第6話 友の行方

 夕暮れの差す病室に、女性のシルエットを象った影がスラリと伸びていく。


 彼女の表情は見えない。二人の間に再び沈黙が落ちる。

 にも関わらず、お互いが透析室に向かおうと動き出すことはなかった。ただその場で黄昏るばかりだ。


 そんなときにふと、ドアがノックされる。


 驚いて咄嗟に視線を向けた。

 今度こそはきっと、とそんな淡い希望に沸き立つ。




 しかしその希望は、またもや叶えられることはなかった。


「失礼します、九条……瑠璃也さんのお部屋で間違いないでしょうか」


 引き戸を開けて現れたのはチェック柄のシャツとベージュのチノパンに身を包んだ、白髪交じりの初老の男性だった。

 名前を呼ばれた以上は僕に用があるのだろうけれど、その見た目に一切見覚えがない。


「突然お伺いして申し訳ございません。空井と申します」


 男性が軽く会釈をしながら病室に入ってくると、前田さんが僕の後ろで「空井……」と男性に聞こえないくらいの声量で呟く。


 やがて、あっ、と小さく声を漏らすと、

「由太郎君のお父様! どうされたんですか」

 と驚きの表情を浮かべながら尋ねた。


 僕は目の前にいる男性が由太郎の父親だと聞いて、なんだか想像と違うなと思った。


 勝手な想像ながら、もっとハツラツとした年齢よりも若々しく見えるような、そんな人を思い浮かべていた。

 が、目の前の人物はそういった印象からは程遠い、落ち着いたおじさんと言った感じだ。


「はい、実は瑠璃也君にお伝えしなきゃいけないことがありまして」


 うまく状況を飲み込めず、特に返答もしない僕を前に、空井さんはなぜか決然とした表情を浮かべていた。何か、大切なことを語ろうとしているように。視線はまっすぐとゆるぎなく、僕の姿を捉えている。


 そんな空井さんの口から、僕の想像をはるかに上回るような出来事が語られた。



「先月の中頃、由太郎が……ハンググライダーの事故で墜落死しました」



「……え?」

 聞いた途端、時が止まったかのように思えた。



 由太郎が、死……ん、だ?



「いえ、その、それは……ご愁傷様でした……」


 答えたのは前田さんだった。

 その声は空井さんに届いたのかどうか。声には出しながらも、その言葉尻はだんだんと窄まっていく。


「突然こんなことを言われて混乱されるかもしれませんが、事実です。早くお伝えできればよかったのですが……何分私たちとしてもいきなりのことだったものですから」


 空井さんは言いながらも、申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。それは反応を返すこともできない僕にではなく、意外そうに声を上げた前田さんに対しての謝罪だろう。


 再び空井さんが僕の顔を覗くようにして向き直る。


「あの子はいつも君のことを話していました……最初話に上がったのはあの子が退院するとき、病院で友達ができたんだー、と帰りの車の中で聞いた時です。それからたびたび連絡を取り合っているのも聞いていて……ハンググライダーを始めたときも、瑠璃也君に報告しなきゃ、なんていつも楽しそうに言っていました」


 思い出すように目尻を下げながら空井さんは語る。ときに小さく笑みを浮かべ、子供をあやすように優しい語り口で由太郎の過去を明らかにしていった。それは僕の知らない、由太郎の姿だった。


「もともと明るい子でしたが、瑠璃也君の話をしているときはなんだか一層楽しそうに話すんです」


 空井さんの話を聞いていると、目の奥がじんじんと熱を帯びていくのを感じるとともに、得も言われぬ怒りがふつふつと湧いてきた。


 由太郎は僕のことを見限ったりなんてしてなかったんだ。


 連絡が来なくなったのも、話を聞く限り由太郎が事故に遭ってからだ。それまではいつだって、何かあるたびに「土産話」をしてくれたじゃないか。あのとき高台で約束してくれた通りに。


 そうじゃなくたって、一ヶ月程度連絡がないくらいで友達を疑うなんてどうかしていた。由太郎との関係を「諦めた」だなんて簡単に思うだなんて……


 見限ったのは由太郎なんかじゃない、僕の方じゃないか。


 自身を苛む感情をぶつけるように、手元の車いすのフレームを強く握りしめる。

 感情が少しずつあふれ出し、次第に視界が歪んでいった。


「そんな……」

 どうして由太郎が死んでしまうんだ。


「なんで、あんないつも元気なやつが」

 足を骨折したって、松葉杖で人を押しながら山を登るようなめちゃくちゃなやつが。いつも元気ハツラツで、話す人みんなを明るくしてくれるようなやつが。


「なんで由太郎が死ななきゃいけないんだ!」


 僕に生きる意味を教えてくれたあんな良いやつが、なんで死ななきゃいけないんだ。誰よりも自由に空を飛びたいだなんて、そんなの生きてなきゃどうしようもないじゃないか。あいつは死んじゃいけないやつだったじゃないか。



 どうせ死ぬなら、いつまでも生きる勇気を持てない僕が、死ねばよかったんだ。



「……うぅ」

 気づいたら、目から涙があふれていた。

 俯いた視線の先に、患者衣のズボンが大きな黒いシミを複数作っていた。叫んでから、こんなにも感情的になって泣いていることに自分で驚いた。それほどまでに、由太郎の存在をよりどころにしていたのだと、このときになってやっと気づく。


「ありがとう。あの子のことをそんな風に想ってくれる友達がいるというだけで嬉しいよ」


 視界の外で、僕を気遣うように空井さんが柔らかな語調で諭す。その言葉の優しさに、またズキン、と胸に痛みが走るのを感じた。


「それで、今日はもう一つ用があって君に会いたかったんだ」


 コツコツと音を立てながら、空井さんが近づいてきた。

 僕は慌てて目をしばしばと瞬いて、顔を上げる。しかし、溢れ出てきた涙はそんな簡単に引っこんではくれず、空井さんの顔の輪郭が歪んで見えた。そして幾度か、ぽろりぽろりと水滴が零れ落ちる。


 僕を眺めながら、空井さんは再びニコっと柔らなく微笑んだ。

 そうして一息置くと、改めて先ほどの話を続けた。


「あの子がハンググライダーをするとき、いつも必ず動画を撮っていてね。多分、多くは君に送るためのものだったようだから、直接は見たことはなかったんだよ。でも葬儀が終わってから、あの子が残したものだからと思ってそれらを見返したんだ」

 語る空井さんの表情は寂しげで、瞳には哀愁の影が滲む。


「そしたらね、とある動画を見つけて」

 そう言って、空井さんは胸ポケットからスマホを取りだした。由太郎が使っていたスマホだった。


「この動画だけ、多分撮るだけ撮って君には送っていないんじゃないかと思うんだ。どうもその……恥ずかしかったのかな」

 はは、と小さくはにかみながら頭をかく。


 僕は左手で差し出された由太郎のスマホを受け取る。

 そして目尻にたまった涙をごしごしとふき取ってから居住まいを正し、画面に表示された再生ボタンを押した。

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