陽は昇る

@shouma-m

第1話

昼間の熱がなかなか地面から抜けきらない蒸し暑い夏の日、陽は長い。


亜熱帯の果樹、ピタンガの木の実は日当たりが良いと稀に少ない実をその木に付けるのですって。


まるで人間における良心みたいなもんだ。


憐憫や寛容、慈愛なんて路傍の石を模した石ころみたいなもんで見えていたって気付けないだろう。這いつくばって眺めていればそのうち違いが見えるのかもしれないね。


 地平線が湾曲しているせいで遠くの雲はぼくには見えない。途方もなく四散しながら青だけを置き去りに雲を赤く染めている。ビルに乗る雲、歩く道を振り返って見るこの景色が好きだ。落ちていく陽が照らす雲、あの人の残照。


 今晩から雨が降るだろうか。庭のリンドウの鉢を部屋の中に入れなくては。足早に帰りたかったが空腹で軽くなった身体はフワフワとから回ってうまく進めない。今日もなんのために生き、誰のために家に帰るのか。帰ってまたアルコールで脳を溶かす快楽だけを心のよりどころにいつまで暮らせるだろうか。過酷な日常、理不尽への鬱屈とした思いや銀色の鈍い輝きは色彩豊かで早口の弾むマーケットに隠した。言葉の波は艶やかに彩られている。信頼や希望は釣り銭に紛れて緩やかに消えていった。疲弊したぼくらの世代からすれば所詮重荷だったんだ。


 日が暮れる頃、家に着いてまず濡れた靴す下、下着、ズボンをシャワーを浴びながら洗う。これは今あみ出した洗濯洗剤で身体を洗いながら服も洗濯する技だ。我ながら素晴らしいと思う。濡れているのは夜に降るはずの雨がさっき大袈裟に振りはしゃいだから。スニーカーからは嫌な臭いがしている。こう身体が冷えるとじぶんが惨めで可哀想で、喉の奥から音が絞り出された。それがより一層の冷えた悲しみなのだと心で理解した。突風吹く広い荒野で膝折るような気持ち。地平線と雑木、枯れ草の世界で、この風が遠くのまだ見ぬ海上で発生し見えない山にぶつかり消えていることを想像できるだろうか。見たことも聞いたこともない世界はどこかにあるのだろうか。



 シャワーを終えて身体を拭き新しいシャツに着替えた。今使ったタオルも一緒に洗濯してさあ脱水はどうしたもんかなと考えていると ピンポーン 呼び出し音にビクッとしながらドアを開けると先ほどの自分と同じようなずぶ濡れの男が立っていた。彼はぼくの働くレストランのオーナーで名前は“ユウ”さん。かつては夜な夜なゴルフの練習や煙草に付き合わされたが結婚を機に誘われなくなった。半年前に子どもが産まれてからもたまにお酒は今でも飲んでいるみたいだがぼくは未成年なので飲酒に誘われることはない(なぜか煙草は良いのだそうだ)


 黙って立っているとタオルを貸してと明るく言われた。ハンドタオルサイズのものが無かったのでふだんは使わない大きなバスタオルを渡す。濡れた靴下とシャツを脱ぎ足を拭かれている間はなんだかな…と思いながら黙って眺めている。「どっか置いといてもいい?」と聞かれたので洗濯中の自分のものと一緒に洗う事にした。じゃあこれもと言ってズボンとパンツも脱いで浴槽に放り込まれた。一度水を抜き洗剤を少し足して洗い(踏んで)、何度かすすいだ。「すすいでみたのですが、脱水ってどうしたらいいんですかね?」ユウは目玉を右上に向け5秒静止したのちに「エスは普段どうしてるの?」と返してきた。「絞ってます。でもユウさんのズボン、デニムだから絞れなくて」ユウはまた3秒静止して「タオルで挟んでギューっとしてみるとか?」明るく言う。いやそうなんですけどバスタオルあなたが今、腰に巻いているものしか無いのですが…


「パンツとズボンを貸しますのでそのバスタオル借りても良いですか?」 


そう言うとユウは笑って「借りてもってきみのだからね」とぼくのパンツを受け取り後ろを向いてタオルを取った。素早く正確に、よろけずにパンツを履くと「脱水はおれがやるよ」と浴槽に向かった。そこまでしていただかなくても…と思ったがどこまでがなになのかよく分からないので脱水から黙って任せて室内干し用のロープを張った。


