心血しんけつを注ぐことを決めました。この

  二年、大変お世話になりました


 男性には似つかわしくない、綺麗な薄い文字で、それだけが書いてある。

「叔父様も……」

「どこへいったのかはわからない。けれど、きっと軍に志願したんだろうって。和子姉さん、それですごく取り乱しちゃって大変だったのよ」

 サクは恨めしげに言うと、居間の方に行ってしまった。


 父方の叔父は、内務ないむ省の役人をやめてここに戻ってきたという変わり者で、立派な自宅があるにもかかわらず、この家のすみにある物置を自室に改良し、小説を書いて暮らしていた。

 父と母は、もっといい部屋を用意してやる、とか、三丁目の自宅の方が住みやすいだろう、とか、何度も言ったのだが、叔父は「僕は、こっちの方がいいんです」と笑うだけで、ずっとそこにいた。


 そんな変わり者の叔父だったが、物腰ものごしが柔らかく、ひょうきんな性格だった彼を、私たち姉妹は敬愛していた。


 そんな叔父ととりわけ親しかったのが和子だった。病のとこ、唯一といっていい彼女の趣味は本を読むことで、叔父が新しい作品が出来たと言うと、妹は必ず目を通していた。


「叔父様の小説が大好き」


 和子は叔父にそう言っていた。言われた叔父は、「ほめられるとうれしいものだね」と、おそらく本気で照れていた。


 ただ、私は感じていた。和子が好きなのは、作品だけじゃない、と。

 そしてきっと叔父も少なからず和子のことを意識している、と。


 一度叔父に聞いたことがある。

「せっかく書いた小説を、巷間こうかんに広めようとは思わないのですか?」

 すると叔父は、腕を組んで天井を見上げながら、いつもの微笑みをたたえて言った。

「世間様に見せるようなものじゃない。売るにも金と勇気がいるんだ」

「勇気?」

「もし、売れなかったら悲しいじゃないか。だったら、売らない。売らなければ、売れないことは無いだろう?」

 それは、あるいは本心だったかもしれない。けれど、私には、和子以外に読んでもらう必要はないと言っているようにも聞こえた。

 


(ね、何か障壁があった方が、より相手の存在がわかるってことかしら)


 日差しの強い中庭の縁側に腰かけて、昨日の和子の言葉を思い出す。あれは私に向けた言葉じゃなかったのだ。ただただ、自らの境遇を嘆くような、納得させるような、そんなげんだったのだ。


 うるみかけた涙を、上を向いて誤魔化す。どうして私まで泣きそうになっているんだ。

 瞳を閉じると、せきを切ったように思考があふれ出てくる。


 現実は漸進ぜんしん的に近づいてくるのではない。俄然がぜんとして接近してくるのだ。

 そして、一度起こってしまったことはもう、二度とは戻ることはできない。

 ちょうど川の流れのようなものだ。決して止まってくれなどしない。私たち人間はただ、その流れの中を彷徨ほうこうするしかない。


 しかし、ときに、その大河はぽっかりと渦をまいて、彷徨する人間を飲み込んでしまう。飲み込まれた当人はそれに気付くことは無い。気付いた時にはもう、戻れない深みに沈んでしまっているのだ。


 そんな、今まさにうずに飲み込まれようとしている人に、私たちは何ができるのだろう。腕を伸ばしただけでは、きっと何の意味もないのだろう。



 ……いやそもそも、私はなぜ、自分自身が飲み込まれていないという前提で考えているんだろう。


「はぁ……」


 ため息を吐いても、涙が頬を伝っても、下唇を噛んでも、爪のあとが残るくらいにこぶしを握っても、この悲嘆ひたんは消えそうにない。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




和子わこ姉ちゃん、大丈夫?」 


 すえの妹、彬子あきこ枕頭ちんとうに座り、和子の手を取って言った。

「んんん……う……うぅ……」

 和子は引かない熱の中でもがくようにうめく。

 頬に赤みがさしている。時折、こぼす咳が痛々しかった。


「彬子、そっとしてあげなさい」

「でも心配」

「大丈夫だから。サクと遊んできな」


 そう言って頭を撫でてやると、彬子は頬をふくらませ、私の膝を枕にして寝転がってきた。

 九歳の末妹は、まだ甘えたい盛りなのだろう。それは和子もサクもそうだったし、きっと私もそうだった。それを無下むげにされることの悲しさを長女たる私は知っている。


 お腹に顔を押し当ててくる妹の背を撫でていると、彬子は寝息を立て始めた。

 晩春ばんしゅんの、穏やかな朝だったが、数日来続く混乱は何も解決していなかった。



 あの祭りの日から三日ほど経った。隣村に住む彼とは、あれ以来会っていない。平生へいぜいから二日に一回会ったりするわけでもないため、何か特段の問題があるわけではないのだが、それはつまり、彼との関係に関して選択することが出来なかったという、あの日の最後から、何も進展していないままだということだ。

 しかし、彼の出発の日は、刻一刻と迫っている。もう私には、彼を戦地に送り出す事しかできないのかもしれない。

 


 手紙を残して出発した叔父は帰ってこない。

 変わり者の叔父のことだから、冗談だと言って帰ってきてもおかしくはない気がしたのだが、三日経っても帰っては来なかった。

 叔父の出立に関して、兄である父もまったく聞いていなかったらしい。叔父の知人に何か知らないかと聞いてはいるそうだが、結局消息は不明のままだ。

 ただ、駅頭で見かけた人がいたというから、電車に乗って師団しだんのある町に移動し、従軍じゅうぐんしたのかもしれない。


 叔父が出征しゅっせいした理由はわからない。手紙の通り、皇国こうこくに生きる男児として戦いたかったのかもしれない。それなら、私たちに止めることはできない。

 けれど、もし叔父と会ったなら、その頬をはじきたいと思った。

 


 和子の体調も悪いままだった。それどころか、日を増すごとに悪くなっていくようだった。

 医者は「危険な状態です」と神妙しんみょう面持おももちで言っていたが、仕事のある父と家事に追われる母に代わってずっと和子の側に居た私には、そんなことはもう、言われずともわかっていた。紅い頬、乾いてあざやかさを欠いた唇、浮き出たあばら骨を見ていれば、そんなことは、もうとっくに。


 額や首筋に浮かぶ汗を拭ってやりながら、妹の側に座っていると、時折妹が左手を天井に向かって伸ばすことがあった。

「うぅ……、叔父様……。叔父様……」

 そしてそう繰り返すのだ。


 平生へいぜいの余裕げな口ぶりや態度は、今や消え失せていた。

 かつてないほど弱っている妹を見ると、本当に胸が痛んだ。

 気休めだとはわかっていたけれど、そういうときは、彼女の手を握り、額に手を添えて言った。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 何が、と聞かれたら返事ができないほど根拠も理由もない言葉だったけれど、妹はそうしてやると微かに笑みを浮かべてまた昏睡こんすいに落ちるのだ。

 そして時間が経つとまた同じことを言い、また手を握って言ってやり、するとまた昏睡こんすいする。三日間、その繰り返しだった。

 




 配給のお米をサクと一緒に持ち帰る途中、サクがちょっと休もうというので、土手の草の上に座った。


「和子姉さん、いつよくなるの?」

 サクは膝頭ひざがしらに手を置いて座り、俯きがちに言った。

「今まで、あんなに寝たきりだったとき、なかったじゃない。一日寝たきりでも、大抵たいてい次の朝には目を覚ましていたじゃない」

「そうね……」

「私、姉さんが治るんだったら、ご飯いらない。全部、姉さんにあげてもいい」


 それは妹なりの決意だったのだろう。けれど、きっとわかっていたはずだ。そんなことで治りはしないということは。

 不意に太陽が雲に隠れた。


(何か障壁があった方が、より相手の存在がわかるってことかしら)


 三日前、和子が雲に隠れた月を見上げて言っていたことを思い出す。

 私たちの周りには今、その関係が溢れている。和子と叔父、私と光次郎さん、私と和子、妹たちと和子、妹たちと叔父、私と叔父、父母と叔父、父母と和子というように。


 障壁がなくても相手の存在を大切に思えるほど、私たちはできた人間ではなかった。失いそうになってから初めて慌てふためくような、そんな愚鈍ぐどんな人間だった。けれど、この世に生きる人の、いったいどれくらいが聡明でいるだろう。


 私は気丈きじょうに涙をこらえている、五つ下の妹の小さな背をでてやる事しかできなかった。




 家に帰ると、手紙が届いていた。差出人は国村くにむら光次郎とある。

「光次郎さん……」

 母に見つからないように部屋に入り、中身を取り出すと、筆圧ひつあつの強い彼の文字があった。

 頬が染まるような愛情表現の後で、私は現実に引き戻された。



『金曜の早朝に出発することとなりました。見送りに来ていただけたなら、とても嬉しく思います』



「金曜……」

 今日は水曜日。明後日には、彼は出発してしまう。

 国内の基地か、中国か、異国に浮かぶ島かはわからない。けれど、少なくともここではないどこかへ。

 手紙を机に置き、ため息を吐く。


 和子は今は静かに眠っているようだった。不安になってその胸に触れてみたが、きちんと鼓動はあった。

 今度は安堵あんどのため息を吐いて、私は机に向かう。

 見送りの日には、私の思いを込めた手紙を彼に渡したかった。どこへいっても、何があっても、必ず待っていると、そう伝えたかった。

 鉛筆を持って、書き出し部分に鉛筆の先を向ける。しかし、納得のいく文章が書けず、完成しては破き、完成しては破きしていると、もったいないよとサクから怒られた。

 試行錯誤を繰り返し、白い便箋びんせんに黒の文字群が並んだ頃には、もう陽は沈んでいた。

 

 書き終えて、腕を伸ばす。背後ではまた和子が腕を伸ばしていた。

「う……」

「和子……」

 熱にあえぐ妹の姿に、私はふと妙案を思いついた。いや、思い出した、というべきかもしれない。

 それはいつか読んだ小説のエピソードの、再現のようなものだった。鉛筆を持って、叔父の部屋に向かう。徹宵てっしょうでそれを書き上げようと決意した。


 

