第9話 入道雲の向こう側へ

 月日はたち、再びこの地に立つ。

 かつて君に連れられてきたこの場所に。

 君と約束を交わした、この場所に。


「今日は絶好のフライト日和だ、な」


 晩夏の風が穏やかに身体を吹き抜けていった。自然を感じさせる緑の匂いと、ほんの少しの潮っ気が鼻腔をくすぐる。


「……そろそろかな」


 呟きながら抑えられぬ笑みを口元に浮かべ、悠然と機体を手に取る。頭にかけていたサングラスを下げ、手に抱えていたヘルメットを被り、キュッときつめにあごひもを締める。


 機体を掴んだまま、意気揚々と離陸地点へと向かう。そして目に差し込むオレンジの逆光を前に、山の斜面に立った。

 この瞬間が最も恐怖を感じ、一番ワクワクする瞬間だ。


 脇からは二本のパイプが伸び、その先に携わる幅十メートルほどのセールが風を受けて身体をふわりと押し上げる。まるで自分に両翼が生え、鳥にでもなったような気分だった。


 眼前に広がるは山の稜線。目先にはかつて自分が閉じこもっていた病院も見えた。


 僕はそれらすべてを飛び越えるように、大きく一歩一歩と板を踏みしめ走って行く。山の下り斜面に沿って作られた離陸地点を走るにつれ、そのうち足がつきにくくなっていく。


 最後に一歩、大きく右足を踏み込むと同時に、セールが風を受け大きく身体ごと宙に押し上げた。


 風を感じ、緑の匂いを感じ、瞬く間に地上から遥か遠のく。

 まるでジオラマを見ているかの如く木々の一本一本は小さくなり、地上からはどこまでも続くように見えていた稜線の果てが目鼻先に捕らえられる。


 耳に響くのはセールの風切り音とバリオメーターの電子音のみ。

 人の声も車の出す騒音も聞こえず、まるで世界に自分しかいなくなってしまったかのように感じる。


 広い世界を見渡すように、ぐるりと首を動かしながら、視界一杯に映る大自然をこの身で感じる。一瞬目を閉じて大きく息を継ぎ、普段なら触れることも叶わない地上数百メートルの空気を、肺一杯に吸い込んだ。


 あのとき君に会っていなければ、今僕はここにいなかった。

 あのとき君が動画を残してくれなければ、こんなにも自由でいられなかった。


 心の昂りが相まって、思わずコントロールバーを握る手に力がこもる。


 すると突然、強い上昇気流にぶつかる。セールが風を受けキシキシと音を立てながら、僕を更に上空へと押し上げた。




「――やっぱり飛べたじゃねぇか」


 ふと、そんな声が聞こえたような気がして、前方に視線を向ける。


 すると、山を越えた先に見える水平線から、橙色に輝く太陽がのぞき込んでいて、その光を正面に受けながら飛ぶ君の姿を幻視した。


「さ、一緒に幸せ、探しにいこうぜ」

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入道雲の向こう側へ 藤咲准平 @hnfujijun

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