平原の魔法使い
@hinataran
第1話
涼しげな風が吹き抜ける、黄昏時の大草原。そこを上から見下ろせば、何もかもが赤く色づいている。土も、草も、人も、羊や山羊たちも、世界は鮮やかに染められる。
馬に乗った遊牧民に追い立てられ、家畜たちは集落の真ん中の柵の中に集められた。テントでぐるりと囲まれた中に、何十頭もの羊や山羊が収まっていく。家畜を追う為、馬に乗った男たちや子どもたちが集落に帰っていくのが見える。
その中に、一人だけ民族衣装を着ていない若者がいた。上から眺めれば、他の人間より幾分背が高いのが分かる。
羽をはばたかせ、その長身の若者に向けて、ゆっくりと高度を下げることにした。
その若者の肩に降り立ったのは、彼が集落に辿り着いたのとほぼ同時であった。
「おぅ!お前も今帰りか?ダンディライアン!」
若者は二カッと笑うと、虹色の長尾を持つ黄色の鳥――ダンディライアン――を撫でた。少しだけ鳴いてみせると、ダンディライアンは涼やかな目で若者を見つめた。
「上空から貴様を観察していたが……なんだあのザマは」
大人の男の声で、ダンディライアンが尋ねる。
「『あのザマ』?どの『ザマ』だ?」
首を傾げると、若者の黒い癖っ毛がダンディライアンの顔にかかる。ダンディライアンは、それをうっとおしそうに避けると、怪訝な表情を浮かべた。
『どのザマか?』などと惚けているこの男。わざとボケているならまだ良い。だがこれがわざとではなく、本気で分かっていないから性質が悪くて困る。
「お前の追った羊どもは、どんどん集落から離れて行ったではないか。集めるのが仕事のはずが、散らしてどうする。……エリオット、貴様はつくづく羊飼いには向かぬな」
フンと鼻で笑うと、若者――エリオット――は怒るでもなく、愉快そうに大きな笑い声を上げた。ダンディライアンを撫でていた手で自分の後頭部をガシガシと掻くと、その癖っ毛が余計に酷くはねる。
「ハハハッ!確かに、俺は羊飼いにはなれんなぁ!ダンディの方が向いてるんじゃないか?今度やってみろよ」
(こやつ、本物の阿呆か)
鼻で笑われ小馬鹿にされているのに、それを肯定したうえで笑い飛ばすとは。馬鹿にされているのだという自覚がないのか?いや、自覚があるうえでこの返答ができるなら、大物かもしれない。
しかし、ダンディライアンには、未だその見極めができずにいた。
むくりと羽を膨らませ、ダンディライアンは威嚇の姿勢をとる。
「言うに事欠いて、我輩に人間の真似事をしろと?」
「うん、真似事。たまにはいいんじゃねぇ?俺の代わりに仕事してくれると助かる」
怒るダンディライアンとは対照的にニコニコと提案するエリオット。当然、ますますダンディライアンの羽は膨む。
「貴様……我輩に遣いっパシリをさせようとは、いい度胸ではないか……」
フルフルとダンディライアンの体が震える。
と、そこへ、馬に乗った少年が近寄って来た。この集落の子どもで、エリオットとダンディライアンとも親しくしている。
「あー、またダンディを怒らせてる~。今度は何やらかしたんだよ、エリオット」
『やーい怒られてやんの』、と指を差されて指摘される。しかしエリオットは気にした風も無く、またも不思議そうに首を傾げた。
「いや、な。ダンディは俺の使い魔だろ?使い魔って、魔法使いの遣いっパシリをするから使い魔っていうんじゃねぇか。それなのに、遣いっパシリはヤダとか、おかしくね?」
言い終わる前に、少年は口を半開きにして固まった。『あ、言っちゃった』と心の中で呟くが、声には出ない。
今度こそ、ダンディライアンがその大きな翼を広げた。彼はエリオットの肩に乗っているので、必然的にその翼はエリオットの顔に直撃する。
「いって!何するんだよ、ダンディ!」
「それはこちらの台詞だ、このド阿呆め!『対等である』という契約を忘れたか!!」
ダンディライアンが憤慨するのも無理はない。