 翌木曜日。

 危ない状況だと言われていた和子が目を覚ました。まだ熱はあるようだったが、自力で起き上がれるくらいには回復していた。


「和子姉さんよかった……」

 サクが抱きつくと、「勝手に死んだりしないわよ」と和子は、いつもの笑みを浮かべた。

「まだ熱あるんだから、早く寝ときなさい」

「今まで寝てたんだからいいでしょう、ちょっとくらい」

「駄目よ。じっとしてなさい」

 そう言って私はあるものを差し出した。妹は浮かべていた笑みを引っ込める。

「……なにこれ」

「叔父様の部屋にあったわ。机の上に。最新作って、付箋ふせんまで貼ってあった。」

「……」

 和子は十枚ほどの原稿用紙の束を見つめたまま黙っている。

「叔父様の小説が大好きなんでしょう? なら、読んでみたらどう?」

「姉さん……」

「和子姉さん、おじ様おじ様ってずっとうなってたもんね」

「え……?」


 口をすべらせた彬子あきこの口を手でふさぎ、入口まで引っ張る。

「わたしたちはあっちいるから。ほらサクも」

 妹は原稿用紙を胸に抱いて頷いた。前髪のせいで瞳は見えなかったけれど、彼女は珍しく病熱以外の理由で頬を染めていた。



「実和姉さん、おじ様の作品、どんなだったの?」

 三人で居間に戻るとサクが言った。

「うん?」

「新作って。おじ様の」

「あぁ、私は読んでないわ」

「えっ。どうして」

「どうしてって……、だって和子あてのようなものでしょう? 叔父様の小説、和子しか読まないんだから」

「そうかもだけど……。何、姉さん眠いの?」

 欠伸あくびを手で覆って隠す私に、サクは言った。

「まぁ、少しね」

「昨日の夜、徹夜で手紙書いてたから?」

 何気なく、という様子で彬子が言う。

「……手紙なんて知らないけれど」

「嘘つき。破れ紙に書いてあったよ。私もあなたのことを愛してますって」

「……」

「実和姉さん、あれ恋文だったの?」

サクが眉を寄せた。私は焦燥しょうそうを胸に押し込めて彬子の手を取った。


「あとで何でも買ってあげるから。ね、その話は」


 人差し指を口に当てて示すと、彬子は「約束だよ」と小声で言った。

「ねぇ、実和姉さん、本当なの?」

「何が?」

「今の、彬子の言ってたの」

「何のこと?」

「え?」

「サク何言ってるのー」と棒読みで彬子が言う。どうやら懐柔かいじゅうに成功したらしい。私はほっと胸をなでおろした。

「えぇ……? 私がおかしいの……?」

 呆然ぼうぜんとするサク。その太ももを枕にして彬子はカラカラと笑っていた。





 夕方、母から和子が呼んでいると言われて、部屋に入った。

 和子は布団の上で起き上がっていて、私を見ると、例の笑みを見せた。


「和子、調子はどう?」

「まあまあよ。姉さん」

「そう。ならよかった」

「ちょっと、ここに座ってくれる?」

 和子は布団わきの畳を撫でて示す。

「いいけれど、どうして」

 そういうと、和子は反対側から、さっき手渡した原稿用紙を見せた。

「……それ、おじ様の」

「大丈夫よ。姉さん。もうわかってるから」

 和子は笑う。背筋に汗がにじむ感じがした。

「何の、こと?」

 とぼけても、きっともう無駄なのだろう。そうわかってはいたが、ついとぼけてしまった。

 和子は優しい笑みを浮かべて言った。

「姉さんが書いたんでしょう? これ」



 まさに、和子の言う通りだった。

 叔父が戻ってくればバレてしまうのはわかっていたが、まさか、こんなにすぐ気付かれてしまうなんて。

「いや……」

 違うと続けようとした私の声はすぐに遮られた。


「叔父様の文章じゃないことくらいすぐわかったわ」


「え? そうなの……?」

「色々おかしいところはあるけど、例えば、叔父様らしくない表現がたくさんあったわ。そりゃ、一つくらいはそういうのもあるでしょうけど、こんなにたくさんあると、もう違う人の作品って考えた方が考えやすい。それから、叔父様はあんまり国家に関することは書かないのよ。公務員の気持ちが抜けてないんでしょうね。書くとしてもかならず中立の立場で書くの。だから、政府せいふ転覆てんぷくむ無しとか、戦争は絶対悪とか、そういうことはまず書かないわ。書くとしてもぼかすでしょうね。それから……」

「も、もう、それ返して」

 急激に恥ずかしくなって、私は叫んだ。

「いやよ」

「どうして!」

 そう言うと、和子はふふっと優しい笑みを浮かべた。



「わたし、この作品好きだもの」



「え?」

「ふふっ」

 冷笑れいしょう交じりに怒られるかと思っていた。叔父様の作品をかたるなんて、と。

 しかし、和子は原稿用紙を抱いて満足そうに笑っている。小さかった頃、絵本を読んでやった時のように純粋な笑顔だった。

「ありがとう。姉さん」

「和子……」

 次の瞬間、涙が溢れ出した。理由はわからない。けれどぬぐっても拭っても止まらない。ここ数日、泣いてばかりだなと、少し情けなくなる。

「泣くことじゃないのに」

 そう呟く和子の声が聞こえた。



「でも、どうして私が書いたってわかったの」

「え?」

「叔父様が書いたものじゃないってわかっても、私が書いたとは断定できないでしょう?」

 すると和子は、あきれたように言った。

「そんなのすぐわかるわ」

「どうして」

「まぁいろいろあるけど、一番わかりやすかったのはクニの字が『国』になってたことかしら。叔父様は『國』で書くから、違うっておもったの。姉さん、日記で書く時もこっちの漢字使うものね」

「確かに……。……何で、日記の字がばれてるの?」

「あぁ……まあ、それはおいといて」

「いやいや」

「それにしても、流石さすがね、姉さんは。他人をよそおって小説書いちゃうなんて」

 無理やり遮った和子は、少し慌てたように言った。

太宰だざい先生の話の中では、手紙の擬装ぎそうだったのに。すごいわ。本当に。ふふっ」

 上手く誤魔化された気分だが、そう言われて悪い気はしなかった。日記をのぞき見されているのは不問にしてやろう。

「お気に召したのなら光栄です」

 和子は口元を隠して再び微笑んでいる。昨日まで辛苦しんくの表情を浮かべていたのが嘘かのように機嫌がよさそうだった。

「そろそろ夕時ね。何か作ってくるからちゃんと食べなさいよ」

 そう命じると、和子はこくんと小さな顎を引いた。

 

 部屋を出て、居間に戻る。

 割烹着かっぽうぎを着て台所に立つ母の後ろに立ち、「和子、元気そうでしたよ」と伝えた。

 普段は無口であまり感情を見せない母だが、包丁の動きを止めて一言「よかったです」と胸をなでおろしたように言った。

 


  そういえば、和子はパイナップルが好きだった。確か缶詰があったはず。あとで持っていってやろう。

 母の隣で夕餉ゆうげの手伝いをしながら、ぼんやりそう思ったときだった。  


 警戒の音が、町中をどよもしたのは。



「っ!!」

 私と母は同時にびくっと肩をふるわせた。


 いち早く母が包丁を置いて窓を開け、外の様子を確認する。そして私に「和子を!!」とだけ叫ぶと居間の方に走っていった。

 けたたましいサイレンが、響く中、私は部屋に駆けた。


「姉さん……!」

「逃げるよ和子!」

「ほかのみんなは!?」

母様かあさまと先に避難したと思う。早く私たちも!」

 恢復かいふくしたとはいえ、虚弱きょじゃく体質で素早くは動けない和子の身体をおぶって立ち上がる。

「あっ、待って姉さん!」

「何!」

「さっきの持ってかないと……」

「何馬鹿なこと言ってるの! そんなものまた書いてあげるから!!」


「違う! 日記よ! 姉さんの!」


「日記……?」

「姉さんの大切なものでしょ?書き直すことのできない、大切なものでしょ!!」

 一瞬、戸惑ったが、私はそれを振り払い、家の外へと走った。

「姉さん!!」

「日記なんていい。今は逃げるの」

「でも……!」

 何故かかたくなに訴える和子を今は無視して、家の裏手に作った地下壕ちかごうまで走る。遠くの空に、小さく飛行機が見えた気がした。

 背中の和子はもう何も言わなくなっていた。


 防空壕ぼうくうごうに滑り込み、既に避難していた母たちと合流する。

「実和さん! 和子さん!」

「母様!」

 サクと彬子は防空頭巾ずきんを被って小さく丸くなり、身体を寄せ合っていた。

「和子さんを!」

「はい!」

 背中から和子をおろして母に預ける。母に受け止められた和子はぐったりとしていた。

「和子、大丈夫?」

「ん……」

「口開けて」

 疲弊ひへいしている和子のわずかに開いた口に、水筒すいとうに入れておいた水を飲ませる。

「実和姉さん……」

 サクと彬子は、いつもの溌剌はつらつさが嘘かのようにおびえ震えている。

 そんな二人を、「ここいれば大丈夫だから」と私は抱きしめ、背中を撫でる。

 その時、外で爆音がした。地面が震える。「きゃあああっ!」とサクが叫び、彬子が泣きだす。私はそんな二人を固く抱きしめた。


「落ち着いて……」

「ううう……」

「怖いっ……!」

「大丈夫だから……」

 和子は母の手を握っている。その手がかすかに震えている。母は私と同じく和子に「大丈夫、大丈夫です」とささやいていた。

 

