Day1-2
気がつけば、やや日が傾いていた。
客足も途絶え、今日はもう店じまいでも問題ないだろう。そんなことをかんがえて、はたと彼女は気付いた。
昼食を、食べていない。
以仕事に集中していて昼食を食べ損ね、けーくんに正座させられた以前の記憶が甦る。作ってくれた物は夜にちゃんと食べる、といったら益々眦がつり上がったのをよく覚えている。
けーくんの料理は、美味しい。それはもう、百人に聞けば百二十人がそう答えると保証出来るほどに。みぞれも、決して意図して食事を蔑ろにしている訳ではない。ただ、ほんの少しだけ、仕事に集中したいだけなのだ。
せめて、少しでも手をつけておけば、怒りが和らぐだろうか、と淡い期待を寄せて、いつもけーくんが料理を運ぶ机に目をやる。
だが、机の上にあるのは工具の山。
それだけだった。
資料や工具で埋め尽くされた机。いつも、それをちょちょっと避けて、料理を置いていくのに。物が退かされた跡すらない。
第一、昼食を置いていく時に必ずけーくんは声をかけていく。たとえみぞれが生返事しか寄越さないとしても、だ。
だが、それも今日はなかった気がする。記憶にあるのは、献立の相談に来たとき、紅茶を持参したことだけ。そのときに、口紅の話をした。なのに、そのあとの記憶の中に彼はいない。
となると、けーくんは、今日昼食を持ってきていないことになる。
そんなことは、今まで共に暮らしてきて一度もなかった。自分に食事をとらせることに生き甲斐を感じ、一食抜くと般若のような形相で、それでも淡々と説教する彼が。数年の付き合いで、初めて。
何かがおかしい。
けーくんに、何かがあった。かもしれない。
あの筋骨粒々のゴリラをどうこうしようとする者は、そう多くはない。というか、あの見た目がそもそも戦意喪失を促す。得体のしれないものに対する恐怖は万物共通である。彼の見た目は、こいつには近寄らない方が良さそうだ。という判断を強制的に下させる。見た目にインパクトがありすぎるだけで害はあまりないのだが、余計な邪魔事を避けられるというのは大きなメリットかもしれない。本人は、怖がられることを気にしているらしいが。
そんな、彼に、何かが?
正直なところ、みぞれは喧嘩などには向いていない。その自覚が十二分ある。出来ることといえばせいぜいスパナを振り回して威嚇することくらいだろうか。そんな自分が、けーくんに何かするような者を相手に出来るわけがない。
だが、ここであれやこれやと思いを巡らせても事態は変わらない。意を決して、みぞれはスパナを手に、恐る恐る部屋を出て階段に向かった。階段までの道のりがこんなに遠いと思ったのは初めてだ。
普段の倍の時間をかけてたどり着いた二階にある住居スペースへの扉が、今日はとても重たく見える。普段なら何も考えず開けるところだが、今は非常時だ。こんこんこん、と三回ノックをする。これで気付いたけーくんが扉を開けてくれないだろうかという彼女の細やかな願いは、残念ながら叶わなかった。
きっかり1分経ったところで、無意識に止めていた息を吐き出し、もう一度気を引き締める。もうこれは、自分で扉を開けて、部屋に入るしかない。ノックをしても何も起こらなかったのだから、何かしらをした悪い人はいないのだろう、多分。扉を開けた瞬間に襲われる…なんてことはないはずだ、きっと。
右手に持ったスパナをぎゅっと握りしめ、胸のあたりまで持ち上げる。左手はそっと添えるだけ。
中にどんな光景が広がっているか、極力想像しないようにしながら、ゆっくりと、音をたてないように、扉を開いた。
その向こうは、自分が朝起きたときより、僅かばかり綺麗になったダイニングだった。
特に何かが起きたようには見えない。強いていうなら、けーくんが気合いを入れて掃除したであろう食器棚のガラスが、窓から入る夕日を反射して電飾並みに光輝いている。それだけだ。
みぞれが店で作業している時、けーくんはせっせと家事に勤しんでいるのだ。だいたいどこかしらがピカピカに磨かれているのはいつものことだ。みぞれの生活はけーくんが支えている。いつどこに嫁に出しても恥ずかしくないな、とみぞれが思っているのは余談である。
いつも通りの、なんてことのない部屋。それなのに、彼だけがいない。それが、なによりの異常だった。目の届く範囲には、彼はいない。2m近くあるあの巨体を完全に隠すのは、決して容易ではない。だとしたら、彼の寝室か。もしくは、みぞれの自室。二つある客間は、今は鍵がかかっているはずだ。
鍵のかかっているはずの部屋まで、わざわざあける理由があるだろうか。どこから確認すべきか。
状況を整理することに気を取られ、一瞬意識を緩めかけたとき、今いるダイニングに併設されたキッチンから物音がした。顔を向けると同時に、手に持っていたスパナをおもむろに振り回したら、甲高い音と共に弾き飛ばされる。予想外の事態に体勢を大きく崩す。スパナを弾いた何かがこちらに向かって来て、ぐいと腕を掴まれる。辛うじて引っくり返らずにすむが、いったい誰が。けーくんを襲った某か。だがなぜ自分を支えたのだろうか。倒れた方が好都合なはずだ。改めて腕を掴んだ何かを見れば。
「全く……。相変わらず血の気が多いな、Q。相手が俺だったことを、有り難く思うがいい。」
「……エース、」
それは、全身黒ずくめの、フードのついたマントを羽織った小柄な男だった。
異世界転生したいなんて言ってない! 黒井寝子 @neruneruko
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