魔法使いであるエリオットが、悪魔のダンディライアンを喚び出し契約を結んだ際、ある条件を持ち出された。それは、魔法使いと使い魔の立場は、常に『対等』である。というものだった。
己の記憶が一切なく、他者の心臓を喰らってその記憶を得る悪魔。だが、いつまでも己の記憶だけがない。満たされない永遠の空虚を味わう生き物。ダンディライアンもそんな悪魔の内の一人だった。
喰うか喰われるか。エリオットに喚ばれた時、そんな殺伐とした世界から抜け出したい気持ちもあった。だが、その高い矜持故、ダンディライアンは『付き従う』ことを断固拒否したのである。
「じゃあ、友達ってことで!」
と、簡単に返事をしたのがエリオットと言う男で。ダンディライアンは、この時からすでに、何か己とは感覚がズレていると感じていた。
それでも、この男といると、いつの間にか安心している自分がいる。不思議なものだと、ダンディライアンは思っていた。
「悪い悪い」
全然悪いとは思っていない態度で平謝りするエリオット。ダンディライアンも、これ以上言っても無駄だと口を噤んだ。
使い魔が黙ったので、エリオットは、隣にいる少年を見下ろした。少年は、大きな丸い目をした、可愛らしい顔立ちをしている。少年の家族は、皆同じような顔をしていた。
「なぁ、クムク。今度、お前のお姉ちゃんとデートさせてくれよ」
エリオットがそう言うなり、少年――クムク――は顔を顰めた。彼のニヤけた顔を、まるで気持ち悪いものを見たかのような視線で見やる。
「絶対、ヤダ!!エリオットは、いっつも、ねぇねの尻しか見てねぇじゃんか!!」
「良い尻してるよな、クムクのお姉ちゃん」
クムクの怒り、通じず。クムクと似た可愛らしい姉の笑顔と、少し大きめのふっくらした尻が、エリオットの脳内に鮮明に思い出される。余計締まりのなくなった彼の頬に、横から鉄拳ならぬ、鉄羽が喰らわされた。容赦ない一撃である。
「子どもにおかしなことを言うでない、馬鹿者!」
「いってぇ!!殴るなよな~」
「貴様が悪い」
そっぽを向いて、ダンディライアンがしれっと言い放った。叩かれた頬を擦りながら、エリオットがクムクに視線を戻せば、べーっと舌を出している。
「やーい、ざまーみろ。エリオットの変態スケベー」
「あのなぁ、クムク。俺くらいの年の男は、みーんなスケベなんだぞ?」
妙に真剣な顔をして言い聞かせるエリオット、二十才。だが、ダンディライアンから見れば、それは単なる『開き直り』である。
賢いクムクも、それが分かっていて、『はいはい』と適当に聞き流した。
夕日が地平線に沈んでいく。辺りが暗くなるのに気がついて、クムクは思い出したように、エリオットに声を掛けた。
「なぁ、エリィ。今夜はどんな歌を聞かせてくれるんだ?」
先程の嫌悪の表情とは打って変わって、クムクの目はワクワクと輝いていた。
エリオットは、遊牧民の一族ではない。元は王都に暮らしていて、学校卒業と同時に、旅に出た。ギター一つを持って旅を続け、歌をうたっては寝床と食べ物を確保していく。そんな生活を、かれこれ二年続けている。色々な町にいったが、結局どこにも落ち着くことはなく、今は王都より遥か南の平原で、遊牧民の世話になっているというわけだ。
彼の目に精霊が見えるようになったのは六才の時だった。
しかし、なんでもマイペースで事を進めるエリオットは、王宮勤めなんてまっぴらごめん。そんなわけで、王都を離れるまで、自分が魔法使いであることは誰にも言わなかったのである。
(まぁ、王宮に行きたくなかったのは、他にやりたいことがあったから、なんだけどな)
物思いにふけっていたエリオットだが、『なぁなぁ』というクムクの呼びかけで我に返った。
そして、申し訳なさそうに、眉尻を下げる。
「悪い。今夜は約束があるんだ」
その返答に、クムクは不満の声を上げた。
「えー!!エリオットの歌は皆楽しみにしてるんだぞ!」
クムクの言う通り、エリオットの歌は、集落の民たちに気に入られていた。その大きな体からは想像し難い、透き通った美声と、語られる美しい言葉に、皆惹きつけられている。