 それからまもなく、外からは何の音も聞こえなくなった。

「母様、ちょっと見てきます」

 私が立ち上がって言った。今動けるのは私しかいない。

「待って実和姉さん……!」

「まだ危ないよお姉ちゃん!」

 そううったえるサクと彬子の頭を撫でて、「大丈夫よ」と笑んだ。

「気を付けてくださいね」

 冷静に私を見上げて言う母に、私は深くおなずき返す。引き留めはしないものの、心配そうに私を見つめてくる和子にも「大丈夫」と言い、私はゆっくりと掩蓋えんがいを開けた。



 外の景色には、あまり変化は感じられない。幸い、家も破壊されてはいないように思える。

 身体を出して、外に出る。

「あ……」

 一瞬無傷だと思ったが、叔父のいた元物置や浴室が壊されていた。

 庭から家に入ると、ガラスが割れているところは随所ずいしょにあったが、幸い、共同部屋や両親の寝室、父の書斎しょさいや台所などは無傷だった。

 家の外の通りに回ると、あちこちでへいや家のかわら屋根が壊されてはいたものの、被害としては決して大きくはないように思えた。ほっと胸をなでおろし、私はきびすを返した、が。

「あっ……!」

 遠くに、また飛行機が見えた。

 慌てて引き返し、地下壕に入る。

「姉ちゃん」

「大丈夫だった!?」

「うん。でもまた来たみたい……」

父様とうさまは大丈夫かしら……」母を見上げて和子が言う。

 母はその黒髪を撫でて「心配しなくても、大丈夫ですよ」と言った。

 外から小さく飛行機の飛ぶ音がする。私は再びサクと彬子を抱きしめた。しかし、今度は爆音は全く響かなかった。

 

 それから数十分、私たちは地下壕を出た。

 たった一時間ほど地下にいただけだったのに、夕陽の光がひどく眩しく感じた。


 和子は疲労が頂点に達してしまったせいか、布団に横たえるとすぐに眠りについてしまった。母は「壊れたところはまた後で考えましょう」とだけ言って、何事もなかったように台所に戻った。

 サクと彬子は居間に戻ったが、二人とも憔悴しょうすいしきった様子で、何も語らない。

 私は飛びちったガラス片を拾い集めて片付け、すぐに母の所に戻った。


 戦争は接近していた。それも、私たちの命までも奪える距離までに。一度は自覚したはずのことを、今、再認識する。もはや、戦争は遠くで起こっていることなんかじゃない。絵空事でも他人事でもないのだ。

  




 父は夜遅くになっても帰ってこなかった。


「父様死んだりしてないよね……?」

 不安に駆られたのだろう。彬子がそう言った。

 私は「大丈夫よきっと」とはげまし、母も「心配ないですよ」とさっき和子に言っていたことを繰り返したが、彬子もサクも、私も、恐らく母も内心では不安で仕方がなかった。


 その父は、しかし、深夜になって帰ってきた。

 ちちいわく、職場のある三丁目の被害が甚大じんだいで、叔父の残した家に同僚とともに避難していたという。同僚の中には死者も出てしまったらし。

 亡くなった人もいる以上、素直に喜べないけれど、ただ、家族全員生き残れたことについては安心した。

 もう忘れないと、私は決めた。戦争は身近な事象じしょうだということを。それを自覚していてどうにかなるものでもないけれど、二度と誤認ごにんしないと決めた。



 けれど、私はすぐに気づかされることとなる。またも身勝手に、そして大きな勘違いをしていたことを。

 



 ※以降は、戦後まもなく、曾祖母が記した文です。日記とはまた別の文章で、そこには日記の内容と符合ふごうする記述がある一方、和子さんのことについて、日記にはない言及がありました。中編は、それをそのまま引用することで結びとしたいと思います。


『(前略)あのとき、和子は緊急事態にも拘わらず、私の日記を持ち出そうと背中の上で訴えた。私はそんなひまはないと一蹴いっしゅうして避難したのだが、その時は、なぜ和子がそこまでこだわりをもつのかわからなかった。

 それがようやくわかった。

 和子は、自分がいなくなっても私の日記の中には存在し続けることができると信じていたのだ。死んですべてが終わるのではない。自分は私の日記の中で、私の意識の中で生き続けることができると。

 しかし、もし空襲でそれが灰燼かいじんと化してしまったら全てが台無しだと。そんな、妹の中にのみあった一種のオヴゼッション(作者注:強迫観念の意。戦後になると、曾祖母は英語を多用するようになる)が、先の発言を呼び起こしたのだろう。それを言ってくれていたなら、日記なんてなくても私はあなたのことを忘れなんかしないと言っただろう。しかし、妹は信用できなかったのかもしれない。人間の記憶能力を。すぐに忘れてしまい、それに気づくことすらできない、そんなものを。

 今の私にはそれを理解できる。


 幸いにして、日記はすべて残った。私の主観ではあるけれど、妹はこの中で確かに生きている』




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 空襲のあった翌日の朝、私は一人、駅に向かった。

 駅のある三丁目は父が言っていた通り、倒壊とうかいした家や電柱があって酷い状態だった。

 駅の屋根も爆撃ばくげきによる穴が開いていたが、電車は動いているらしく、思いのほか多くの人がいた。それがよいことなのか悪いことなのか、答えを出すのは難しいけれど。


 枯草かれくさ色の軍服を着た男性たちがこちらに向かって歩いてくる。その側で、見送りの人たちが日の丸の旗を振っている。


 しかし、彼はそこにはいなかった。


 それから数時間、昼過ぎまで待っていたが、彼は姿を見せなかった。

「間違えたのかしら……」


 さらに一時間すると、雨が降ってきた。


「えぇ……」

 傘なんて持って来ていない。どうしよう、と分厚い雲を見上げる。

 しかし、雨の止む気配など微塵みじんもないし、彼の来る様子もない。

「どうしよう……」

 すると、駅舎の中でずっと待っている私を不思議に思ったのか、歳を取った駅員が話しかけてきた。

「お嬢さん、どうかしたかい?」

「あ、すみません。出征の見送りで……」

「それなら、さっき行ったが」

「あ、いえ。あの中にはいなかったんで……」

 すると駅員さんは首をひねった。

「今日はもう、金沢の師団しだんに行く人はいないはずだがね」

「え?」

「お嬢さん、時間ば間違えたんじゃないかい?」

「そんな、はずは……」


 彼からもらった手紙を見る。そこには確かに金曜日と書いてある。


「……」

 何か、あったのだろうか。直接彼の家に行きたいところだが、この雨では……。

 そう思っていると、駅員さんが「これ持っていきなさい」と、黒い傘を差しだした。

「え、でも」

「いいからほら。ここ居られても困るんでな。こっちとしても」

 そう微笑んで、彼は引っ込んでいった。

 私は黙礼もくれいして傘を差し、駅舎を出た。

 


 三丁目の東の方にある、彼の住む村へ唯一繋がる橋を渡る。

 橋の下を流れる川は雨のせいか増水していて、水もにごっていた。


 普段走らないせいか、長い距離でもないのに息が上がる。

 田んぼの間の道を進み、路肩ろかた道祖神どうそしんを横目に走り、小山のふもとにある彼の家についた。一度も入ったことは無いけれど、出会った頃、彼に対岸の堰堤えんていから紹介してもらった。


 家の前、ひざに手を置いて一度息を整え、私は家の中へ「ごめんください……!」と持てる限りの声を出した。

 しかし応答はない。私は再び声を張り上げた。

「すみません!!」

 すると、庭の方から「どちらさまでしょう」と小さな声がした。 

 柴垣しばがきの向こうに、背の高い男性がいた。光次郎さんの父親にしては、若いように見える。


「すみません、私、一丁目の北条ほうじょうと言います。光次郎さんはいらっしゃいますか」

「……」

 柴垣の向こうのその人は、途端に言葉を切った。

「あの……」

「光次郎は、いません」

「え?」

「光次郎は、いません」

「いや、そんなはずは……。今日出征ですよね?」

「……」


 明らかに様子がおかしい。どうしたものか、と思っていると、彼は一つ大きくため息を吐いた。

「昨日、空襲があったでしょう」

「……はい」

「光次郎はそれ以来帰ってきていません」




 雨音が遠くへ離れていくような感じがした。

 頭の中が真っ白になるのと同時に、五感のすべてが失われたような感覚に襲われたのだった。




 光次郎さんは昨日の昼、山の裏手にある畑の様子を見に向かったという。

 しかし、それを最後に彼は姿を消した。


 彼の父と兄、そして姉は、近所の住人たちとともに捜索そうさくしたようだが、結局見つからなかったらしい。

「今日も探す予定だったんですが、生憎あいにくの雨で……。今は父と姉だけで山に行っています」

 在宅していた光次郎の兄は、そう言った。口では言わないが、もう、あきらめてしまっているような声だった。


 傘をさすことも忘れて道を歩く。

 雨は滝のように打ちつけている。髪も、首も、肩も、背中も、すべて雨に濡れた。

 路肩にしゃがみ込む。手で顔を覆う。

 雨が降っていてよかった。泣いているのかどうかわからなくなるから。

 雨が降っていてよかった。この嗚咽おえつが、無かったことになるから。

 死んでしまったとは思いたくない。けれど、駅前のあの被害を見ると、楽観的にはなれない。

 もし、万が一、最悪の状態になってしまっていたら、どうしよう。


「どうしよう……」


 涙におぼれたようにこもった声で、私はつぶやいた。それしかできなかった。

 駅に戻って傘を返し、私は家への帰路についた。

 駅員さんは、「身体を壊すからさしていきなさい」と後ろから言ったけれど、それに応える余裕はなかった。





 びしょ濡れの状態で家に帰ると、それを見た彬子あきこが悲鳴を上げた。

「実和姉さん! どうしたのそんなに濡れて!」

 それを聞いたサクが手ぬぐいを持って走ってくる。

「何でもない……」

「なんでもないってことないでしょ! ほらもう服脱いで!」

 何もする気が起きず、私はとりあえず靴脱ぎ場に座ろうとした。

 しかし、次の瞬間。

 にぶい痛みが腕に走った。

 倒れたのだと気づくのには、少し時間差があった。

「きゃああ! お姉ちゃんが!」

「彬子! お母様呼んできて! 早く!!」

 ひとみを閉じるとそんな声だけが聞こえた。しかし、それもすぐに消えてしまった。私はもう、起き上がる気力すらなく、昏睡こんすいふちに落ちた。


 悪夢を、見た。


 世界がすべて赤に染まっている。私はひとり、誰もいないその町中を歩いている。

 見覚えのあるようなないような、よくわからない町だ。


 遠近感がめちゃくちゃになっている。

 遠くにあった何かが近くに迫って来て、かと思うと近くにあったものは遠くに離れていく。それが連続して……。


 足元を見ると真っ暗になっている。

 影というわけでもなく、ただ黒い地面だ。なんなのだろうと不思議に思った次の瞬間だった。


 ふわり、と私は浮遊した。


 しかし宙に浮いたのではない。地面だと思っていたそれに、落下したのだ。


 何かに似ている、そんな印象が胸に宿る。(落ちる落ちる落ちる)。……うず? 渦だ。そうだ。大河の流れに突然現れる渦だ。(落ちる落ちる……)。落ちるまで気づくことのできない落とし穴だ。(落下する。どこまで?)。


 死ぬ? このまま落ちたら、死んでしまう? 嫌だ、それは。……けれどそうすればあなたに会える?

