赤い翼の天使

滝川創

赤い翼の天使

 俺は幼少期、夢を持っていた。人を喜ばせ、笑顔にする仕事に就くことが夢だった。

 一方、俺は幼少期、いつも一人だった。毎日孤独を紛らわすために、行く当てもなく外を歩いていた。今日のような雪の日は、よく自分の分身を作った。積もった雪の上に寝転んで、両手両足をバタバタ動かすのだ。そうやってスノーエンジェルを作り、その横に寝転ぶ。それから自分の分身を隣に、将来なりたいものについて語るのだった。

 その頃は知っている仕事もそんなになかったので、マジシャンかお笑い芸人かそのあたりの仕事が憧れだった。人前に出て、皆を笑顔にするなり、颯爽と舞台裏へ帰っていく。その背中を想像して、聞こえない拍手に耳を傾けていた。

 大きくなるにつれて、俺は変わっていった。中学生の頃、自分は小さい子が好きであるということに気がついた。それからは子どもを喜ばせる仕事に就きたいと思うようになった。最初は漫画家を目指そうと思った。絵も得意な方だったし、自身がよく漫画を読んでいたから。でも、途中で気がついた。漫画家は子どもたちの喜ぶ姿が見えないのでは、と。やっぱり、幼稚園や小学校の先生がいいかもしれない、と思った。しかし、これと言って行動に移すわけでもなく、日々は何も変わらずに過ぎていった。将来の夢についても、寂しさからの逃げ場として使っていたのかもしれない。

 現実は思いもしない方向へと動いていった。

 あるとき、一人の人間を殺した。憎しみが殺させた。

 それから間もなく、もう一人殺した。あっという間に手は赤く染まった。

 一度転がり出した人生はなかなか止まらなかった。

 一人、また一人。目の前で命を落としていく人々。もう、手を赤くすることもなくなっていた。

 いつの間にか「殺し」は仕事になっていた。汚い人間から受けた仕事で汚い人間を消す日々。不自由はなかった。

 どうやら自分には天来の才能があるようだった。殺しを失敗することは決してなく、その跡がバレるようなこともなかった。これは、ターゲットをしっかりと絞っていたからだろう。


 俺は肉まんを買ってコンビニを出た。

 公園のベンチでそれを食べる。屋根付きの休憩所になっているベンチだ。

 今回のターゲットはボロいアパートの最上階に住んでいる。仕事を受ける際、家の情報はもらった。しかし、この目で確かめるのが失敗を防ぐためのポイントだ。

 肉まんを一口、鳩を眺め、その流れで脱出口となる窓、ベランダの位置、その先の逃走経路を目で辿る。

 大体は確認できた。壁が薄いから音には細心の注意を払わなくてはならない。非常時は屋根の上に登れば逃げることができる。近くの建物は高さが同じくらいで、距離もかなり近いので、飛び移って逃げることができるだろう。

 視線を下げると、すぐ近くの砂場で、一人の子どもがこちらを凝視していた。

 茶色い服はほつれていて、靴にも穴が空いている。男の子だった。小学校中学年くらいだろうか。

 彼の腹がぐううと鳴った。

 俺は肉まんを半分で分け、前に差し出した。

 彼は恐る恐る近寄ってくると、肉まんを受け取って、前にしゃがみ込んで頬張り始めた。

 ベンチをずれて席を作ったが、彼は俺から目を離さず、しゃがみ込んだまま肉まんを食べていた。

 肉まんを食べ終え、視察も終わったので、ベンチを立った。


「じゃあな」

 

 少年は俺の声に体を固めたが、小さくこくんと頷いた。

 公園から出て、その姿が見えなくなるまで、彼はこちらを見ていた。



 ***



 さっさと終わらせて寝よう。

 準備を終え、車から出る。吹雪だった。

 このパーキングエリアから五分ほどの所にやつの家はある。

 アタッシュケースを助手席から引き出し、車の鍵を閉める。

 ターゲットは、ある組織からヤクを持ち逃げした男。

 年齢は俺のちょっと上で三十六歳。無職。一人暮しで家族はいない。

 俺はバイヤーを演じて金の入ったアタッシュケースを出し、ブツを回収する。それからやつを始末し、他の品を回収してここに戻る。

 体にぴったり密着した特殊なスーツに、指紋を残さないための手袋、唾液を飛ばさないためのマスク。証拠を現場に残さないための装備を改めて確認する。毛髪を残さないためにそり上げた頭が寒かったが、持ってきたニット帽を被るとだいぶ良くなった。