一日の終わりに集落の皆が集まって、エリオットの歌を聞くのが、もはや習慣になってさえいる。
心底残念そうにしているクムクに、『本当にごめん』と謝りながら、後で族長にも一言言っておくか、と考えるエリオットなのであった。
その夜。月が輝く草原に、エリオットは立っていた。ここはディー王国の最南端。しかし何処にも境界線は見えず、目の前には、自分の立っている場所と変わりない草原が広がっている。
そっと手を伸ばしてみる。刹那、見えない壁に押し返されて、腕に僅かな痺れが走った。
手を引っ込めて、そのまま腕を組む。
「やっぱり俺一人じゃ無理か」
エリオットを阻む壁は、遥か昔精霊の愛が張った結界である。彼の肩に乗っているダンディライアンも、うんうんと頷いた。
「ともかく、奴を待て。……ほら、来たぞ」
ダンディライアンの声につられて結界の向こう側を見れば、暗闇から羽音が近づいてきた。月明かりに照らされて現れたのは、緑色の小鳥の群れ。その体は透き通っていて、空の星が透けて見える。小鳥たちは風の精霊なのだ。
その群れの先頭に、大きな影がある。近づくとその姿がはっきりと分かった。
「おーい!テン!こっちこっち!」
エリオットが手を振れば、大きな影は、一気にその距離を縮めた。結界をすり抜け、小鳥たちと共に、エリオットの前にやって来る。
精霊の愛の結界は、人間にだけ有効で、精霊や動物たちには関係がない。
テンは、大きな鳥の頭に、鍛えられた男の体、背中に一対の翼を持つ、平原の風の精霊だ。風の精霊テンは、地面に降り立つことなく、少し浮かんだ状態でその場に留まった。
「相変わらず賑やかですね?」
目を細めて楽しそうにテンが笑う。ダンディライアンは、フンと嘲笑を返した。
「五月蠅いだけだ」
「ハハッ、それもいいじゃないですか」
苦笑いを返し、テンはエリオットに向き合った。エリオットは、満面の笑みを浮かべ、テンに手を差し出している。
「準備万端!行こうぜ、テン!!」
「はい。僕の手を、離さないで下さいね」
テンが、エリオットの手を握った。ダンディライアンも、しっかりと彼の肩に掴まる。
エリオットは、息を深く吸い、そして、ゆっくりと吐きだした。
己の心臓の音を聞く。
血の流れを感じる。
肩から、ダンディライアンの魔力が流れ込む。
全てを、意識から切り離す。
体全部を放り投げて、意識は結界の向こう側へ飛ばす。
後は、風に任せるだけ。
目を閉じて、そして、開く。
びゅう、と一陣の風が吹き抜けた。
冷たい夜風が肌に染みる。足に、土と草の感触がある。掌に、確かな温もりを感じる。
意識と体が、結びついた。
「よし!」
テンの手を放し、エリオットは勢いよく後ろを振り返った。
目に映るのは、何処までも広がる平原と、小さく見える遊牧民の集落の明かりだ。
視線を下に落とせば、二、三歩先に、草を踏んだ跡がある。そこは、さっきまで自分が立っていた場所だ。
手を伸ばしてみる。案の定見えない壁にぶつかって、腕が少し痺れた。
それを肌で感じて、エリオットはぐっと拳を握った。
「いやったー!精霊の愛の結界すり抜けちゃうとか、俺って超天才!」
ガッツポーズを決めて叫ぶエリオット。だが、その傍らでは、テンがガックリと肩を落としている。
「あの、僕も協力したんですけど……」
「さも自分だけの実力のように語るでないわ、大馬鹿者」
さりげなくツッコミを入れる二人だが、エリオットは聞いちゃいなかった。これもいつものことだと、二人は顔を見合わせる。
『お互い苦労するな』、とは、無言の会話である。もはや言わなくても分かる仲だ。
こうして、魔法使いは使い魔と共に、こっそりと結界を抜けたのであった。
風魔法で空を飛び、エリオットが辿り着いたのは、大きな城の一室。位置は城の一番高い所。つまるところ、国王の部屋である。
窓の外から三回ノックする。一拍置いて、今度は二回ノック。これが部屋の主と決めた合図だ。エリオットがノックをすると、間をおかずに分厚いカーテンが僅かに開かれた。