 落ちる落ちる落ちる。陥穽かんせいに沈む。私の最後はここ? 彼の最期と同じ場所? でも本当に彼は死んだ? 


「うう……ああ……」


 私は思考に押しつぶされながらうめき声をあげた。言葉に出来ない感情はそうしたって何一つ消えるものではなかった。





 瞳を開く。

 一瞬まだ夢の中かと身構みがまえたが、握られた手の感触かんしょくで、そうではないことをさとる。

「うぅん……誰……?」

「姉さん、やっと起きたのね」

 静かな冷たい声。顔を見ずともわかる。

「和子?」

 涼しい空気。薄暗い光景。

「今は……」

「もうじき夜が明けるわ」


 身体を横に向ける。

 和子は隣の布団から手を伸ばし、私の方を見て微笑していた。

「和子……、だめでしょ。早く寝なきゃ……」

 身体が重い。口も動きづらい。意識も重い。動けない。

「姉さんだって起きてるじゃないの」

「『起きた』と『起きてる』はちがうでしょ」

「うるさいわね……」

 そう言うと、和子は私の布団の中に入ってきて、身体をギュッと寄せてきた。組まれた腕が、繋いだ手が酷く熱く感じる。

「和子……」

「姉さん、たまに馬鹿な事するから心配」

「……」

「四十度なんて、私でもそう出ないわよ」

 障子しょうじの向こうに月明かりの気配がある。これも障壁か。相手の存在をより自覚するための、障壁。


 サクと彬子はそちらの方で眠っている。寝相ねぞうの悪い彬子の腕が、サクの顔に直撃していた。

「和子、離れて。うつったら大変」

「大丈夫よ。もう、大丈夫」

「何が……」

 そう言うと、和子は私の胸に顔をうずめた。小さい頃を思い出す。喧嘩けんかをした夜でも和子は気付くとそうして私の中で眠っていた。

 こんなに近い距離にいれば、壁なんてできない。逆に言えば、これくらい近くにいないと、いついなくなってしまうかなんてわからない。なのに、私はあの人を……。

 その頭を軽く抱きしめて、私は言った。


「……戦争に、行くっていう人がいてね」

「うん」

「私、その人のお見送りに行ったの。でも来なかった。どうしたんだろうって、その人のおうちに行ったら、帰ってこないんだって。昨日の空襲の後から、帰ってこないって」

「……うん」

「死んじゃったのかな。……どうしよう。もし、そうだったら……」

「姉さん」

「見送るまでは、生きてるって思ってたのに……! 戦地に行っても、帰って来てくれるって、信じてた……! なのに、なのに……!」


 勘違いしていた。見送った先で戦死してしまうとしても、それまでは何も起こるはずがないと。そもそも考えもしなかった。


「何て……、何て、馬鹿なんだろう……」

 何もなかったかのように、帰って来てくれればそれでいい。

 何も言わず、師団しだんのある町へ行ってしまったなら、それでもいい。

 けれどもし、死んでしまっていたら……。私は、私は……。


「でも、亡くなったなんて、誰も言ってないんでしょう?」

 和子は落ち着き払った声で言った。

「希望は絶対捨てちゃだめよ。姉さん。確証が何もないうちは、生きているって思わないと」

「でも……!」

「そう思わないと、生きていけないでしょう」

 微かに震えたその声に、はっと私は息をのむ。

 そうだ。和子は、既にそうしているのだ。

 何も言わず消えた叔父が死んでしまったなんて、きっと欠片ほども思っていない。それは、そう思ってしまったら、きっと、自分がだめになってしまうと思っているからでもあるだろうし、叔父を信じているからでもあるだろう。


「大丈夫。最悪な想像のほとんどは、きっと起こらないんだから」

「和子……」

 今更ながら思う。この妹も、いつの間にか大きくなったものだ。

 決して落ち着けるような体調ではないはずなのに、こうやって冷静に私を励ましてくれている。

 逆の立場だったら、きっとここまでできない。自分のことだけで精一杯で、押し潰されていたに違いない。


 和子の語りに冷やされたのか、最悪な結末ばかりを想定していた心が落ち着きを取り戻していく。

「和子」

「何、姉さん」

「一緒に待とうか」

「え、何を」

「私はあの人を。和子は叔父様を」

「い、いや叔父様は、別に、わたしだけの話じゃ……」

 顔を上げて、わかりやすく動揺する和子の頭を撫でて軽くあしらい、私は仰向あおむけになった。

 見上げた天井は、さっきよりも明るくなっていた。

 

 

 朝になって、私はサクを呼んだ。そして、隠していた砂糖菓子を賄賂わいろにして頼みごとをした。


「隣村の国村さん?」

「そう。理由は聞かないで。代わりに行って、聞いてほしいの。北条です、戻ってきましたかって」

「戻ってって何が?」

「お願い。そう聞くだけでいいから」

 理由は言わなかった。不誠実だなとは自分でも思っていた。しかし、サクは不審ふしんそうな表情をしながらも「わかったよ」と行ってくれた。

「見つかるといいわね」

 微笑みを浮かべる和子。私は「うん」と頷いた。

 しかし、この日も彼は戻ってきていないと言うことだった。

 


 翌日もサクに行ってもらった。その次の日も。その翌日には私の体調が戻ったため、自分の足で向かった。しかし、答えは変わらなかった。

「大丈夫、大丈夫……」

 再び悲観に傾きそうになる意識を、おまじないのような言葉で打ち消す。

 頭の中に、和子の言葉も再生して、気丈にふるまう。


 けれど、そんな訪問を続けるうち、ついに一週間が経ってしまった。

「捜索はつづけていますが、最早、あてもなく……」

 光次郎さんの兄はそう頭を抱えた。

「このご時世じせいだから、家出は決して珍しいことではないけど、光次郎と誰かがもめていたわけでもないし、本当に心当たりがなくて」

 そう言ったのは、さらに年上になる、光次郎さんの姉だった。弟二人とは違い、気の強そうな女性だった。

「あんたもなんか知ってるんだったら教えてくれ」

「はい……」

「それから、いちいちここに来るのは大変だろ。これからは、毎日家から手紙をるからさ」

「あ……」

 彼と似た、優しい笑みを浮かべる彼女は、どうやら私と彼の関係に察しがついているらしかった。

「すみません。ありがとうございます」そう頭を下げ、私は自宅に戻った。


 その翌日から彼女が言った通り、手紙が届くようになった。しかし、書かれている文字は『消息不明』だけだった。



  一月ひとつきが経った。

 その間、毎日送られてくる『消息不明』の手紙は部屋のすみむなしく重なっていた。


 さらに一月が経った。私は山のように積もったその手紙を焼いた。

「姉さん……」

 和子も、もう私に励ますようなことを言わなくなった、それでよかった。話しかけてほしくなかった。


 

 朝、目を覚まして数時間、外の様子をしきりに確認しながら過ごす。

 正午前になって手紙が届き、誰かが見る前にそれを受け取り、開く。

「また……」

 郵便受けの前でうなだれて、重たい足取りで家に戻る。

 その繰り返しだった。


「お姉ちゃん、すごい疲れてない?」

 夕食時、彬子あきこが言った。

 私が卓上を見つめたまま何も言わずにいると、サクが遮るように「お料理してるから、疲れちゃうんだよ」と言ってくれた。

 そう言うサクも、私の様子を不審に思っているようだったが、それを聞くことは無かった。母も同様だった。


 失意とともに私は布団に入る。

 しかし、精神の疲弊ひへいだけでは眠りにつくことはできなかった。そうなると、自然、意識は思考へ移ってしまう。


 死んでしまったのなら、どうしてその遺体が見つからないのだろう。生きているのなら、どうして彼はいなくなったのだろう。

 全て嫌になってしまったのだろうか。軍隊に行くことも、農家での暮らしも、私との関係も。

 だからって、何も言わずに姿を消すなんて、ひどすぎる。

 彼にとって私は、その程度の存在に過ぎなかったのだろうか。相思相愛と口にはしないけれど、そう思っていたのに。だからこそ、あの祭りの日、泣いてくれたんだと思っていたのに。それなのに……。


 妹たちに気付かれないように、掛け布団の中で私は泣いた。

 晩春ばんしゅんだと思っていた季節は気付けば初夏しょかだ。

 人の思いなど知らずに時間も世間も進み、あの頃はまだ花の混じっていた堰堤えんていの桜もすべて緑に変わってしまった。

 しかし、それもすぐに、枯れてゆくんだろう。


 汗が滲むのもかまわずに布団の中、丸くなって私は泣き続ける。

 そうしていると、必然的に眠るのは遅くなる。だから、疲れているなどと言われるのだろう。

 