 で、今日はどうしてうちに来たんですか?インスタントコーヒーを入れながら尋ねると「うーん、なんか今日は疲れちゃったからもういいかなーって思って」ユウは目尻を下げ、左上を見ながらテーブルに肘を付いた。


「明日は雨ですかね?」ずぶ濡れで来たユウはこの雨の中きっと帰れないだろう。泊まっていくのだろうか?コンッと固い木製の音。


「わりと早めに降りだしましたし朝には止んでるといいですね」そう言って見るとユウは突っ伏して寝ていた。ぼくはコーヒーをカップ半分残し、伸びをしてからユウの後ろに座布団を敷きゆっくり上体を倒し、毛布を掛けた。ドロップフォルムのピアスは寝ている時に外さなくて良いのだろうか。引っ掛けて怪我とかしないのだろうか。



 なんなんだよまったく。ため息をついたときに気がついた、いつのまにか雨の音は止んでいる。窓を開けると冷えた風が吹き込んできた。また冷たい夜がやってきたのか。


喜びのあとには悲しみが、絶頂のあとには空虚が、大きな口径で待っている。


夜、その帳の下りるとき、どうしようもない不安と焦燥に駆り立てられる。ひとりでいても、誰かの隣にいても。瞼で可視光を避けて遠くの光の事を考える。空には星がなく、沈黙は老いを加速させる。草が静かに、その実に露を落ち着けようとしている。


 秋の夜長の始まりは吹き抜ける風とともに訪れる。水分の少なくなった果実はその赤色と甘味を凝縮させる。


朝の彩りを取り戻すまでのしばらくの沈黙、夕日と同じ色の夜露は土に落ち、コスモスを薄く染めた。


この瞬間を忘れないでいよう。そう思ったことだけは少なくとも忘れたくない。


花が落ちるときの音を、月の光が照らす風を。


朝には鮮やかさを失ってしまうこの葉は、夜に風が月の色を塗っていたのだと誰に伝えよう。


昼でも夜でも風景を思い浮かべればそこにはいつもひとり。


少し外を歩いてきますね、どうかぐっすり眠っていてください。


濡れて嫌なにおいのスニーカーは裸足にへばりつく鉄のひだのようで不快だ。外は潰れたイチョウの実のにおい。不快で落ち着くにおいが呼吸器に吸い付き行き先は深淵に見えた。


雨水を含んだ土の上を吹き抜ける風はぬるく重たい。雲は月の光を吸い込みおぼろげで巨大に見える。


虫の交遊関係はいつだって蚊帳の外だ。孤独は柵のなかにある。


狭くなっていく歩幅ではたどり着けない場所、明るい誰かのいる場所。


目線の少し先、地面のすぐ近くに鮮やかな青色の傘から声が聞こえた「さっきの雨、おれがやっつけていなくなったんだ!」隣の大きな深緑の傘に向かってはしゃぐ声は雨粒に反射して青をより鮮やかに照らしている。足取りは軽く、人生の希望とその喜びがわかる。きっと帰る家は今頃部屋中を流れ星が飛び交い、カーテンから星空が流れ込んできているのだろう。部屋を開け、灯りを点けると漂う星粒が温かい花になり咲くのだろう。


楽しい気分は悲しい現実の中に存在する。ある単純な事実にたどり着いてしまう時というのは偶然にしかないのかもしれない。しかしそういうものがいつまでも心に残っているものだとも思う。


深い闇は明るい闇の彼方へ点となり消えていった。


いつの間にか雲は晴れ、月の光が冷たく夜露を照らしている。もうどこにも暖かさは無く、虫も夢も息をすぼめてひっそりと棲み処に引きこもっていったようだ。



 冬の夜から季節は始まる。際限なく冷えていく周りの空気に戸惑う。


時間をかけて花や木を知り、昼や夜、季節の移り変わりを沈黙の中で感じよう。寛大な心は冬の土が黙々として命の成長をはぐくむように惜しみなく与えられるものだ。


星さえざえと瞬く冬の空、少しだけ見て星の数を確認する。見知らぬ誰かの中に溶けていきそうな声で鳴いた夜、いっそ凍えて死のうか焼かれて死のうかと。


星が死んだあと、地上から光が数年後も見えている。必死でもがけば跡が残る。ちぎった草を燃やした後のような濡れた炭のにおい、暗闇では耳と鼻の感覚が研ぎ澄まされる。キーンという無音の中にポッ……路傍の花が雪をひと粒受け止めた。心に降る雪はふわふわと暖かい気がする。


