夜色の竜

倉橋玲

夜色の竜

 酷く静かだ。月明かりが照らす音すら聞こえてくるのではないかと思うほど、落ち着いた静寂で満たされている。

 目の前のおおきな体躯は、確かにこの目に映っているというのに、ひとたび目を閉じれば存在を見失うほどに、の竜の気配は静かだ。その姿はあたかもこの場から見上げた先にある夜空のようで、この竜になんとしっくり当て嵌まることだろうかと、幾度目になるか判らない感動を抱く。

 竜はその目を閉ざしたまま、色とりどりに咲き誇る花の中、身を丸めて横たわっている。よもや世界最強と謳われる生物である竜が、一介の人間の気配に気づかぬということはないだろう。ただ、もしかすると、酷く消耗しているせいで、眠りが深いのかもしれない。

 静養が必要なのだ。確かに竜は想像を絶する強さを誇る生き物だが、不死ではない。そもそも人と関わらない上、余りにも強いが故に傷を負った姿を人間が見ることはないが、だからといって死なないわけではないのだ。事実として、この竜を初めて間近で見たとき、竜はまさに死にかけと言うに相応しい有様だった。故にこの場に留まっている。否、留まらざるを得なくなってしまっている。

 傷を癒すために心身を休めている竜にとって、自分の気配がここにあるのは歓迎されないことかもしれない。そう思い、この場を離れるべく竜に背を向けたとき、声が掛かる。

『用が有ったのではないのか』

 低く響く声だ。深い森の中、澄んだ湖の水底を思わせる、静謐な雄大さを感じさせる音だ。どことなく掠れているように思えるのは、まだ本調子でないからだろう。

 振り返れば、竜の瞼は開かれ、その下にある夜の色をした瞳が此方を見ていた。

 ああ、美しい色だ。竜の身体を覆う鱗の色が、月のない星明りだけの闇夜ならば、この目の色は、夜明け前の紫紺を帯びた空である。硝子張りの天井から差し込む月の光が綺羅と反射し、夜の瞳に星を湛えている。

「すまない。具合の程を窺いに来たのだが、眠りを妨げてしまったか」

 眉を下げて苦笑を浮かべると、竜は気にした風もなく、構わぬと許す。まだ身体が重いのか、身を起こす気配はないが、想像以上に回復が早いようだ。流石は竜種だと内心で称賛する。

 起こしてしまったのか、それとも目を閉ざしていただけなのかは判然としないが、起きているのならば丁度いい。近づいても構わないかと問えば、肯定の言葉は返らなかったが、否定もされなかった。それを許可と受け取り、足を踏み出す。

 竜は此方から視線を外すことなく、まっすぐに見つめてくる。それに応えるように、己もまた竜の視線を真っ向から受け止めたが、あと数歩で触れられる位置で足を止め、夜明け前の瞳から、深い濃紺の体躯へと視線を移した。

 自然と、眉根が寄る。

 この竜が夜空を駆ける姿を、何度目にしたことだろう。この付近に生息しているのか、夜に空を見上げれば、その壮麗な飛翔を見ることは少なくなかった。

 夜を司る竜が空を飛ぶとき、その鱗は羽ばたくほどに星の灯りを反射して煌めき、それを受けた星々は更に輝きを増すのだ。稀に低空飛行をしているときなどは、鱗一枚一枚の輝きすら見て取れるのではないかと、いつも以上に目を凝らした。

 きっと、あれ以上の美しさに出会うことはない。この世の豪華絢爛、如何なる宝石や美術品であれど、あの姿の前では路傍の石の如く霞むことだろう。

 だが、そんな自然美の体現たる竜の身体は今、武骨な機械と融け合い、繋がれ、見る影もない。その姿に、思わず唇を噛み締めた。

 やれることは、全てやったのだ。死の陰がすぐそこで嗤っている竜をうつつに引き止めんが為、一族当主として、技術の限りを尽くした。代々連綿と研磨し精錬させてきた最高峰の機械術と錬金術を、己が血に脈々と受け継がれし叡智の結晶を、一切の惜しみなく、全て注ぎ込んだ。