 風の音を耳に、店が並ぶ路地裏を歩く。

 ふとケーキ屋裏のゴミ捨て場が目にとまる。

 そこには袋に入った大量のケーキが捨てられていた。数十、いや、百近くだろうか。一度、飾られ、整えられたケーキはぐちゃぐちゃの状態だった。

 毎日、どれだけのケーキが作られ、食べられることなく捨てられているのだろう。捨てられているのは、ケーキに限った話ではないが。

 ケーキ屋脇の細い道を抜けて、目的のアパートがある通りに出る。雪が顔に吹きつけられた。

 昼過ぎに来た公園のベンチには、ホームレスがいた。

 ダンボールで壁を作り、じっと動かない。ダウンの中に隠れた表情は見えなかった。

 彼は今夜、食事を摂ることはできたのだろうか。

 公園の前を通り、アパートの入口へと向かう。

 

 インターホンを鳴らすと、チェーンのかかった扉の隙間から男が顔を出した。

 無精髭に、茶髪、頬に切ったような深い傷があった。


「取引に来た」

 

 その言葉を聞くと、男は周囲を警戒しながらチェーンを外した。

 家の床には雑誌やカップ麺が転がっており、部屋の真ん中にちゃぶ台があった。

 入口付近にコンロと流し、その反対側にシャワールームがある。

 リビングの奥にはふすまがあり、リビングの横にもドアが一つ。おそらくどちらかが寝室でもう一方が隠された部屋だろう。


「座ってくれ」


 言われたとおり、ちゃぶ台の玄関から近い方に座り、アタッシュケースをちゃぶ台に置く。


「言われた額を持ってきた。中身は品と同時に確認する」


 彼は横の扉の部屋へと入っていくと、がさごそと音を立て、しばらくして紙袋を持ってきた。


「これだ」


 紙袋から白い粉の入ったパックを取り出し、中身を確認する。

 やつが持ってきたのは、持ち逃げされたブツの十分の一にも満たない量だった。

 一方、やつはぎっしりと札が詰ったアタッシュケースを眺め、やつは笑みを隠しきれていなかった。どうせ表に面している数枚以外は、偽札であろうに。

 俺は袋を紙袋に戻した。


「上質だ。ところで、これ以外にSがあったりしないか。もし、可能であれば追加で取引したいんだが」


 情報によると、やつは覚醒剤も隠し持っている。


「品を見せてもらえると嬉しい」


 やつは目をおろおろさせてから、ちょっと待っててくれ、と言い残し、隣の部屋へと戻っていった。

 ヒーターがチチチと音を立てる。

 俺は懐からワイヤを取り出しつつ、床を轢ませないように立ち上がった。

 隣の部屋のドアの脇へ移動し、中の様子を確認する。

 部屋の奥に作業台があり、その脇に置かれた段ボール箱の前でやつはしゃがみ込んでいる。

 床には大量の段ボール箱が積み上げられており、そのうちのいくつかは倒壊して、中身が地面にぶちまけられていた。


「これじゃねえな……」


 やつの独り言に被せるように、背後から一歩ずつ近づいていく。

 かさかさと袋が擦れ合う音。風に窓がガタガタ揺れる音。

 ワイヤを彼の頭の上へと近づけ――。

 赤ちゃんの泣き声だった。背後から赤ちゃんの泣き声が聞こえる。

 やつが振り向く。俺の腕は動かない。

 その目がかっと開き、やつは机上のハサミを手に襲いかかってきた。

 攻撃を受け止めつつ、転がる何かに足を取られ、地面に倒れ込む。

 やつが覆い被さる形で、ハサミを俺の顔に刺そうと体重をかけてくる。

 赤ちゃんの声はまだ止まない。

 左腕で、ハサミを持つ相手の手を食い止めながら、右手で腰につけた小型ナイフを探る。

 やつは雄叫びを上げながらハサミを持つ腕に力を入れる。

 なんとかナイフを掴んだ右手で、相手の腹にそれを突き刺す。

 繊維の破ける音がして、ハサミを持つ力が弱まる。

 ナイフを引き抜くと、温かいものが腹部に流れて広がった。

 間髪入れず、ナイフを首に突き刺し、引き抜いた。

 鮮血が吹き出し、俺の上に降り注ぐ。

 力の抜けきったやつの体を横に転がし、起き上がる。

 コートもズボンも真っ赤に染まっていた。こんなことは初めてだ。

 だが、そんなことよりも、脳内をかき乱すのは鳴り止まない赤ちゃんの声だった。

 転がったワイヤを拾い上げようとしてかがむ。隣に粉ミルクの缶が転がっていた。これに足を取られたのだ。

 自分の顔が引き攣るのがわかった。

 どうして赤ちゃんがこんなところにいるのだ。やつに家族はいないはずだ。散々確認した。

 問いたかったが、本人はもう既に転がったまま動かなくなっていた。

 ワイヤとハサミを拾い上げ、震える手でブツの回収を急ぐ。

 近くに置いてあった大きな麻袋に手当たり次第ブツを投げ入れる。

 最悪の失敗をしでかしてしまった。ずっと恐れていた事態。

 早く逃げなくては。盛大に物音を立ててしまった上、このアパートの壁は酷く薄い。誰かが来るのは時間の問題だろう。