 浅い眠りから目を覚ます。朝食を取り、学校に行くサクと彬子を見送り、手紙を受け取る。手紙を開き、また溜め息を吐く……。


 そう思っていたが、今日は違った。


『消息不明』の単語の代わりに、そこには、国村伊那いなという、彼の姉の名前とともに、文章があった。

 それを読んだ私は、膝から崩れ落ちた。

 


 

『大内村の、志美しび川河口で発見されました。川の中州なかすに、身体が引っ掛かっていたようです。警察の話では、あの空襲の日に川に落ちたのだろうということです』



「あああああ……」


『勝手ながら、昨晩のうちに、荼毘だびに付しました。見るに堪えない状態になっていて、光次郎もきっと、そんな姿を見られたくはないでしょうから』


「実和さん」

 母が私の方に怪訝けげんそうに声をかけた。

「どうしたんです」

「お母様……。いえ、なんでもないです」

 手紙を握りつぶし、着物のすその砂を払って私は立ち上がり、駆けだした。

 背後で「実和!」と呼ぶ声がしたが、構わずに私は走り続けた。


 当てもなく走っていたつもりが、きづくといつもの堰堤にいた。

 無常な、無情な大河の流れ。その向こうに彼の村。頭上ひらひらと彼の好きな葉桜の雨。

 今はそうじゃなくて、車軸しゃじくを流すような雨が降っていてほしかった。


 もはや嗚咽おえつでは済まなかった。周りに人はいなかったけれど、きっと人がいたとしても、私はこの慟哭どうこくをとめられなかっただろう。

 希望を持っていたのが、馬鹿らしく思える。逆に何で生きていると思えていたのかと。


 川が流れていく。とどまらず、何もかもを流していく。

「志美川……」

 それはこの川の下流にある支流の一つだ。


 なら、私のことも連れて行ってくれる?


 それなら、あなたの所へ行ける?


 一歩、堰堤の下に足を進める。

「光次郎さん……」

 さらに一歩、一歩、一歩……。

 くるぶしが水につかる。脚、腿、腰、水が染み込む。


「うぁっ」

 突然に、身体が沈んだ。急に川底が深くなったのだ。

 手足をばたつかせて、私は藻掻もがく。こうなることを望んでいて、川に入ったはずなのに。

 しかし、藻掻くだけでは何の意味もなく、私の身体は、下流へと流されていった。

 水の中、確かに瞳を開いたはずなのに、見えたのは底なしの暗闇だった。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 以前と同じ悪夢の果てに、私は目を覚ました。

 見慣れた天井が映っている。


「あれ……」

「あ、彬子あきこ! お母様を!」

「うん!」

 彬子が駆けていく。

「サク……? 私は……」

 次の瞬間、私の頬にピシりと痛みが走った。


「う……」

「馬鹿っ!! どれだけ心配したと思ってるの!!」

「あっ……」

 そこで思い出す。そうだ、私は、川の中へ……。

「私は、何で?」

「対岸の村に漂流したところを助けられたそうよ」


 箪笥たんすに寄りかかりながら言ったのは和子わこだ。いつもの微笑が口の端には浮かんでいたが、瞳には明らかに怒りが宿っていた。

「そう……なの……」

「馬鹿ね、本っ当に……!」

 顔をしかめた和子が珍しく声を荒げた。私はそれを甘んじて受け入れるしかなかった。

「変よ。ここ最近、姉さん……」

 目元を抑えながら、サクは泣いてる。

「……」

「実和さん」

 すると、背後から声がした。振り返ると母が私を見下ろしていた。

「お母様……」

「すべて説明しなさい」

「……」

「いいですね」

 私は頷くよりほかなかった。

 


 夕餉ゆうげの後、父や母に私は全てを話した。

 相手が死んでしまったこともあって、私と彼との関係がどこまでいっていたのかは問い詰めてこなかった。しかし、どんな理由があっても、そのような関係を隠していたことには、相応の罰を与えなければならない、と父は言った。

 もし、叔父がいたら、まあまあと仲裁ちゅうさいしてくれたかもしれないが、今はそれも期待できなかった。

 

 翌日から、私はこの家を出ることを禁じられた。

 サクや彬子は「それはかわいそう」と言ったが、父母と和子が、私が何をしでかすかわからないから、と断行したのだった。拘留こうりゅう場所は、共有部屋の隣の座敷になった。


「姉さんのことは、わたしが監視していますから」

 私が座敷に入ったのを確認する父母に、和子が言った。

「くれぐれも無理はしないように」

「わかっています」

 そんなやり取りをすると、両親は部屋の前を去って行った。

 二人きりの座敷。

 和子まで、私につき合わせてしまったのは申し訳ない。精一杯の謝罪を伝えると、和子は鼻で笑った。

「そんなこと言っても、監視の目は和らげないから」

「別にそんなつもりで言ったわけじゃ……」

「信じられると思う? 姉さんの言葉を」

「……」

「さ、寝ましょ。あ、寝るときはなわで腕縛るから」

 そういうと、和子は縄の輪っかを取り出し、それを自分の手首と私の手首にそれぞれはめ込んだ。

「こ、ここまで」

「ここまでやらせるほど、姉さんが死のうとしたことがわたしたちにとっても大きかったってこと。わかるでしょ?」

「……」

「黙ってばっかり。さ、もう寝ましょう」

 そう言うと、和子は私に背を向けて布団に入った。

 どうしようもなく、私も布団に入る。

「和子」

 どうしても眠れず、私は声をかけた。しかし、反応はない。もう寝てしまったのか、起きているけれど無視しているのか。

「……」

 仕方なく、瞳を閉じる。けれど、そうすると、あの人のことばかり頭に浮かんで嫌になる。


 光次郎さん……。ごめんなさい。私はあなたの所には行けませんでした。あなたのことを愛しているのに、結局私は、あなたの手を離してしまいました……。

 涙が浮かぶ。

 しかし、泣き声は上げないように唇をかみ、手で口を覆った。そうしないと、和子に「うるさい」と怒られてしまいそうだったから。

 拘留こうりゅう生活は都合二カ月に及んだ。




 その日はひもで手首を繋がれて眠りについていた。

「おやすみ姉さん」

「おやすみなさい」

 互いに背を向けて眠る。

 真夏なのに、んだ月の光が心地よい。こんな日には縁側で過ごすと気持ちがいいんだけれどな。

 お庭の方に手を伸ばす。すらりと覗いた自分の腕が、思った以上に痩せてしまっていることに気付く。


「はあ……」


 瞳を閉じる。

 涙はとうにれてしまった。ただれ出てくるのは、溜息と真夏の空気にこし出された汗だけ。


 もう寝たい。

 けれど、眠気は全くない。かといって身体を起こすと和子にしかられそうなので、寝転がって夜明けを待とう、と決めた。


 ふいに、庭から差し込んできていた月光が消えて、部屋の中が暗くなった。途端に蒸し暑さが体中を纏う、そんな感覚を覚える。

 かけ布団を蹴飛けとばして、瞳を閉じる。同じ暗闇の世界は、目を閉じる必要がないのではないかと思うくらいだ。


 ただなぜだろう。

 瞼の裏の暗闇にだけは、彼の面影が映される。


 胸が痛い。もうふた月近く経つのに、まだ私は……。


 これからもこんな懊悩おうのうを胸に宿して、私は生きていかなければならないのだろうか。

 あえぎのような呼吸をもらしながら暗闇の中、私は一人、目を閉じた.




「うう……」

 それからどれくらい時間が経っただろう。私は目を開いた。外はまだ暗く、明け方というわけでもなさそうだ。

「あつい……」

 喉がかわいたけれど、和子を起こすわけにもいかないため、諦める。

 汗が気持ち悪い。

 せめて身体をこうと起き上がった、そのときだった。


 窓の外に黄緑色の光が見えた。


ほたる……?」

 ふわふわと浮遊するその光。同じような光がどこからか集まり始める。

「え……何?」

 緑の光は離合集散りごうしゅうさんを繰り返している。見間違いだろうか。それは段々と人型のようになっていく。


 瞳をこする。

 しかし、目の前で起こっている現象は、消えない。現実なのだ、これは。

 私は立ち上がっていた。寝間着姿のままガラス戸を開ける。

 光に包まれた何かは、やはり人間の姿だ。


 右手らしきものがゆらりと上がる。

「あ……」

 やおらきびすを返した何者かは、庭の外へ出ていった。私は、なぜだろう、足袋たびのままその後を追っていた。



 人のいない街中をその光は進んでいく。

 さっきまでは寝ぼけていて思考にもやがかかっていたけれど、今はなんとなくその正体に見当がついていた。

 しかし、そんなこと、あるのだろうか。小説や物語の中ではないのだから、こんな……。


 光は町中を進む。私はその後方を歩く。

 生温かい風が吹いているが、汗のせいで冷たく感じる。上着を羽織ってきた方がよかったかもしれない。

 その風になびく様に、光がこちらに飛んでくる。取ってみようと、手を伸ばす。しかし、手のひらに浮かんだと思った瞬間には消えていた。まるで氷のようだったけれど、手のひらには何の余韻よいんもない。