 紛れもなく、これ以上ないほどに最良の措置を施した。なれども、だからこそ――

『如何にした』

「ああ、いや、……痛みはまだ、あるだろうか」

『ない。些か血を流し過ぎた故、今暫く動く気にはなれぬが』

「そうか。肉の身に機械を融合する場合、拒絶反応を起こすこともあるのだが、それもないようだな」

『そのようだ』

「何よりだ。このまま無事、馴染んでいくことだろう」

 細心の注意を払い、神経を切り詰めるようにして為したのだから、万に一つもないとは思っていた。だが、確証もなく、完全、完璧を信じることはできない。

 限りなく低くとも零ではない僅かな気掛かりは、しかしどうやら杞憂で済んだようだ。竜自身が言うのだから、間違いないだろう。

 小さく息を吐いて、そっと竜の傍らに寄る。一言声を掛けてから、施術を施した身体に触れた。想像していたよりもずっと分厚い鱗はゴツゴツと冷たく、けれど生物の脈動を確と感じさせる。ただそれだけであれば、以前より夢見ていた天上の夜色を目の前にし、実際に手を触れているという歓喜と恍惚に酔うこともできただろう。

 だが、己が。

『――して?』

「……何だろうか?」

 問うような声に竜を見遣ると、竜は僅かに首をもたげて此方を見ていた。そして、ぞろりと鋭い牙を覗かせ、低く平坦な声が言う。

『そろそろ良いだろう、何を奥歯に衣を着せるようにしておるのだ。言いたいことがあるのならば、早く言え』

 単刀直入に突き付けられたそれに、一瞬、どう言葉を返せば良いのか、浮かんでこなかった。

「……判ってしまうものか」

『判らぬとでも思うたか、愚か者め。半世紀も生きておらぬ若造が、隠し立てなぞ無駄よ、無駄』

 苦笑混じりに言って、誤魔化すように後頭部を掻けば、竜は喉を鳴らして、まるで笑っているような声で言葉を返してきた。言葉面は嘲っているようだったが、己を見据える夜色は酷く真っ直ぐで、言葉に含まれる色に違わず真摯だ。だからなのか、なんだか酷く堪らない心持ちになった。

 二、三、口を開いては閉じて、素直に言葉を吐き出すのがどうにも躊躇われてしまったのは、己のちゃちな虚栄心が故なのか、竜の瞳に宿る色合いに侮蔑が混じるのを恐れたからなのか。自分でも判らないが、根底にあるのは恐怖であったと思う。

 しかし竜はそれきり黙したまま、急かすでもなく、ただその夜に愚か者を映し続けるものだから。このまま曖昧に笑んで黙っているのは、この竜の高潔さに対し、余りにも無礼極まる行為だと思った。これ以上の愚物には成り果てたくない。それがこの夜の色をした竜の前であれば、なおのこと。

 そんな思いを胸に、唇を湿らせて、なんとか口を開く。

「……貴方は、もう空を飛ぶことはできない」

 それどころか、この場から離れることすら、もう。

 語尾は無様な掠れを見せた。告げる瞬間、どうしても竜の目を見ていられなくて、顔を伏せる。己の発した言葉に酷く胸が軋んで、どうしようもない痛みを訴えていた。

 肉体と機械の融合は、異物同士を混ぜ合わせるが故に、酷く繊細な技だ。無論、施術が成功している以上、この場にいる分には何の問題もないだろう。こうして装置に繋がれ、この地に留まっている分には。けれど、ひとたび装置から切り離し、空を飛びでもしようものなら、いかに竜種の肉体が強靭であろうと、耐え切ることはできないだろう。

 あれだけ、美しかったのに。あんなにも、悠々と空を泳いでいたのに。夜空の翼が星の海に輝く様は、世界の至宝と言っても過言ではなかったのに。

 己の手は、この竜からたくさんのものを奪ってしまったのだ。

『――ぬしは』

「……?」

 地に咲き散らす花に目を落としたまま、判決を待つ囚人の思いで立ち尽くしていると、竜の声が耳に落ちてくる。語りかけてくるような調子のそれは、此方の反応など気にかけもせず、訥々と続けられた。

