第8話 巣立ちの時

 僕はサイドテーブルからスマホを手に取ってポケットにしまい、そのまま自力で車いすをこいで病室を後にする。そしてまっすぐにエレベーターに乗って一階へと降り、透析室ではなく病院の出口へと向かった。


 外に出ると、視界はどんよりとした灰色に染まっていた。先ほどまで陽が射していたはずなのに、見上げれば空に浮かぶ雲は厚く、外気は少し肌寒かった。


 僕は急いで車いすを走らせ病院前の駐車スペースを出て、できる限り路面の綺麗な道を進んだ。車行き交う大通りを、駅前の商店街を、閑静な住宅街を、田んぼが形作る十字路を、無心で駆けて行った。



 そしてたどり着く、かつて一人で登ることのできなかったあの坂の下に。



 今度は誰も手伝ってなどくれない。自力でこの長い長い坂を登っていかなければいけない。


 でも行くんだ、由太郎の待つ、あの場所に。


 息をのみ、ハンドリムにグッと力をこめ、前のめりに坂を登り始める。三つの坂が織りなす蛇腹道を、息せき切って懸命に登っていく。


 途中の平地を使って休息をとる。思いつくがままに出てきてしまったが、途中飲み物を買っておけば良かったと、ここにきて後悔する。それでも、引き返すつもりはなかった。


 息が整ったら、再度坂を登り始める。二度目の坂は一度目のそれよりなお、リムを握る腕に負担をかけた。やはりどうしても、長い坂を連続で登っていくのはこの身体では耐えがたい。


 途中、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。なんとタイミングの悪いことか。これではより一層、車いすで坂を登ることが困難になっていく。これ以上時間をかけてはいけない。リムを握る手により一層力が入る。


 二つの目の平地に辿りついたとき、腕はすでにプルプルと震えて続けていた。酸欠のせいか、意識も朦朧としている。見上げた空には宵闇の黒がもうすぐそこにまで迫ってきていた。


 フッ、と息を吐き、勢いのままに坂を登ろうとする。が、少し登ったところで腕が限界を訴え、まともに力が入らなかった。どうにかして前に進もうと、必死になってリムを送ろうとしたが、途端雨に濡れたリムで右手が滑ってしまいバランスを崩した。


 そのまま身体は前のめりになり、ドシャッと坂の上で転倒してしまう。


 肘に、足に、背中に触れる水滴が、体温を急激に奪っていった。かろうじて、坂をあまり登れていなかったためか、車いすはその場で横倒しになるだけで済んだ。


 しかしこうなってしまうともうどうにもできない。一度力が入らなくなった腕は回復に相当な時間がかかるだろうし、車いすを起き上がらせるのも一苦労だ。しかし、そうこうしているうちに容赦なくあたりは暗闇に包まれるだろう。


 どうすればいいんだ……このままでは最後まで登りきることはできない……!


 僕は悔しさのあまり拳を作って地面をたたく。この間にも雨は容赦なく背中に打ち付け、僕の身体の熱を奪っていった。


 途方に暮れかけたとき、ふと記憶の中の由太郎を思い出す。

 松葉杖であろうと果敢に挑んでいくあの姿を。鬼のような形相を浮かべ、額から滝のように汗を流しながらも、懸命に困難に立ち向かう勇猛さを。


 俯きかけた顔を、再度目の前の坂に向ける。

 やるしかない。ここで立ち止まってしまっては、今までの僕と同じだ。


 僕は両膝を立て、上体を起こした。そのままゆっくりと正座するように姿勢を正していく。右足から順にゆっくりと足の裏を地面につけ、体重を右足に移し、今度は左足、そうして身体をゆっくりと起こしながら立ち上がっていく。


 いける、気がする。

 もともと、由太郎のように足を骨折しているわけではない。リハビリのときも自分の足で歩けてはいる。最後の一本道だけなら、なんとかなるのではないだろうか。


 両足を踏みしめ立ちあがったところで、ピリッと、腰から足にかけて稲妻のような痛みが走る。やはり全体重を支え切るのは難しいらしい。


 ひざに両手を当て、腕を使って足りない力を補う。そうしてやっと一歩、右足を踏み出した。続いて左足、右足と、一歩ずつ丁寧に前進していく。


 おそらく今の僕の姿はとてつもなく不格好なことだろう。

 でも僕にできることはもう、これしかない。


 時間をかけて、それでも着実に坂を登っていく。一日にの終わりを示すように、辺りは徐々に暗くなっていく。見上げると月が雲に隠れながらぼんやりとその輪郭を露わにしていた。


 体感としては二時間も三時間も経ってしまったように思う。

 時間をかけ、一歩一歩必死に前に足を運んだ。

 そうしてようやく、僕は頂上に到達した。


 たった一人で、この坂を登り切ることができたのだ。


 気づくと、雨はやんでいた。

 倒れ込むようにして、冷たく濡れた手すりに上体を預ける。高台から見える景色はどこか幽寂な雰囲気を纏っていた。それは前に見たときよりも、なぜだか冷たくて、寂しくて、切なかった。


 一瞬、水平線上に立ち上る入道雲の切れ間から、オレンジの光が漏れる。時雨の飛沫が斜陽に照らされ、金でできた柱のように輝きを見せた。


 その雲の隙間から、彼に声が届くようにと願い、声を上げる。


「由太郎!」

 息も絶え絶えに高台の手すりから身を乗り出すようにして、僕は叫んだ。


「僕、絶対この病気治すから。そしてきっと、空に飛び立つから!」


 この場所じゃないと、届かない気がした。

 空に近いこの場所で、僕が今行ける、一番由太郎のいる場所に近いこの高台から。


「だから、待っててくれ!」


 由太郎との約束を力いっぱいに叫んだ。吹き付ける潮風にもかき消されないように。遠い遠い、雲の上にも届くように。


 ***



なぁ、瑠璃也。


お前も、一緒に空を飛ばないか。


そしたらきっと、楽しいこともたくさん見つけられるぞ。


初めて外に出かけたとき、お前言ったよな。自分は鳥かごの中の青い鳥だ、って。


いいじゃねぇか、青い鳥。人を幸せにして、最後は自分の羽根で飛び立つんだろ。幸

せを探しにさ。


瑠璃也だってさ、勇気を出せばいつだって飛び立つことができるんだぜ?


そしたらさ、自由に飛び回ればいい。今までできなかったことを、好きなだけやったらいいさ。


それでももし、幸せを見つけられないっていうんならさ……そんときゃ、俺が手伝ってやるからよ!



 ***

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