窓が開けられて、カーテンの隙間から一人の少年が顔を覗かせる。艶やかな緑の黒髪が吹きこんだ風に揺れた。
「やっぱり空から来るんですね、貴方は」
綺麗な空色の両目を見開いて、感心したように少年は言葉を漏らした。
「あぁ、俺は魔法使いだからな」
得意気に胸を張ると、エリオットは腕を伸ばし、少年の頭を撫でた。少し力が強いし、整えた髪がくしゃくしゃに乱れるが、少年は嬉しそうに口元を緩ませている。
「人に見られては困ります。早く中へ」
部屋の奥から男の声がして、少年は慌ててエリオットの手を握って部屋に引きこむのだった。
部屋は、白と金を基調とした品のある部屋だった。家具の善し悪しなどエリオットには分からないので、『王様の部屋なんだから、たぶん超高いんだろうな』程度の認識しかない。
テーブルにつけば、一人の美丈夫が、丁寧な手つきで紅茶を入れてくれた。
こうして少年を訪ねるのは、初めてではない。好奇心だけで国王の私室に忍び込んで以来、何故だかエリオットは少年に気に入られて、何度も足を運ぶようになった。その内、この国の歴史などを教えてもらうようになり、それを歌にすることもあった。
エリオットはこれと言って緊張した様子も無く、カップを口元に持ってきて香りを堪能した後、ゆっくりと口に含んだ。
「エリオットは、本当にすごい魔法使いなんですね。母様は何度も国境に調査団を送りましたが、仕組みも分からず、誰も結界の向こうへはいけませんでした」
紅茶に手をつけることなく、年の割には大人びた顔で少年は話した。
エリオットは『まぁな』と自信満々で答え、カップを置く。肩の上のダンディライアンが『誰のおかげだ』と睨みを聞かせているが、それは綺麗に無視する。
「俺は、莉黎(りれい)の方がすげぇと思うけど。だって、十才なのに国治めてるんだろ?」
その言葉に、少年、莉黎は顔を俯かせた。膝の上に手を置いて、ぎゅっと拳を握る。
「僕はまだ国王じゃなくて王子です。実際に政をしてくれているのは、ここにいる清泉(しょうせん)ですし。僕はまだまだ、勉強不足で……。母様は僕と同じくらいの年に、既に王として力を発揮していたというのに……」
子どもには似つかわしくない重いため息を吐いて、少年はじっと下を見るばかり。
エリオットは、言葉が悪かったかと反省した。
「そういや、その母様は元気なのか?確か、田舎の離宮にいるんだろう?」
母の話題になると、エリオットは、顔を上げて幾分表情を和らげた。
「はい。病気を患うこともなく、母様も妹も元気だと、手紙が届きました」
「そりゃあ、良いことじゃんか」
「ええ。でも……」
笑顔も一瞬のことだった。莉黎は再び顔を曇らせてしまった。眉根を寄せて、今にも泣きそうな顔で、莉黎は必死に言葉を選ぶ。
「母様は、亡くなった父様を思い出すと悲しくてたまらないそうです。辛くて辛くて、食事も摂りたくないし、眠りに着くこともできないみたいです。……僕、顔が父様そっくりだって、よく人に言われるんですが……。もしかして、母様は僕の顔を見るのも、辛いんでしょうか?ぼ、僕は……母様に、苦しい思いを、させてしまうん、で、しょうか……」
最後の方は嗚咽交じりの声だった。傍らに控えている清泉が、優しく莉黎の肩に手を置く。紅茶に莉黎の小さな涙が落ちて、波紋が広がった。
「おい、貴様の所為で泣いてしまったではないか」
肩に乗ったダンディライアンが、くちばしでエリオットの頭を突く。だが、エリオットは特にうろたえるでもなく、残りの紅茶を飲み干した。
肩を震わせて、それでも声を出すまいと我慢する莉黎をじっと見つめる。
彼は泣くのが恥ずかしいから我慢しているのではない。泣くと清泉やエリオットが心配するから、必死に泣くまいとしているのである。
そんな莉黎の姿をエリオットは少し愛おしく思った。
優しい声で、エリオットは話し始める。