 そのとき、目の前の光が右折した。

「ここ……」

 声には出してみたけれど、心の何処かではわかっていた気がする。ここに来るんじゃないのかと。

 雑草をかき分けて堰堤えんていに上る。

 夜の闇の中だけれど、恐怖は感じない。そういえば、あの祭りの日もそうだった。彼がいたから。


「光次郎さん」


 堰堤に上り、葉桜の下。その光に私は言った。光がゆるりと振り返る。輝きのせいで顔や体は見えない。


「光次郎さん……なんでしょう?」


 表情は見えないけれど、優しく笑っているような気がした。

「光次郎さん……」

『申し訳ない』

「え?」

 念話のように、頭の中に声が伝わってくる。

『あまつさえ、出征なんてことになって、君を悲しませたのに、こんなことになってしまって』

 彼の声だった。優しい、感情の起伏きふくの少ない声。私があの祭りの後から、何カ月ももう一度聞きたいと望んだ声。


「光次郎さん……!」

『時間がない。一つだけ、僕の頼みを聞いてはくれないか』

「なんですか……?」

『僕の身体を、その一部でもいい。この葉桜の下に埋めてほしい』

 光は、あの日彼が見上げていた葉桜を指さした。

「この樹に?」

『ああ。僕の、一番好きな場所なんだ。頼む』

「約束します……! 約束しますから、もっとそばに……」


 すると彼の光は私の方に近づいてきた。背の高い、彼の光。その温かさに包まれる。

『もう一度君に会えて良かった。ありがとう』

「私も、会えて良かった。でも、叶うなら、このままずっとあなたの側にいたい……」

『僕もだ。しかし、もう、行かねば』

 光が薄まっていく。同時に、急速に睡魔すいまが降りかかってくる。

「光次郎さん……」

『さようなら。実和』

 そんなささやきが耳に触れた。その次の瞬間、私の意識は暗転あんてんした。



 

 体をゆすられる感覚があって、私は目を覚ました。

「姉さん。もう朝」

「あ、んん。おはよう」

「おはよう姉さん」

「これ外すわね」

 和子が手首の紐を外す。手首には、きつく縛ってあったせいか、赤くあとが残っていた。

「……」

「姉さん、どうかした?」

 じっと手首を眺めていると、不審げに和子が言った。

「ねえ、和子。これ、途中で外したりした?」

 ボサついた髪の毛をとかしていた手を止めて、和子が眉をひそめる。

「外すわけないじゃない」

「そう……よね」

 窓の外。昨日あの光が立っていた庭。

 今はいつもの通り、真上に立つ梅の木から葉が落ち、真下の池の水に波紋はもんが立っている。

 あれは夢だったのだろうか。それにしてはやけに鮮明せんめいな……。身体にはまだ彼の温かさが残っている気がする。


「ちょっと姉さん!」

 そのとき、突然和子が叫んだ。


「足、何それ。すごい汚くなってる」

「えっ?……あっ!」

 足袋の裏面。家の中では絶対につかないような、げ茶色の汚れがついていた。まるで、草履ぞうりかないで外を出歩いたかのような……。

「外行ったの?」

 失望を宿したにらみを向けてくる和子に、私は首を横に振って否定する。

「まさか、だって、これ外せないし」

「でも、じゃあこの汚れは何?」

「さあ……」

「わけわからない」

「わからないのはこっちの方よ……」

 夢だけれど夢ではない。けれど、夢でないなら、この手首の紐はどう説明すればいいのか。


 次第に夜の、あの景色が、温かさが、声がよみがえる。

「そうだ……」

「何? 姉さん」

「和子。一つだけ、見逃してくれないかな」

「え、何を」

「私、約束したの。お願い」

「……外行くってこと?」

 小さく私は頷く。わかっている。私が信頼を失っているのは。

 けれど、何があっても、私は彼の願いをかなえてあげたい。あんな姿になってまで、私の元を訪れた、彼の、最後の願いを。


「お願い、和子。お願い……」


 和子の手を右のてのひらで包んで、私はうったえる。

 和子は人差し指の付け根を唇に当てて考え込んでいた。本当に考えこんでいる仕草だ。

 長い長い沈黙があった。その果て、和子は重たそうな口を開いた。


「駄目。認められない」


「和子……」

「でも、一つ条件呑んでくれたらいいよ」

「何?」

 飛びつくようにそう聞くと、和子はうつむいていた顔のまま、瞳だけを私の方に向けて言った。


「私もついていく。そういう、条件」



 隣村へ続く橋。以前は、篠突しのづく雨の中、一人で渡った橋を、今日は姉妹四人で歩く。


 元は和子だけの話だったのだが、和子の外出は危険という母の意見と、サクと彬子では監視にならないという和子の主張が衝突した結果、私の見張りとして和子が、その和子に何かあったときのための補助員にサクが、そしてとくに理由はないが彬子もついてくることとなった。