暖かさを求めて懸命に走る。星の軌道に沿って。


冷えた宇宙空間の中、呼吸は肺に氷粉を流し込み粘膜に激しい痛みを与え続けた。加速を慣性に切り替え、惰性のノズルは深淵へと姿を変えた。


汗が冷える頃、ひどい耳鳴りがした。こめかみの脈動で頭が痛い。崩れたレンガに座り、呼吸を整える。


家に帰るとユウはまだ寝ていた。寝ている体勢からは起きた様子はうかがえないがトイレの電気が点いていたので一度は起きたのかもしれない。


小さなランプで明かりをとって熱いシャワーを浴びる。歯を磨き、オイルで顔を洗いあごと鼻の下に生えた産毛を剃る。


頭を濡らすときにタオルが無いことに気が付き絶望した。とにかく首から背中にかけて念入りにシャワーを当て温めよう。


頬が紅潮し全身から湯気が出るほど温め、入念に髪の毛を絞り着ていたシャツで身体を拭く。


寒気は暖かさを鮮明に引き立てる。


小さな明かりはユウの姿を映さない。おぼろげな輪郭線から距離をとり、起こさないように静かにシンクに向かいお湯を沸かして飲んだ。


灯された明かりは喜びを照らす。喜びは悲しみの前触れだ。


寝よう、布団を敷き座布団を折りたたんで枕にした。ランプの明かりを消すと真の暗闇になった。


まぶたを閉じると眼球に集まっていた意識が血液に溶け出し全身にまわっていくのを感じる。


水の中に沈んだ心が放つ気泡に光を当てるような、照準がうまく合わずもどかしさのなか眠りはすぐに訪れた。考えるのは苦手なんだ。



雪はゆっくりと闇を溶かし、寒さの頂点で朝は生まれる。


誰もが日の出に目を向ける中、ぼくはひとり背を向け消え行く星を惜しんでいる。


土のうごめきが、花の彩りが、虫の吐息が、草の胎動が、喜べと生命が語りかけてくる。


眩しさと夜より毛布一枚分の暖かさの中で目を覚ますとユウは先に起きていた。


ユウは奥の窓に向かって白い息を吐いていた。ぼくのカップに熱い湯を注いで。


朝日に溶けた輪郭が影の中で熱に揺れた。


「おはよう、窓で楽しんでた」


そう言ってカップを置き指でもうひとつの窓を作り、ゆっくりこちらに向けた。


ドロップフォルムの耳飾りは振り子のように幸せと日常にふれている。


きっと後悔と悲しみの中にしか幸せはない。


「おはよう」


この季節が好きだ。霜が朝露に変わり光を反射させる悲しいほど美しい朝。


茹でたての卵とコーヒーを二人分並べて訪ねてみた


「昨日はなんでうちに来たんですか?」


ユウは腕を組みながら少し笑った。


「昨日さ、奥さんと買い物してるときにケイと会ってさ!」眉をひそめながら明るめの声で話した。


ケイは同じレストランのキッチンで働く女の子だ。背が高く、髪は短い。プリントのないシンプルで形の変わったシャツと薄い黄色のスニーカーを好んで履いている。


ラストオーダーの調理が終わると30秒後には着替えて1分以内に帰ってしまうので給仕をしているぼくと個人的に話す機会はほとんど(まったく)ない。


「その時してたピアスがおれとケイがお揃いでさー、奥さんが怪しんじゃって、なんでなんで?って、で、困って出てきちゃったんだよ」


ピアス、いつもピアスホールがむき出しのケイがピアスをしている印象は無かった。


「ケイさん、休日はピアスするんですね」


「んー、あんまりしないみたいなんだけどこの前ふたりで遊んだ時にもらった。アクセサリー作るのが趣味なんだって」


それから先をぼくは聞かない。「そうですか」そして沈黙。


ふたりでお揃いのピアスを奥様の前で付けるその神経に怒りが沸いた。


ケイさんはユウさんのことが好きなのだろうか?でなければ遊ばないか、あげたピアスのお揃いを休日にしないか。


妻子がいることは知っているはずだよな、いつから関係があるのだろうか。


ぼくが黙っているとユウは笑みをやめ窓を向いたまま卵とコーヒーを飲み干し難しい顔で手帳を眺めていた。


「え、怒った?まあ、息抜きっていうかお互いカジュアルな関係だからさ、エスって真面目なんだな。そういやエスって彼女とかいたことあるの?」


沈黙、口を開くのが恐ろしくなった。


「ああ、悪かったよ。おれもそんな良い人間じゃないからさ、やめてよ怒んないでよ」


つまらない諍いではあったが一度黙ると口を開くのが億劫だ、そしてさっき滲み出した彼の悪意を許せなかった。ぼくは頭も心も手足の冷えにも堪えて座っているのに。