『酷く、強欲よな』

 ああ否、人間なぞどれも愚かに強欲であるか。なればぬしの欲が傲慢なほどに深いのも、また道理なのであろうな。

 言葉の中身は唐突で、含まれる意味合いが掴めず、思わず顔を上げる。

 そこにあったのは、変わらずひたすらに美しい夜だ。侮蔑も落胆も、その逆の感情も何も含まない。雄大なる自然が、人のことなど意にも介さず、ただそこに在る。

『我の命は随分と軽く見られておるようだ。気高き竜種をこうも軽々しく扱おうとは、まこと豪胆よな』

「なっ……、俺が貴方の命を軽んじているだと !?  そんなこと、ありようものか!」

『違うと申すか』

「当然だ! 第一、もしもそうだったのならば、」

『だが、言い募る程に重いのだとほざく割に、掬えたのがそれだけでは足りぬのだろう?」

「っ、…………ぁ」

 静謐な明けに近い夜色が、ゆるりと細められ、

『死せば何も残らぬが、我は生きている。何もかもが無に帰す所であったものが、今以て我の内に在る。それは主が掬い上げたが故のこと。違うのか?』

 そう言った竜の眼差しは、子を見守る親のような慈しみと優しさに満ち満ちていて。この心の奥底に、柔くも確かに爪を立て、突き刺さるような心地がした。じんわりと発熱するように訴える熱は、痛みでありながらも、先程まで感じていたそれとは全く別の物だ。とくりとくりと拍動する熱の強さは、押しつけがましくなく、その在り処を主張する。

 ああ何故、何故こんなにも、この竜はうつくしいのだ。

 この竜を掬い上げたなど。否、真に救われているのは、己の方ではないか。竜の与えるいやにやさしい疼痛が、その証左だ。

 屈辱でない筈がないのだ。ヒトなどという矮小な存在にその身を弄られたことが、誇り高き竜種にとって耐えがたくない訳がないのだ。それでもそれらを呑み込んで、罪など在りはしないのだと。だから胸を張るが良いと。そう語るその心中は、如何ばかりか。

 己などでは到底計り知れぬその高潔さは、同時にひどく残酷だ。もうこの身には、二度と後悔することは許されない。誇りだけを、この胸に抱かなくてはならない。例えどれ程に竜の舞う星空に焦がれようとも、機械に侵されぬ純の夜色の美しさを惜しもうとも。己だけは、傲慢とも取られかねないこの所業を、決して悔いてはならないのだ。

 そうでなくては、この気高くうつくしい生き物の誇りを貶めてしまうから。

 だから、笑わなくては。

「そうか、……そうか、そうだ、ああ、その通りだ」

『得心したと?』

「ああ、無論だ。そも、貴方に施した術は、我が一族が組み上げし技術の全て。それをこうして為し遂げ、明確に素晴らしい結果を残した。まさに、一族の歴史に名を残すほどの偉業だ。これを誇らずにいられようか」

『そうか。なれば先程から我に滴り落ちるものは、ただの雨であるのだな』

 こうも美しい星が臨めるというに。

 相も変わらず揶揄するでもない静かな言葉に、眼前の夜色の鱗に額を付けて、問いには答えない。

 じくじくと止まぬ胸のやわらかな痛みは、この先もずっと付き纏い、消えゆくことはないのだろう。けれどそれで良い。この痛みがある限り、この誇りを忘れることは絶対にないのだ。

 だから、

「はは、貴方であっても知らないか。嬉しくても、人は雨を降らせることがあるのだと」

『ほう、それは知らなんだ。人とはまこと、不可解なものよ』

 だから、この痛みに泣くのは、これが最後だ。

 最後であるから、もう少しだけ、このまま。


 夜色の鱗に降る雨は、月明かりに光り、まるで星のようであった。

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