 和子に気を遣って、ゆっくりと私は歩く。

 彬子ははるか前方を走っていて、サクはその後を追っている。補助役とは何だったのだろう。


「和子、大丈夫?」

「うん。意外と散歩もいいものね」

 微笑する和子。

「ならよかった」

「彬子ー、そのあたりで止まりなー」

 サクが追いかけるのをあきらめて叫んだ。

 サクは私の代わりに彼の家へ行ったことがあるため、家の場所を知っているのだ。

 それですら想定外だったのに、こんな風に、彼の家まで皆で行くことになるなんて、少し前には想像できなかった。


「元気だなぁ」

 隣、微かに息をもらしながら、和子がつぶやく。普段、布団の上での生活を余儀なくされている和子からしたら、そんな妹たちの姿は憎らしく思えても仕方がないはずだ。

 けれど、そんな負の感情はどこにもなかった。微かな羨望せんぼうと母親のような慈愛じあいが、その表情には浮かんでいるだけだった。

 道祖神どうそしんを通り過ぎ、私たちは彼の家の前へと到着した。




「おや。北条ほうじょうさん」

 私たちを見て、柔い笑顔を浮かべたのは光次郎さんの姉だった。

「お久しぶりです。すみません、こんな大勢で」

「いえ。こちらこそ、申し訳ない。まさかあんなことになるなんて」

「いえ……」

「みんな、妹さんたち?」

「はい」

 そう返事をして、私は、日陰ひかげの岩に座る和子、「妖怪がいる……」と田んぼを指さしている彬子、「タガメだよあれ」と笑っているサクをそれぞれ指さして紹介した。

「へえ」

「あの、伊那いなさん。今日は、一つ、お願いがあってきたんです」

「お願い?」


「単刀直入に言います。光次郎さんのお骨を、分骨させていただきたいのです」


 意想外だったのだろう。当然だ。彼女は眉根まゆねを寄せて、首を傾げた。


「分骨?」

「ぶしつけなお願いなのはわかっています。ですが、事情があるのです」

 私は、昨夜の夢ならぬ夢を彼女に話した。突飛とっぴな話なのは分かっていたが、それでも語るしかなかった。

 彼女は笑うでも怒るでもなく、彼女は私の話を聞いてくれた。ただ、無反応なのは怖かった。


「……というわけでして、どうか、お願いします」

 頭を下げる。

 承諾しょうだくしてくれなかった場合は膝をつき、ぬかづく心構えも出来ていた。


 しかし、彼女は即答した。

「わかった」

「え?」

 まさかすぐに承諾されるとは思わず、逆に私は驚いてしまう。

 顔を上げると、彼女はすずしげな笑みを浮かべていた。

「あたしもね、夢を見たんだ。昨晩。光次郎が枕元に座って、あんたが来たらその頼みを聞いてあげてほしいって。、あいつはあんたのとこに現れたんだね」

「あっ……、そうか、昨日は……」

 忘れていた。昨日は彼が死んでから四十九日。彼が現世を旅立つ日だった。

「遺骨はまだ仏壇にある。少し待ってて」

 そう言い、彼女は家の中に戻る。私は涙の落ちるのを感じながら、再度首こうべれた。




 小さくなった彼をふところに入れて、私たちは土手に向かった。

 坂を上るときには和子の体調が心配なので、彼の入った小さな骨壺こつつぼをサクに預け、私が彼女をおぶった。


「……桜、真緑まみどりね」

 背中、ふわりとした和子の感覚。

 心の中に浮かんだある言葉を飲み込み、私は言った。

「来年はお花見したいなー」

 スコップを持って歩く彬子が地面をった。

「お花見かあ。しばらくやってないね」

 片手で持てるくらいの小さな入れ物を丁寧に両手で持って、サクが言う。

「ござ敷いてさ、おにぎりとかたべるの。楽しそうじゃない? ね、実和姉ちゃん」

「そうね……。戦争が終われば、そういうのもいいかもね」

「ねー」

 忌々いまいましそうに空を見上げながら、彬子は突然走り出した。

「こけないようにねえ」

 背中から和子が言うと、彬子は「ういぃ」と酩酊めいてい者のような返事をした。

 いつもならサクが追いかけるところだったが、今は慎重に歩を進めていた。


 坂を上り終えると、大河が見えた。無常に、無情に彼を運んだ、川の流れ。

「姉さん、もう大丈夫よ」

 後ろから和子の静かな声。彼女を地面に下ろして、サクから骨壺を受け取る。

「彬子に、そこで待っててって言って」

「うん」

 サクは駆け出す。「彬子―!」と呼ぶ声が、真夏の堰堤えんていに響いた。

「あれじゃ怒ってるみたいじゃない」

 カラカラと和子が笑った。ここしばらく、冷たい笑みしか見ていなかったから安心する。

「和子。あんまり無理はしないでね」

「姉さんに言われたくないけどね」

「んん……」

 何も言い返せず、川沿いの、夏とは思えないくらい清涼せいりょうな空気の中を歩く。

 彬子とサクが、少し前方で待っている。

 そこに着きそうになったとき、急に和子が言った。

「ごめんね、姉さん」

「何が?」

「びっくりさせちゃったでしょ」

「何の、こと?」

 もうわかっていたけれど、私は白を切った。

 おぶったときに感じた、気づいてしまった、いや再認識してしまった、体重の感覚。やっぱり、和子は、もう。

 しかし、わざわざ口する必要はないんだ。絶対に。


「気づいていないならいいわ」

 和子は重たそうに身体を動かし、目を細めて言った。その表情は、全てお見通しと言っているようだった。それならいつわらざる言葉を言えばよかった。

「姉さんは優しいわね」

 和子は笑う。叔父の小説と偽って、自作の小説を渡したときのような笑みだった。




 彼の愛した葉桜の下、彬子がスコップで穴を掘る。

「代ろうか」

「やだ」

 私やサクが言っても、彬子はかたくなに断った。

 そういえば、父や叔父が家の裏にあの地下壕を作っていた時も、彬子はずっと二人に付き添っていた。


「彬子さんのおかげで仕事が半日早く終わったよ」と言ったのは叔父だった。


「彬子がやった方が早いもん」

 もんぺが汚れるのもいとわず、芝生しばふに膝をついて彬子は一心不乱に地面をえぐっている。

「頑張り屋ね」

 木の下の日陰で、幹に背中をあずけてその様子を見ていた和子が、彬子の背中を撫でた。

「彬子、それくらいでいいよ」

 骨壺を持って私は穴の前に立つ。

「えー、もっと掘れるのに」

「目的変わってるじゃない……」

 サクが呆れたように言う。

「もう大丈夫。これだけあれば。ありがとう彬子」

 そう頭を撫でてやると、不機嫌そうな表情はどこへやら、彬子はパッと明るい笑みを浮かべた。


「こっちおいで。彬子。サク」

 和子が二人を手招きした。


 私と彼との別れを邪魔しないようにという配慮だろう。

 心の中で感謝しつつ、私は骨壺を額に当てた。



 光次郎さん。

 紆余曲折うよきょくせつありましたが、これでお別れです。

 私はあなたのことを、心の底から敬愛していました。

 いえ、今でも敬愛しております。光次郎さん。


 あなたとの約束は、私が果たしましたよ。これで、安心したでしょう。ここなら、あなたの大好きな葉桜をいつでも見られますものね。ねえ、光次郎さん……)


「姉ちゃん」

「しっ」

 そんなやり取りが背後で聞こえた。

 私は骨壺を目元に落とし、数秒黙禱もくとうして、彼の魂を埋めた。


 静かな風が吹く。

 後ろの妹たちは何も言わない。

 ふっと一息を吐いて葉の間からのぞく蒼穹そうきゅうを仰いだ。


「和子、サク、彬子。帰ろう」


 振り向いてそう声をかけると、三人は強張こわばっていた表情を柔らかくした。

 



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

最終章



 長い冬が明け、春が訪れた。

 戦争はあの後、すぐに終わった。

 人々は今までの姿勢が嘘かのように、戦争は悪だと言って回っていた。信念のない主義主張など塵芥じんかいと同じだ。

 

 私たちはあの日約束した通り、わずかな食べ物を持って、薄桃うすもも色が咲き誇る土手に上がった。

 川の流れは相変わらず絶えることを知らない。

 けれど、最近知ったが、実は川は海に向かって流れて終わりではないのだという。

 雨となって、再び地に降り注ぎ、また海に向かっていく。その繰り返しなのだという。……関係のない話だった。


 バスケットを持ったサクと彬子が前を歩いている。何のうれいもない、快活かいかつな笑みは、戦時下では見ることはできなかった。


 和子はいない。

 今日は少し体調が悪いようで、部屋でおとなしくするのだという。

 しかし、彼女の方も、もうしばらくは気を病む必要はない。


 叔父は今年の一月に復員ふくいんし、再び小説を書き始めた。

 今は最新作を片手に、和子の側に居てくれているはずだ。 


「去年穴掘ったのあのあたりだよね。……あれ、おかしいな」

 サクが首を傾げた。私も思わず足を止める。

「姉ちゃんどうしたん?」

 彬子が私の腕に抱きついてくる。

 しかし私は目の前の景色を前に、それにこたえることが出来なかった。



「花、咲いてない……」



「あの木って桜じゃなかったの?」

「いや、桜の木よ。去年はちゃんと花を……」

 ざわわ……と花が散る中、その木だけは葉を揺らしていた。

「……」


 季節外れの葉桜の下に立つ。

 彼の一部が眠る地面には、葉々が山のように積もっている。まるで、彼の眠りを包み込むように。

「変な桜。春なのに花を咲かせないなんて。ねえ、姉さん。……姉さん?」

「そうね」

「何笑ってるの」

「何でもない。ね、二人とも。この木の下でお花見しよ」

 そう言うと二人は顔を見合わせた。


「花見じゃない気がする……」


 ボソッと彬子が呟いた。

 しかし、私の心中を察したのか、サクがその口を手で塞いで「いいんじゃない。ここからだと向こうの花綺麗に見れるものね」と笑った。

「ありがとう。サク」

「うん。ほら彬子、シート出して」

「うん」

 妹たちが準備を始める。

 私は上空の緑を見上げた。


 サクの言う通り、おかしな話だ。春なのに花を咲かさせないでいるなんて。

 けれど、彼がここに眠っているということを思えば、何の不自然もないかもしれない。


 


 彼の大好きな、葉桜でなくてはならないのだ。


 風に揺られて葉が落ちてくる。その一つを私は手のひらにのせて、軽く口付をした。

 その瞬間、川の方からふわりと包み込むような風が吹いてきて、心地の良い香りが漂った。

 葉桜の方が好きだと微笑んだ彼の気持ちが、今わかった。


「ちょっと実和姉ちゃん、変なことしてないで手伝ってよ」

 座っていた彬子が着物のすそを引っ張って、あきれた声で言った。

「そっとしといてやりな。実和姉さん、センチメンタルになってるんだから」

「え、何? せんちめんたる?」

「大丈夫大丈夫。手伝うから」

 持っていた葉をそっと地面に置いて、私はしゃがみ込んだ。

「もうちょっとこっちにしよう」

 シートの位置をさりげなくずらす。彼が埋もれずにいれるように。


 朝から、和子も含めてみんなで作ったおにぎりを広げて座る。

「いただきまーす!」 

 明朗快活めいろうかいかつに彬子が言い、おにぎりを頬張ほおばった。

 そして、さらに笑顔をかがやかせた。

「うん! おいしい!」

「あ、ほら彬子。お米ついてる」

「うん?」

あごのとこ」

「ん……、あ、ほんとだ」

「まったく」

 彬子の前ではお姉ちゃんとして振舞いたいのだろう。サクは三つ編みの髪の毛先をいじくりながら、幸せそうに食事を続ける彬子の様子を見ていた。

「サクも食べな」

「え?」

「サクも一生懸命作ってたでしょ。だから、ほら」

 重箱じゅうばこの中の、ひときわ大きなサク特製のおにぎりを渡すと、サクは彬子のように表情を明るくして「ありがと!」とそれを受け取ってかぶりついた。

「んん……おいしい……」

「ふふっ」

 その頬についたご飯粒を取ってやると、彼女は頬を染めて決まり悪そうにうつむいた。


 幸せだ。


 叶うなら和子にも、もっと望むなら、彼にもいてほしかった。けれど、それでも私は今、確かにこの手に幸せをつかんでいる。

 花散る季節、唯一若葉を降らす桜樹の下、心地の良い日陰の中、私は涙交じりに笑った。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 多少たしょう誇張こちょうした部分もあるものの、何とか曾祖母の物語を書き終えることが出来ました。

 天国の曾祖母がもし読んだらどう思うでしょうか。

 なかなかよくできているとほめてくれるか、全然違うと怒るか、勝手に日記を見るなんて、と眉をひそめるか、それはわかりませんが、わたしの持てる力を出し尽くしたつもりです。

 

 さて、本当であれば作者たるわたしのことを少しでも書いた方がよいのかもしれませんが、ここではもう少し本編に関わることを記しておきたいと思います。

 

 まず、曾祖母の経歴について簡単に記すと、彼女は国村光次郎氏と死別したのち、1952年に結婚し、翌年に私の祖父になる男児を産みました。 

 曾祖母は終生東海地方の故郷に住み続け、時折あの葉桜を見に行っていたとのことです。もちろんその様子も日記に記されています。

 

 親族に話を聞くと、昔と全く変わらず理知的で、微笑みを絶やさない優しい人だったそうです。

 わたし自身はあまり話をした記憶はないのですが、病床で、「遠い所からよく来たねぇ」と優しく笑いかけてくれたのを覚えています。だから、親族たちの持つその印象は正しいものなのでしょう。曾祖母の葬儀で涙を流す親戚がたくさんいたのは、その証左しょうさでしょう。

 戦後、もちろん災難は少なからずあったでしょうが、総じて彼女は、幸せな一生を送ったのです。


 曾祖母の日記には、わたしを含めたひ孫世代の家族のことも詳細に書いてあります。

 ほとんど関わりのなかった曾祖母が、きちんとわたしのことを認識してくれていたと知ったとき、わたしの胸には嬉しさと気恥ずかしさと、一抹いちまつの後悔が宿りました。もう少し曾祖母と話をしていたなら、本編にもハリを加えられたかもしれません。

 しかしこの後悔は、決して消えるものではありませんし、今更どうにかなるものでもないので、これ以上考えることはやめましょう。

 


 次に、日記の記述に関してです。

 前書きにも記した通り、曾祖母の日記は一般的な日記同様、その日におこった身の回りの出来事や世間の事件を記しています。

 それだけでも当時の暮らしや、歴史的事件への一般人の視点などがわかって大変興味深いのですが、本編にも書いた、ある部分だけ、異色なのです。さながら『伊勢いせ物語』中に、突然鬼に食われる女の話が出てくるかのように。

 ここまで読んでくださった皆さんも、違和感を覚えた箇所があるでしょう。

 以下、その記述を一部引用します。



蛍光けいこうごとき光の、多く飛んでいるのが、庭先にわさきに現れ、次第に人形ひとがたをなした。私は誘われるように庭への扉を開け、草履ぞうりくのも失念しつねんして、その後を追った。人形はやがて堰堤えんてい上にとどまり、葉桜の散るを見上げた。翌朝、起床きしょうした時、足袋たびの裏には土汚れがあった。夢ではない。夢ではないのだ。和子わこも確認している』

 


 明らかに異色な文章です。

 後に加えられた注には「不自然。和子が私の手首に紐を結んでおいたはず。その紐を外して歩き回ることなどできない」と記しています。それほどまでにこの部分は特異なのです。


