第7話 彼の残した言葉
動画はいつものように、ハンググライダーで飛び立つ前、山の上の広場のシーンから始まった。
カメラは広場の土くれを移したのち、ぐるっと視点が回ってからピタッと止まると、由太郎の顔のアップが映る。
「今日もこれからハンググライダーに乗って飛びまーす。二回目のソロフライト! やっぱり一人で自由に飛ぶのはワクワクするぜ~」
空を駆ける期待をそのまま顔に表しながら、由太郎は満面の笑みを浮かべて見せる。
久々に見る由太郎の顔だった。
記憶の姿のまま彼はここにいるのに、今はもうこの世にはいないのだと言う。
未だにそれが実感できない。信じたくない。
彼の姿を見て、再び視界が滲む。もはや感情を制御することができなかった。自然と涙がこぼれてきてしまう。
ふと、背後からも「ううっ」と嗚咽が漏れる。振り返りはしなかったが、前田さんも泣いているようだった。
動画の中の彼は、頭にかけていたサングラスを装着し、したり顔を浮かべる。
「初お披露目、自前のサングラスだ! ずっと親父の借りてたからな、ちゃんと自分のが欲しくてこの前買ったんだ。かっこいいだろ!」
彼が見せるそのサングラスの存在を、僕はすでに知っていた。別の動画で見ていたからだが、おそらくこの動画はそれより前に撮られたものらしい。しかし、こんなやり取りは僕が見た動画にはなかったように思う。
「この動画……見たことないです」
顔を上げて、空井さんにそのままを伝える。すると空井さんは「そうか、じゃあ最後まで見てみて」と視線を画面に戻すように促した。
いつものように、彼はそのままフライトの準備を進める。ヘルメットを被り、自分の機体に手に持っていたカメラを取り付ける。そしてそのまま離陸地点へと向かった。
「今日は絶好のフライト日和だ」
口角をあげ空を見上げながら彼は呟く。
しばらくすると、離陸地点から走りだし、由太郎はハンググライダーで空に飛び立った。その日はやや陽が傾き始めた頃のフライトだった。
「瑠璃也、この場所覚えてるか?」
カメラに映し出されたのは、以前連れ出された高台付近のフライトエリアだった。
「いつかこの上を飛びたいって言った、あの場所だよ。ついに念願叶って飛ぶことができたんだ! 思った通り、ここは最高に気持ちいいよ!」
見覚えのある風景がジオラマのように映しだされる。
僕たちがかつて見た地平線を、由太郎は自由に飛び回っていた。
装着したヘルメットとサングラスでほとんど表情は見えないが、口元の緩み具合だけでも十分に伝わるほど気分よく、フライトを堪能しているようだった。
たまに強く風が吹くと、カメラに入るゴォーという激しい風切り音とともに、由太郎が「ひゃっほー!」だの叫ぶ声が混じる。そして今度は浜辺付近を飛びながら、どこまでも広がる水平線を眺め「はぁ……」と感嘆の声を漏らす。
底抜けに明るく自由な彼がそこにいた。
彼が元気に生きていないなんて、やっぱり信じられない。
ややあって、騒がしかった由太郎の声が唐突に止んだ。
聞こえるのはセールが受ける風切りの音のみだ。
やがて、眼下の森を染め上げているオレンジの陽の光が色濃くなっていく。カメラの正面に映る由太郎の頬も、陽にあたり影を作っていた。声を鎮めた彼は今何を想い、どんな表情をしているのか。
ふと、彼が声を上げる。
「なぁ、瑠璃也――」
彼は、それから僕に抱いていた想いの丈を語る。
***
「なんて、こりゃ恥ずかしいな。俺の性に合わねぇや。この動画は送るのやめとくかなー」
そう言って由太郎は小さく自嘲した。
彼はそのまま、着陸地点である畑の一角に向けて降下していった。その頃にはすでに日は沈みかけており、空は夕暮れの橙色と宵闇の群青色が混ざって鮮やかなグラデーションを作り上げていた。
着陸間際、風切り音にかき消されるくらいの大きさで、彼が呟く。
「でもほんとに、いつかは瑠璃也とこの空を飛んでみたいな……」
そんな言葉を最後に、動画は終わりを迎えた。
僕は最後のシーンを移したまま、画面をしばらくの間無言でじっと眺めていた。
「瑠璃也君、どうだったかね」
柔らかな声色で、空井さんが尋ねる。
その言葉に反応するように、僕はゆっくりと顔をあげた。
なぜだかもう、涙は止まっていた。
「由太郎の気持ち、知れてよかったです」
先ほどまでとは変わって冷静に、しかし心から感じた想いをそのままに呟く。
空井さんは僕の表情を伺うように、しばらくまっすぐに視線を投げかけていたが、やがて頬を緩ませると、
「それは良かった」
と、ただそれだけ言って笑みを浮かべた。
空井さんは僕の手からスマホを受け取り、胸ポケットにしまう。
「じゃあ今日はこれで失礼します。お墓の場所はまた、連絡しますから。顔を見せてやっていただけると、あの子も喜ぶと思います」
そう言って、病室の出口へと向かっていた。
背を向け、そのまま出ていくのかと思いきや、思い立ったように振り返り、こちらを向き直っては大きく頭を下げる。
「由太郎と、仲良くしてくれてありがとう。あの子もきっと、君と出会えたことを喜んでいたと思う」
決然と、しかし少しだけ声を上ずらせながら、空井さんは感謝の言葉を述べて病室を去っていった。
外からは鈴虫の鳴く声が聞こえ、物静かな病室の中をこだまする。
じっとしていると、涙の通った道筋が、乾いてぱりぱりと音を立てているように感じられた。その違和感を打ち消すように、僕は一度瞼をきつく閉じて顔をクシャッと乱す。
唾を飲み込みカラカラになった喉を潤すと、前田さんにこう語り掛けた。
「前田さん。僕、腎臓手術受けることにするよ」
ピクッ、と車いすのハンドルに力が入るのが分かる。そして小さく、前田さんは「えっ」と声を漏らした。
「それ、本当……?」
「……うん。なんだか、由太郎の言葉を聞いてたら、ちゃんとしなくちゃって思って」
窓から差す斜陽が頬を差し、なんだか妙に身体が暖かく感じられ、不思議な高揚感を得る。
あれほど、悲しい出来事があったというのに。
由太郎の言葉がずっと頭の中に残っていて。
由太郎がそうやって、今も僕のそばで励ましてくれているような気がして。
「僕、父さんに電話して手術のこと伝えるよ。前田さんも、予定とか確認してもらえるかな。透析室にはあとで自分の足で向かうから」
「……うん。分かった」
震える声で前田さんは答えると、ハンドルから手を離して「じゃあ、先生にも伝えてくるわね」と優しく微笑み、急ぎ足で病室から出て行った。
途中、右手で頬を擦る仕草が印象的に映った。
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