優しくて弱くて狡い

西乃狐

優しくて弱くて狡い

 平日の午後。思いがけず由樹斗ゆきとから電話があった。これから行ってもいいかって。

 まだ仕事中のはずなのに。

 いいよって返事して、電話を切って、会える嬉しさは一瞬だけで、怖くなって、胸のあたりがきゅうって縮む感じがして、心がすごく痛くなった。


 出かける予定も無くて、すっぴんでショーツとTシャツだけでごろごろしてたから、ショーツだけ可愛いのに履き替えて、やって来た彼に飛びついた。


 彼が何かを言う前に唇に吸いついて、吸いついたまま腕を伸ばして鍵をかけて、抱きかかえられるようにしてベッドに倒れ込んだ。


 レースのカーテン越しに射す、柔らかい陽の光。そんなところで身体を晒すのは、何度回数を重ねてもやっぱり恥ずかしい。でも、そんな恥ずかしさも、心の痛みさえも、すぐに快感に押し流されてしまう。彼の指はもどかしいくらいに繊細だ。そして、わたしの弱点を知り尽くしている。


 わたしが何度も昇り詰めて、やっと彼が果てたあと、いつもならしばらく動けないところだけれど、今日に限っては頭と身体がすうっと冷めていくのが分かった。


 そんなことを彼には悟らせないように、彼の腕を取り、腕枕にして身体を寄せた。耳元で、声よりも空気を送り込むようにして囁く。


「仕事は?」


「さぼり。直帰するって電話入れた」


「め、」


 珍しいね、と言いかけて言葉を呑んだ。


「そんなにわたしに会いたくなっちゃった?」


 茶化すように笑ってみたけれど、彼の表情は崩れない。そんなわけないことくらい、わたしにだって分かってる。きっとわたしの顔だって、表情筋の試運転みたいだっただろう。


 彼とは夜の街で知り合った。いや。知り合ったなんてもんじゃない。わたしが前の男の子どもを妊娠して、捨てられて、子ども堕ろして、やけ酒飲んで、道端にぶっ倒れていたところを拾われたんだ。


 彼の方もちょうど恋人と別れて淋しい時期だったらしくて、わたしたちはすぐにくっついた。ごはん食べたり、カラオケ行ったり、動物園行ったり、セックスしたり。


 彼と知り合って、もうかれこれ五年にはなるかもしれない。


 その間、彼はときどきわたしの前から姿を消した。完全に行方不明になるわけじゃない。彼はこう見えて銀行員なんていう堅い仕事をしている。わたしと違って身元がしっかりしている人だ。


 彼がいなくなる兆候も分かるようになってきた。


——珍しいね。


 わたしが思わずそう言ってしまうようなことをしたあと、彼はわたしの前からいなくなる。そして、しばらくすると戻って来る——。少なくとも、これまでは戻って来た。


 でも——。


「ピル、ちゃんと飲んでる?」


「飲んでるよ。ゴムかピルか、どっちかだけでよくないって思うけど、由樹斗が心配するからちゃんと飲んでる」


 ピルは彼から渡されている。ちゃんと飲んでくれって。じゃなきゃしないって言うから、仕方なくちゃんと飲んでる。それでも彼は必ずゴムも併用する。


 とにかく生でやりたがった過去の男たちとは大違いで、誰が聞いたって、わたしのことをそれだけ大事にしてくれているんだって解釈するはず。


 でも——。


「悪いな」


「ううん。それだけ大事にしてくれてるってことだよね」


 答えが欲しい問いに、彼は答えてくれない。


「急に来て悪かったな」


 大事にされてる?


「大丈夫。わたしはいつでもウエルカム」


 そうじゃない。


 彼は責任を取りたくないだけだ。そんなこと、わたしだって本当はよおく分かってる。


「いつでもウエルカムだけど、由樹斗が普段と違う行動をする理由は察しがつくから、喜んでばかりもいられないよ……」


 不覚にも涙声になりそうだったので、慌ててまた彼の唇に吸いついた。


 彼はされるがままになっている。きっとわたしが泣きそうなことに気づいてる。

 彼は優しい。


 どうにか涙が引っ込んだところで顔を離した。


「好きな人ができたんだね?」


 彼は優しいけど、弱くて狡い。わたしに言わせておいて、頷きもしない。きっと今日もセックスしちゃったことに罪悪感を感じているんだろう。


「そうなんでしょ?」


 念を押したら、やっと小さく頷いた。


「どんな人?」


「まだ、よく分からない。でも、どこかで会ったことがあるような気がする人、かな」


 なにそれ。馬鹿みたい。


「ふーん……」


「だから、もうここには来ない」


 腕枕の上で身体の向きを変えて、背中を向けた。狡い彼は後ろから抱きしめてきた。


「今度は、上手くいくといいね」


 それがわたしの本心なのか。もう自分でも分からない。


「……」


「でも、……いいよ」


「え、何?」


「駄目になったら、また、ここに戻ってくればいいよ」


「……でも、」


「来て……その人と、駄目になったら……また、わたしのところに戻って、来て……」


 もう涙声も誤魔化せない。

 馬鹿は、わたしだ。


「絶対に、戻って来てよ……」


(了)

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