目の前の男が不機嫌そうに目を伏せているのには腹が立った。


窓から射す陽の影、カップのコーヒーは手のひらから熱を奪い始めていた。


ひとつの行動が少しだけ変化をもたらす。初心にはもう戻れない。


進む先に希望が無いことがわかってしまっても、ジリジリと歩を進めるしかない。


黒を引き立てる強いハイライト


闇は朝に生まれる。


「帰るね、泊めてくれてありがとう。モーニングもね」


送り出すためにまだ乾かない汚れたスニーカーに足を突っ込む。コンクリートに染みた雨水が一層みじめに見える。


今すぐ剥がして捨てたいスニーカー、これしか履くものは持っていない。


庭には昨日部屋に入れ損ねたリンドウの鉢、大きな雨粒が土をえぐりクレーターになっている。


こんなことがこれからも続くのか、クレーターをならした土に涙が落ちる。雲の無い青い空は見なくてもわかる、あれは遠いところにある。



ここで泣いていると人目につく、隠れるために部屋に入ろうとすると後ろで声が聞こえた。


「あっ、」


うちに用があるのだろうか、しかし今訪ねられても応対したくないな。郵便か宅配なら置いておいてくれ。


しばらくぼんやりして涙がおさまるのを待っていた。


まつ毛も乾き、心のさざ波が引いた頃改めてドアにノックが響いた。開けると同い年くらいの男の人が立っていた。


「あ、ここの大家のお使いで来ましたシイです。畑で採れた野菜を渡してこいということなので良かったらどうぞ」


堂々とした声だ、眼鏡は汚れているが奥の目は輝いている。大家の息子、恵まれたひと。


季節の変わり目に大きく育ちすぎた野菜をくれるのは、まあ助かる。


「ああ、はい。ありがとうございます」


電源を切ったエアコンが絞り出す冷気の様な声で応えた。


「すみません、迷惑なら捨ててもらって構いませんので」そう言い残して数メートル先に待たしていた仲間の元へ走って行った。


「終わった?泣いてたアイツ?」


思慮の足らない思春期の人間がいる。


「やめろって、優しいひとだったよ。人が泣く時はそれなりに理由があるんだよ」


それを制する声が聞こえた。


びっくりした。自分のことを優しいなんて言ってくれる優しい人がいるなんて。


なるほど、そう思うだけでついさっきまでの悲しみは軽くなった。


行き暮れた先で飲めば水のなんと美味しいことか。



道は今も揺らいで見える。日常いつもは品の無い冗談のように心をしおれさせ、咲いた花を喜ぶより枯れた草を慈しむことを歓迎する。


咲ききった次の瞬間には枯れ始めているといえるのだから。


萎れた気分であっても生きるために働く。


職場のレストランに行くと気分も紛れる。


ケイは今日もいつも通りそそくさと帰っていく。


いつもより露出の多いシャツは背中を大きく見せ、褐色の肌は白いドロップフォルムのピアスを華やかに引き立てている。


エスは心のクレーターが再度浮き上がるのを表情を変えまいと堪えていた。


一日の終わりに鉛のような疲労、今日はひとりで眠りたい。


ひとりで最後の客を見送りクロスを畳み灯りを消す。


光の消えた白熱灯はフィラメントの残像に営業の熱気を乗せて、ゆっくりと消える。


ゴミをまとめて裏口から帰ろうとするとケイが現れた。


「オーナーはまだいます?」


「いや、もう帰られました。ぼくひとりです」


ケイは慌てているようで来た道を引き返しながら


「そうですか」


続けて誰にか文句を言っている様だった。


感じ悪いな、心の中で呟き門を出るとケイが電話をしていた。


なんで出ないのよ…怒りと焦り、不安と悲しみ。


そんな思いが伝わってきて自身の朝の感情が疼かされた。


うずくまり肩を震わせるケイの気配を背中にエスは小走りで家路を急ぐ。


冷めたお風呂からなかなか出られないように、冷めた恋からも抜けられない。


まだ夜は冷える季節、心配でないわけではないが彼女になんと声を掛けることができるだろう。



家に帰るとまず湯を沸かしてゆっくり飲んだ。


窓から月が見える。傷つき悲しむことが約束された関係。彼等が求めているのは互いの恥辱。再生不可能な感情は分かち合うことは出来ないのかもしれない。自分で大切に持って手放してはいけないものなんだろう。