 居間に戻ろうとするが、足が思うように動かない。倒れたときに捻ったようだ。鈍い痛みが走る。

 赤ちゃんの泣き声は居間の奥、ふすまの向こうからしていた。

 止められない震えに歯が鳴る。

 早く逃げなくては。

 アタッシュケースを手に取り、玄関へ体を向けたその時、どんどんどん、と扉が叩かれた。


「ちょっと、すごい音だったけど、大丈夫ですか!?」


 向こう側から中年女性らしき声がくぐもって聞こえた。

 背筋が凍った。

 残された逃走経路は奥の部屋の窓。つまり、ふすまの向こうにしかない。

 張り裂けそうな足に鞭打って、ふすまの前まで移動する。

 助けを求める鳴き声が耳に痛く響く。

 俺はふすまをそっと開けた。

 赤ちゃんの声が大きくなる。

 暗い部屋に布団が敷かれ、そこで毛布にくるまれた赤ちゃんが泣いていた。

 目を凝らして見ると、その横に飲みかけのミルクが置いてあった。

 俺が到着していたとき、やつはミルクをあげていたのだろう。

 俺は赤ちゃんを抱き上げ、哺乳瓶をその口に当てた。

 自分でも何をしているのかわからなかった。頭がおかしくなったとしか思えなかった。

 美味しそうにそれを飲む姿。

 両手で哺乳瓶を求め、生き延びようとする姿。

 俺の頬は濡れていた。

 赤ちゃんの長いまつげには涙がついていた。男の子だろうか、女の子だろうか。俺には女の子に見えた。


「警察呼びますよ!」


 玄関からただ事ではないと悟った住民の叫び声が聞こえる。

 現場でこんなにも動揺している自分が何よりも恐ろしかった。

 ミルクを飲み終えた赤ちゃんをとんとんと揺らすと、げっぷをした。

 そっと寝かせ、窓からベランダへ出る。

 ここは最上階なので、上は屋上だ。

 アタッシュケースと袋を先に投げ上げ、それからパイプを伝って屋上に登った。

 足がうまく動かず何度か落ちそうになったが、屋上に這い上がることができ、袋とケースを両手に屋上からとなりの建物へと移っていった。

 屋根の上にも雪が積もっており、足を取られそうになる。

 現場からちょっと離れた所まで来て、そろそろ地面に降りようと下を眺めると、そこには人影があった。

 いつの間にか雪は止んでいて、月明かりが背後から差し込んだ。

 人影は小さかった。子どものようだ。彼は眩しそうにこちらを見ていた。

 それから、彼は手を振った。

 世界から音がなくなったように感じた。

 視界が急に澄み渡る。

 俺も、つられるようにして手を振る。

 ケーキ屋の表で光るツリーが目にとまった。

 そうだ、今日は十二月二十四日だ。

 俺は自分の服装に目をやった。赤い服、ニット帽、手にした袋。

 もう一度、心を込めて手を振り返す。

 ずずっと雪が滑り、重心が後ろに崩れる。

 そのまま体が屋根から離れた。

 雪と一緒に宙を舞う。

 雲の隙間から覗く月があった。

 衝撃が走り、何かが潰れたみたいな妙な音がした。

 ぼやけた視界に子どもが近寄ってくる。

 子どもは警戒するように少し距離を取ったところで止まった。


「サンタさん、大丈夫?」


 俺は苦しい息を我慢して笑顔を作る。


「大丈夫だ。大丈夫」


 彼は不安げな表情で、覗き込んでいた。その顔には見覚えがあった。今日、公園であった子だ。


「本当に?」

「ああ、大丈夫だ。見てみろ。こんなに元気だ」


 力を振り絞り、痛みに絶叫しそうになるのを抑え、四肢を大きく動かす。


「僕が手を振っちゃったから、落ちちゃったの?」


 彼の目には涙がたまっていた。


「そんなことはないよ。ちょっと足を滑らせただけだ」

「ごめんなさい。今まで、プレゼントもらえたことなくって、初めてサンタクロースに会えて、嬉しくてつい振っちゃったんだ」

「大丈夫だ。君は良い子だ。さあ、お家に帰るんだ。君は良い子だから。風をひかないうちに帰りなさい」


 彼はまだ心配そうな顔をしていたが、ゆっくりとその場を離れていった。


「おやすみなさい……おじさんは、サンタだったんだね」


 振り向きざまに言う彼に、俺は微笑んで答えた。


「メリークリスマス」


 雪に埋もれた体は、これまでにないくらい温かく感じられた。



 ***



 少年は翌朝、再びその場を訪れた。

 近くで何か事件があったようで、警察が走り回り、クリスマスは朝から騒然としていた。

 昨晩、サンタクロースが落ちてきた辺りに来ると、そこに彼の姿はなく、代わりに一体のスノーエンジェルが残っていた。


「夢じゃなかったんだ……」


 朝日の下、雪上に横たわる天使は赤く染まり、その翼は大きく羽ばたいていた。

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赤い翼の天使 滝川創 @rooman

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