異世界転生したいなんて言ってない!

黒井寝子

Day1-1

ここ、アルベニスの街は、数日ぶりの快晴だった。


しばらく続いていた雨が上がり、家の中にいることを強要されていた子供たちがはしゃぐ声がする。

家に貯まった洗濯物を干しながら、おしゃべりする主婦たちの声が、道路の上を飛び交っている。

町中張り巡らされている水路の様子を、船乗りたちが綿密に確認している。

客が来なくてがらんとしていた店々に、人々の声が染みていく。


そんな街の、とある家屋。二階建ての建物の玄関先を掃き清める、1人の女性。

名を栗原みぞれという。だがこの街の人は皆、彼女を名前ではなく【先生】と呼ぶ。

彼女は、雨に流されてきた泥を避け、ドアノブを軽く拭く。入口にかけたベルの埃を落として、最後にドアに一輪花を飾った。今日の花は、露草だ。


一通りの準備を終え、ふうと息を着いたみぞれに、道行く男性が声をかける。

「おはよう、先生!今日は開店休業にならないといいねぇ!」

「おはよう、ムッシュ。雨が上がった日はみんなここぞとばかりに来るから、ありがたい限りなの。」

「はっは、それはいい!」

頑張れよ!と朗らかに去っていく男性に、ゆるゆると手を振るみぞれ。

男性の背中がそこの角を曲がるのを見届けてから、彼女も屋内へ入っていく。からん、という音と共に、入口の露草が揺れた。

さて、開店である。



「せんせー!鍋の蓋の持ち手がとれたのー!」

「ラジオの音が出ないんだが……先生、直せる?」

「お湯を出したいのに、ひえっひえの水しか出ないの!助けて先生!」

「はいはい、順番に診るので、とりあえずそこの名簿に名前を書いてね。」

みぞれの予言通り、本日は繁忙日だった。

雨で出歩くのが億劫だった人々が、こぞって壊れた品を持ち寄ってくる。それを直すのが彼女の仕事だ。

最初はおもちゃの医者を名乗り細々と仕事をしていたが、次第におもちゃ以外を持ち込む人が増えていった。特に断ることもなく、あれやこれやと対応してしまったが最後。皆競うようにして壊れたものを持ってくるようになった。呼ばれれば出張で手直しもするおかげで、おもちゃの医者だったはずが、もはや街の便利屋である。今日のように忙しいと、食事をとることも儘ならないほどである。

「くーちゃん、入るよ?」

くるくると動き回るみぞれに、ドアから顔を覗かせて声をかける影があった。

「……サンドイッチくらいなら、摘まめる?」

マグカップ片手に声をかけてきたのは、筋骨粒々の大男だった。はち切れんばかりに盛り上がった体に、大きく襟の開いたシャツを身に付け、さらにその上にフリフリのエプロンを着ている。長めの茶髪は耳の後ろで束ねられ、口元には浅黒い肌に合う紅い口紅。初めて見た者は、三度見返して、ようやく幻覚でないことを認めるくらい、インパクトのある姿である。

「サンドイッチくらいなら、多分。」

みぞれの言葉にドスの利いた低い声で、柔らかく彼は続けた。

「なら、用意するね。あと、こっちに紅茶の温いの置いておくから、倒さないよう気を付けてね。」

「ありがと。」

「ちゃんと、水分はとってね。今日は暑くなるみたいだから。」

彼のいたわる言葉にふと顔を上げたみぞれは、彼の顔を見て少し驚いた声を出した。

「うん。……今日の口紅は、またずいぶん濃いのね。」

「少し唇が荒れ気味でね。保湿効果のあるのだけだと薄いかなと思って重ねたんだけど……。くーちゃんがそういうなら、落としてこようかな。」

「……けーくんが気にならないなら、いいんじゃないかな。」

そう言って、みぞれはまた、持ち込まれた患者に向き合う。彼の特徴的な化粧も、慣れたものである。彼も特に気にすることなく部屋を後にした。

ワーカーホリックの気があるみぞれに、きちんと三食食べさせるのが、彼、けーくんの最大の使命であった。そのためには、あまり無駄話をしている暇はないのだ。たんぱく質、脂質、炭水化物。ビタミンもミネラルも満遍なく。かといって、フルコースを出してもあの忙しさでは食べられない。けーくんとしては、匙を使って彼女に甲斐甲斐しく食事を口元まで運ぶことも吝かではない。だが、そんなことをすれば、まず間違いなくスパナが飛んでくる。別に大した被害はないからそれでもよいのだが、そのあとのご機嫌とりに時間を喰ってしまう。だから、なるべく食べやすく、片手ですみ、手元に注目する必要なく彼女が自分で食べられるものを。さてさて、どんな中身にしようか。

そんなことを考えながら、軽い足取りで二階の住居スペースに上がっていく。みぞれの集中を切らすわけにはいかないので、足音は極々僅かに。そうして、入ったリビングは、無人ではなかった。

「……久しいな。会いたかったぞ、K。」

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