優しさや幸せという刺激的な言葉は酔わないように、少しずつ薄めて取り込む必要がある。


そんな不安もいまのぼくにはただの空想だ。


夢、計画、憶測、未来、願望、必要、渇望…


どれもぶっそうな言葉だ。


それは予定していた愛情を失したときの寂しさのようであった。毒で毒を再生産する。


せめて罪を殺せれば誰かは救われるかもしれない。


毎日仕事に行ってシャワーを浴びて眠る。


いまはそれしか考えられない。


月を眺めながら目を閉じる。


先の見えない暗闇で、小さな光を見つけた時、誰がその光に背を向けられるだろう。


光という単純な事実でさえ、現実にはほとんど闇なのだということにたどり着くことは稀だ。


器は空っぽでないと水を汲めない。光は窓からしか部屋に差し込まない。


たとえいま、絶望的としか現状を形容できなくとも闇のなかで脚を前に進めなくてはならない。


ひどい眠気の中で歯を磨き、熱いシャワーを浴びた。眠りにつく感覚もなく横たわり、ひっくり返したステンレスの平たい鍋のように眠った。


やがて灰色の夜明けが世界ににじり寄る。



長い眠りから覚めたとき、頭はしびれて身体は重い。1杯の水を飲み、ひとさじの砂糖を口に流し込んだ。


身体を巡る血液は少しずつ手足を動かし、エスは曖昧にスロウに踊った。


少しずつテンポをあげてシャッセからジュッテ、飛び上がった時に部屋の継ぎ目の梁に勢いよく頭をぶつけた。


ゴンッ(もしくはグワォーンッ)


家は大きく揺れ、棚の上にあった空のプラ容器が落ちた。


眼前に星がチラつきパチパチと音が聞こえる。動けない、血が出ていないか何度も頭頂部を触った。何本か毛が抜けている。擦りむいたみたいだ。



玄関のドアが鋭く叩かれた。


「大丈夫ですか?」昨日の男の声だ、シイと言ったっけ。とにかくいまは勘弁して欲しい。


黙っているとシイよりにドアは開けられた。


「失礼します、大丈夫ですかー?」


ハキハキとした声だ。


家は狭い、返事をする間もなく倒れたまま見つかった。


「うわあ、大丈夫ですか?起きられない感じ?」


シイは荷物を置き駆け寄った。


「すみません、頭をぶつけまして」


合点のいったという表情を浮かべ、シイは自身のハンカチを濡らしエスの額にあてた。


「大丈夫?すっご腫れてる!これハンカチあてて大丈夫かな?」


も、もう大丈夫です……そう言って身を起こした。


「これ、あてといてください」


シイはハンカチをぐいと押し付けた。


「痛っ、ありがとう」


「どこにぶつけたんすか?」


「あの、梁に」


「なんでー、どうやって?」


「ちょっとジャンプしちゃって」


シイはハッハッと大きな声で吹き出した。


「そういうことするんですね、意外かも。今日はまた親父が野菜とおすすめのパンがあるから持っていけってお使いで。で、来たらダーン(グワォーンッ)って音がしたから大丈夫かなー?と思って開けたら倒れてたからびっくりしちゃって。笑ってごめんなさい」


ホッとしたシイはまくし立てた。


「いや、全然大丈夫。なんかここのところ暗い気分だったけどなんか吹っ飛んだ。踊ってたんですよ。で、飛んだら頭ぶつけて」


本当に暗い気分は無くなり笑えた。


「踊ってた!ひとりで?そういうのあるー」


シイは改めてハッハッと声を上げた。


水飲んで良い?ああ、入れるよ。


ふたりはいつの間にか敬語を話さないようにしていた。


「また来る、お使い抜きでも」


「ああ、いつでもどうぞ」


いい気分だ。


「あ、忘れてた。おはよう、またね」


「おはよう、また近いうちに」



希望のきっかけは絶望だけではない。好奇心が、懐かしさが、歩む道を示す。


いまが過ぎた日になれば、きっとここにも温和な光は灯っているはず。


ただ、じりじりとであっても前を向けることが嬉しい。


そよ風に歌う、心はここにはない。


過ぎ去った時間の層の断面は何故かひとりひとり違う。


幸せは気ままな夢の一雫


今度いちごジャムのカフェオレを一緒に飲もう。


陽は高く、長く、今日という日を照らしはじめている。

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