「莉黎の母様は、父様をすごく好きだったんだな。きっと、好き過ぎて失ったのが辛かったんだ。だからさ、母様は、すごく好きな父様にそっくりな莉黎を見て、すっごく『好きだな~』『失いたくないな~』って、思うんじゃねぇの?」
「…………え?」
莉黎の涙が止まり、少年は涙の溜まった瞳でエリオットを見つめた。それは答えを求める視線だった。ううん、とエリオットは唸りつつも、莉黎から目を逸らさない。
「家族と離れるって、不安だよな。俺も家族と離れて生きてるから、そう思う。でも、時々手紙がくると、安心するんだ。内容じゃなくて、手紙が来るってことに」
莉黎はまだエリオットを見続けている。まだ答えが分からないようだ。エリオットは自分の後頭部をガシガシと掻きながら、言葉を探した。
「その……連絡したいってことは、気になるってことだろ?気になるってことは、そいつとは縁を切りたくないってことだよ。あ、違ったか?ええと、どう言えばいいかな……とにかく、離れてても、常にお互いの心配をしてんだよ。きっと俺が何してたって、俺の両親と兄貴と妹は、俺を大事に思ってくれてる。だから、俺は離れてても自分に胸張って生きていけるんだ。お互いの存在を大事に思うってのが、家族ってもんじゃねぇかな。母様は莉黎が大事。莉黎は母様が大事、それでいいんじゃねぇかな」
「…………エリオット……」
語り終わったエリオットを、やはり莉黎はただ見つめ続ける。
困った顔をしたエリオットに、再びダンディライアンのくちばしがお見舞いされた。
「話がまとまっておらんではないか、貴様」
「いや、だってよ。俺、文学の先生じゃねぇし」
莉黎から視線を外し、ダンディライアンとどうでもいいやり取りをしていると、突然、ガタリと物音がした。二人が視線を向けると、莉黎が椅子から立ち上がっていた。
エリオットは自分が何か気に触ることを言ってしまったのかと思った。カッコイイ歌詞を考えるのは得意だが、人にアドバイスするのは余り得意ではない。
どう謝ろうかとエリオットは考えを巡らせたが、それは無用の心配に終わった。
莉黎はエリオットのところへ歩み寄り、テーブルの上に置かれていた彼の両手をぎゅっと握った。
その手は、小刻みに震えている。
「僕、母様も、妹も大好きです。手紙にも、『莉黎を愛していますよ』って書いてありました。僕……もう、悲しい想像はしません。だって、母様のこと、とっても好きだから。僕が此処に立っていられるのも、母様がいてくれるおかげだから」
声はまだ涙声だった。けれど、真っ赤な頬を緩ませて、莉黎は笑っている。その笑みに、エリオットも安堵の胸を撫で下ろした。
莉黎はエリオットの手を放すと、後ろに控えている清泉に向き直る。
「エリオットが気づかせてくれました。僕は、僕のことを大事にしてくれる人たちがいるからこそ、堂々と生きていけるんだって。清泉も同じです。いつもありがとう、清泉。僕、これからも、王子として、胸を張って生きていきます。母様がいつ帰ってもいいように」
幼い王子の決意に、清泉は頷いた。そして、彼はその場に跪き、眩しそうに王子を見上げる。
「御立派です、殿下。流石は女王陛下の御子。貴方に恥ずべきところなどありません。貴方は、この国を治めるに相応しい人間なのです。勝手ながら、この清泉も、殿下を愛しているのですよ」
いつも控え目に、硬い表情で傍にいる清泉にしては珍しく、優しい微笑みを浮かべている。
その笑みに、エリオットとダンディライアンは絶句した。
確か、この清泉は『男』だったはずだが、慈愛に満ちた笑顔はまるで『母』だ。基本女ばかりに目が行くエリオットは、清泉をまじまじと見たことなどない。だがしかし、この男が国では『女と見紛う美貌』と謳われているのを、今やっと思い出すのだった。
「エリオット殿。貴方もたまには良いことをおっしゃいますね」
さりげなく嫌味を言い放つ清泉。だが、それがエリオットに通じるはずもなく、彼は嬉しそうに声を上げて笑った。
「おい、貴様、褒められてないぞ」
というダンディライアンのツッコミは聞こえていない。