 目の前で繰り広げられた怪奇現象は何か。

 そして、手首には紐がかかっていたはずなのに、どうして表を出歩けたのか。


 この点に関し、あくまでわたしの解釈で、いくつか推測すいそくを設けました。


 一つは、そもそも全てが夢であったという推理です。目の前の怪奇現象も、外を出歩いたということも、全て夢もしくは妄想という説です。

 しかし、これは即座に否定できましょう。なぜなら、朝、起床した際に、足袋の裏が汚れていたという記述が残されているためです。それが、もし曾祖母のみが感知かんちしたことであるなら話は別ですが、あの時は和子さんもそれを見ていたのでした。

 途中、和子さんが曾祖母の日記を見ていたことをにおわせるシーンがあったかと思いますが(空襲直前、曾祖母が自作の小説を和子さんに送ったシーン)、実は曾祖母の日記は意外と家族に見られていたようです。

 となれば、『足袋の裏に汚れが付いていたのを和子と確認した』という日記の本文に対して、和子さんから異議申し立てがあってもおかしくないのです。

 しかし、日記を見る限り、そのようなことがあったことは読み取れません。

 そうであるなら、曾祖母の足袋には確かに土汚れが付いていたとするのが正しいのでしょう。であれば、やはり外に行ったということになる。

 

 そこで、怪奇現象は一旦おいて、今度は曾祖母が外へ行ったと想定してみます。

 この際、障害となるのが和子さんとつながれた紐です。この紐が一体どれくらいの長さで、どれくらいの太さだったかはわかりません。

 しかし、思い出していただきたいのは、初め曾祖母が拘留されたときには、和子さんと彼女をつなぐものは、という点です。この「縄」と「ひも」のニュアンスの違いは大きな意味を持っていると、私は思うのです。


 結論を先取りしてしまえば、縄から紐に拘束具が変わったことで、曾祖母は確実に動きやすくなった。

 日記を見ると、縄から紐に変わったのは意外と早くて、自殺未遂じさつみすい後、拘留こうりゅうされてから一週間が経った頃には紐へと変わっていたそうです。光の人型の記述が出てくるのはそれから一月ひとつきくらい後のことだということを踏まえると、それまでの期間に曾祖母が抜け穴を見つけるのは決して難しいことではないと言えるでしょう。

 

 では、なぜ曾祖母はあの夜に抜け出そうと画策したのか。


 それは言うまでもなく、その日が光次郎氏の四十九日だったからでしょう(曾祖母の日記には気づかなかったと書いてありますが)。


 もちろん、厳密げんみつにいえば光次郎氏の死亡日は判然としておらず、不明瞭ふめいりょうではありますが、しかし、空襲の日に命を落としたと考えれば、確かにその日は四十九日にあたります。

 ここからはさらに推測になりますが、恐らく曾祖母は日記の記述通り、あの堰堤に上ったのでしょう。彼との思い出のつまった、あの葉桜のある堰堤へ。そこで思いついたのが、葉桜の下への納骨のうこつだったのです。


 そしてきっと、このとき曾祖母は一人で歩いているなどと思っていなかった。光次郎氏とともに歩いていると、そう思っていたはずです。彼女は「彼がいるからこそ、こんな暗い夜道でも歩けるのだ」と、祭りの日の日記に残していますから。

 


 以上、私の推測をまとめると、まず曾祖母は縄から紐に自らの拘束具が変わったことにより、抜け出すのが容易になったと気付いた(もちろん、そのときから脱走することを考えていたわけではないでしょうが)。そして彼の四十九日の夜、庭から外に出た。このとき玄関からでなく、庭から出たのは、きっと玄関の扉が厳重に施錠せじょうされていたからでしょう。そして、夜道をさながら彼とともに歩いているように想像してあの葉桜の元に立った。そこで、彼の魂のほんの一部でも、ここに埋めてやることを思いついた。その後ひそかに戻り、紐を元に戻して再び眠った。

 

 こんなことを言ったら、さすがの曾祖母も怒るかもしれません。しかし、だから曾祖母が悪いというようなことが言いたいわけではないので、見逃していただきたいところです。

 それにこの説には弱点もあります。

 例えば、光次郎氏の姉も同様の夢を見ているという点です。

 ただ、わたしは、これは曾祖母の創作ではないかと思っています。何故なら、光次郎氏の自宅を訪ねた際、彼の姉と会話をしたのは曾祖母だけで、同伴どうはんした和子さん、サクさん、彬子さんの、誰も側にいなかったためです。そうなると国村家が身内の骨という大切なものをわけるという行為を結果的に果たされているということに、ややの違和感は覚えますが、しかし、まあ、時代の違いということでしょうか。

 若干あら捜しというか、無粋ぶすいていをなしてきたので、このあたりで光の人型の記述に関しての推測はやめることとします。

 



 最後に、もう一つの不思議な現象について、あの季節外れの葉桜について、述べることとします。

 実物を見た方が早いと思い立ち、私は現地に向かいました。本当に葉だけを見せる桜が存在するのか。季節は春、本来、桜の花が散る候。わたしは、曾祖母と光次郎氏の愛した堰堤えんていに上りました。

 

 はたして、その桜はすぐに見つかりました。

 薄桃色の並木の中、ただ一つだけ、季節を先取りしたかのように、その木はありました。

 川の流れ、対岸に集落、風の音、清涼。そこに立つ木は、確かな存在感を持っていました。

 その後、わたしは姉妹の中で唯一御存命の彬子あきこさんを訪ねました。

 本編に書くにあたって使用させていただいた日記を、現在の持ち主である彬子さんに返却するためです。齢80を超えた彬子さんは、こちらが申し訳なるくらいわたしをもてなしてくれました。

 

 この機会に、わたしは堰堤の葉桜について質問してみました。

 あの木は本当に葉しか見せないのか。そんな木が、果たして存在しうるのか。他にあの木について知っていることは無いか等々。

 その質問の一つ一つに、彬子さんはつぶさに答えてくださりました。

 彬子さんによると、あの木は明治期から既に存在し、他の桜同様、花を咲かせていたとのことです。そして、曾祖母がお骨を納めてから「永遠葉桜」となった。


「そんな木が枯れずにいるなんてありえるのでしょうか」

 そう問うと、

「植物学のことはわからないけど……。でも、現にああしてあるからねえ……」と戸惑ったようにおっしゃいました。無粋な愚問ぐもんだったと反省しています。

 

 科学的な証明など、不要なのです。どうしてそんなものが存在しうるのかはどうでもよくて、それがそこにあるということだけが唯一の真実、現実なのであり、説明など必要ないのです。曾祖母も彬子さんも、そうやってあの葉桜を見つめていたのです。


 なら、わたしもそれ以上の追及は必要ないでしょう。

 そして帰り際、彬子さんは日記には記されることのなかった、ある事実を教えてくださりました。


「実は、姉さんが亡くなった後、あの桜の下に、分骨したの。遺言通りね」


 身体の奥から震えが走ってきたのを感じました。

 彼女はずっと、死別してから80年以上も経っているのにもかかわらず、光次郎氏を覚えていたのです。そして、長き生の果てに、再び彼の元へかえっていったのです。

 

 浮かびかけた涙をこらえて彬子さんの家を後にし、帰り道、わたしは再びあの葉桜の下に立ちました。

 どうしてでしょう。たった先刻までと何も変わらない、日の当たる角度がわずかに変わった程度の違いにすぎないその永遠若葉が、全く別のものに思えました。

 同時に、とても愛おしく思ったのです。光次郎氏がこの木を愛した所以ゆえんの一端が、わかったような気がしました。


 ながくなってしまいましたが、これで曾祖母の日記に対する追加記述は終わりです。


 そして、最後にわたしがこれを小説にしようと思った理由を述べたいと思います。

 それは、先に挙げた「後悔」が最たる理由です。

 

 曾祖母が90年にもわたる長き人生の中で、かさず記し続けたあの日記を始めて見たとき、わたしには「もう少し話しておけばよかった」、「話を聞いておけばよかった」と、そんな後悔が胸に宿ったのです。

 しかし、わたしの何よりの後悔は、それを曾祖母の生前に気付くことが出来なかったということでした。


 そんなわたしが思いついた、たった一つの手段がこれだったのです。

 曾祖母のごとく、書にするというものだったのです。


 これを曾祖母に見てもらうことはできません。そもそも、彼女がいないからこその産物がこれであるわけですから。

 

 しかし、それではただの一方通行に過ぎません。ただの発話に、独り言に過ぎません。


 これを「会話」にするにはどうしたらよいか。その方法は一つしかないでしょう。


 全てを書き終え、筆を置いたら、わたしは拙作せっさく


 曾祖母は、突然ひ孫から贈り物が来たと驚くことでしょう。まして光次郎さんは全然知らない未来の人間から何か来たと眉をひそめるかもしれません。しかし、ご容赦ようしゃください。今となってはこうするしかないのです。

 どうぞ、読んでみてください。といっても多分、この部分を最初に読むことはないのではないかと思いますが。

 

 さて、書きたかったことは、これですべて書くことが出来ました。

 ここまで読んでいただいたすべての人に感謝します。原本は葉桜の下に埋めることとなりますが、このコピーは残すのでご安心ください。

                                                                                  

                               真宮 早和  

         亡き曾祖母に 国村氏に 曾祖叔母 和子氏 サク氏に捧ぐ

 

 


 真白なる 花の名残は なかれども なおとどまらむ 葉桜のもと  愚詠


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――









 36000字読破、ありがとうございます。蓬葉です。


 この話、実は「夢と葉桜」というボカロ曲を典拠の一つにしています。読み終わったなら、ぜひ聞いてみてください。ちなみに、私自身は作者の青木月光様とは一切の関与はありません。


原曲

https://www.nicovideo.jp/watch/sm15034898


紅 さんver

https://www.nicovideo.jp/watch/sm15064967


 以上追記でした。

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葉桜の由来[完全版] 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina

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