「いやぁ、流石俺。清泉もいい奴だよな。紅茶うまいし。これで乳と尻がついてりゃ、すっげぇ俺の好みなんだけど」
刹那、空気が凍った。
エリオットには何の悪気も無い。だからこそ、性質が悪い。本人はこれで最上級に褒めているつもりなのである。
肩の上でダンディライアンがため息をついた。この発言には、莉黎も苦笑いを浮かべるしかない。
跪いた姿勢のまま、清泉は上機嫌のエリオット見上げる。口は笑みの形を作っているが、眉が怒りにヒクヒクと動いていた。
「前言を撤回致します。もう二度と殿下に会わせません」
その後、エリオットは清泉に窓から放り出され、風魔法で浮かぶことでなんとか重傷を免れた。
「エリオット殿は、殿下の健全な教育の邪魔です」
去り際のこの台詞に、ダンディライアンは『もっともだ』と頷いたが、エリオットは訳が分からない、と首を傾げる。とりあえず、空から大きく手を振って、
「また来るぞ~」
と、言い残して、ディー王国へ帰っていくエリオットでだった。
国境の平原に戻ると、テンが待っていてくれた。
もう月も傾き始めている。いつの間にか夜も更けたようだ。
結界に軽く触れて位置を確かめてから、エリオットはテンに向かって手を差し出す。
結界をすり抜けるには、ダンディライアンの持つ膨大な魔力と、風の精霊であるテンの導きが必要だった。
しかし、テンはすぐにエリオットの手を取らなかった。差し出しかけた手が、宙に浮かんだまま止まっている。
「どうしたんだ?テン」
彼が首を傾げると、テンは口を開き、一度閉じて、また開いた。言いにくそうに、彼はこう言った。
「ねぇ、エリオット。王宮から追われるのが嫌なら、ずっとこっちの国にいたらいいじゃないですか。どうして、ディー王国に戻るんです?」
テンは、いつも疑問に思っていた。エリオットは宮廷魔法使いになるのが嫌で、魔法使いであることを長いこと黙っていた。そんなに嫌ならば、絶対に捕まらない、結界の外の国にいればいいのだ。
エリオットは自由を愛する性質の男だ。なんでも自分のペースでやるし、他人に左右されるのを好まない。土地や物にも、強い執着はない。だから、ディー王国そのものに、エリオットがこだわっているとは、到底思えなかった。
しかし、エリオットは莉黎に会いに来る以外、この外の国に留まろうとはしなかった。
尋ねられ、エリオットは、また頭の癖っ毛を自分の手でぐしゃぐしゃにして、テンを見つめた。その顔は、どうしてそんなことを聞くのか分からない、といった表情である。
「だって、王国には父さんも母さんもいるだろ?シル兄も、ミリィもいるし。だから、俺の帰るところは、あそこなんだよ」
その答えに、テンは眉根を寄せた。やはりこだわる理由が分からない。
そんなテンの肩に飛び乗って、ダンディライアンは耳打ちをする。
「こやつは、好き勝手生きているように見えるが、実は家族第一の男だ。この男の、唯一の執着と言ってもいいかも知れんな」
「なるほど、そのようなものですか」
意外な一面を知った、と、テンは驚きの声を漏らした。
(そもそも、我輩と契約を結んだのも、行方知れずの兄を捜す為だったからな)
そこまでは、特に言う必要もないだろう。そう判断してダンディライアンは口を閉じた。
再びテンがエリオットに視線を移すと、彼は不満そうな顔でこちらを見ていた。
「なぁに、こそこそ話してんだよ?俺は仲間外れかぁ?」
ふてくされた子どものように、つま先で地面を蹴るエリオット。
その姿を見たダンディライアンは、一言、こう答えた。
「貴様が寂しがり屋だという話だ」
面白そうに、酷く優しく、ダンディライアンは微笑むのだった。
南の平原に、一人の魔法使いがいた。
そして、その肩には、いつも虹色の長尾を持つ黄色の鳥がとまっていた。
緑豊かな大地の上で、彼らは楽しく自由に生きていたという。
終わり。
平原の魔法使い @hinataran
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